世の中を眺める視点として地球(自然)が認めるものと人類が認めるものに大別されるように思います。人類が認めるものというのは、この世には人類しか存在しないという考え方で人間都合のみの社会で語られる正論や真実などのことです。
それに対し、地球(自然)が認めるものというのは歴史の篩にかけられ淘汰され循環の理を一切邪魔せず、人間も全体の一部であるといった全体調和したもののことです。
人間は教科書をはじめ、人類という枠内でこの世に社会と都市を形成してきました。しかしどんなに人類が道具を用いて便利な世の中を自然から切り取ったといっても、他の生き物を食べて生きていますし、自然の恩恵なければ生きながらえていくこともできません。それは宇宙に出てみてわかる自明の理です。
しかし、人類が人類だけを中心にこの先も物事を進めていくのなら必ず資源は枯渇し文明が崩壊するのはわかっていることです。これは過去に文明が滅んだ歴史を洞察しても人類は人類同士の中でのみ世の中を構築してしまうと結局は傲慢さや欲望にまけて自らで崩壊を招いています。
つまり人類のみで構成する文明はいつの時代も傲慢さを招き、地球や自然を一切邪魔しない全生命圏の共生と貢献の循環の生き方が謙虚を招き文化を醸成していきます。
かつて日本の大部分に住んでいたといわれるアイヌの人たちは、自然の利子で生活を営み、自分たちが自然に貢献することで得られた利子を少しずつ積み立てそれを子孫に譲り暮らしを充実させていきました。
どれだけ長く生きて、どれだけ心豊かに仕合せに生きられるかと考えればこの生き方が最善なのは誰でもわかります。実際には、利子ではなく元本に手をつけて借金ばかりを増やし借りれるだけ借りて返済もせずにすべて使い切り先送りして踏み倒そうという発想では必ず終わりがきて滅ぶのは客観的に観れば誰にだってわかります。
実際には日々に報道される環境汚染の現状をみていたり、国家間の紛争や民族対立などをみていたら、もうここまで来たらどうしようもないと目を逸らしたい気持ちもわかります。競争させられた孤独で不安な世の中で必死で守ろうとするのも確かに事実です。
しかし人類の素晴らしさは何よりもよくないと思ったなら先人の生き方を学び、何がもっとも人類にとって価値のある選択だったのかと歴史を先生にしていくことで理性と本能のバランスを保ち間違いを正していける生きものであるところです。
私は只今も自分なりに暮らしを甦生していますが、これは決して狭義でいう自分の生活だけを甦生させようとしているのではありません。広義でいえば、永く遠い懐かしい生活を甦生させることは人類が本当の意味で繁栄と発展を約束されていた生き方に気づきそれを人類が取り戻していくことです。
それは敢えて能力があるけれど使わないという決断、敢えて効率的である方を選ばないという決断、敢えて少し損をしてでも徳を積もうという決断をすることを暮らしの甦生であると定義するのです。
この暮らしという言葉もそれぞれで使っている人次第で言葉の定義も異なります。しかし人類にとっての本来の暮らしとは、子々孫々まで永遠に幸福で生きていくためのものであるのは古今普遍的なものです。
時代が変わっても、変えてはならないものがあるし変えていかなければならないものがあるのです。子どもたちの仕合せを願い、暮らしの甦生を続けていきたいと思います。