視点や観点

万物は流転するように、すべての世の中は変化が已みません。変化しないことがないのだから変化に対して自分も順応していく必要があります。その順応とは、もちろん身体的なものや精神的なものもありますが自然界では時間をかけてじっくりと行われていきます。

春夏秋冬があるように、虫たちをはじめ動物たちは変化に合わせて四季のめぐりと生死を繰り返します。こういう自然と順応するというものは、そもそも地球の生命としての順応ですから私たちに本能的に備わっているとも言えます。

しかし、人間はまた別に自然から反して変化をする生きものですからその順応はゆっくりとじっくりとはなかなかいかないものです。そういう変化の時には、挑戦や冒険がつきものですが実際には視点や観点の転換というものが必要になります。言い換えれば物事の観方の転換というものです。たとえ本来の外的状況は一切変わっていなくても、自分の内的視点を変えることですべてを変化させるという具合に変化に順応するのです。

実際にこの世の中の常識というものは、その限られた範囲の中である外的状況からおおよそこうだと決められた価値観の中でそこに関わる人々によって創り上げられてきたものです。その常識の中にいてみんな暗黙的に、同じ理解をし安心していますが、次第にそれではおかしいと気づく人たちが現われ修正ややり直しが必要になるのです。

そうやって常識という意識下で人間が仮想で練り上げた空間に変化が求められるとき、私たちは別の仮想の意識で新しい空間を創造しようとします。その時、私たちが具体的に変化と呼ぶものはこの意識の転換、視点の転換により行われるのです。

変革者や、チェンジリーダーは新しい視点を与える人物です。自然の道理に精通しながらも、時代の変化にあわせて視点や観点を与えるのです。そういう人物が時代を創り、また人間は新しい歴史を創ります。常識もまたその時に塗り替えられます。

地球という舞台の中で、如何に私たち人類はその場その場の即興劇を演じるか。そこに物語があり、そこに意味が顕れます。

だからこそ磨くべきは、視点観点の変換の場数であり生き方の実践です。

引き続き、子どもたちに面白い時代を譲れるように挑戦と冒険をたのしんでいきたいと思います。

言葉の研鑽

すべての言葉の意味には、その言葉を意味づけて定義づけた人がいます。私たちが現代に使っている言葉もまた、その言葉の意味になるようにしたのは最初にその言葉の意味を広げた人たちや、それを解釈して使った人たちによって変化していきます。

同じ言葉を使っても、その人の解釈次第ではその言葉の意味は全く異なります。だからこそいちいち使っている言葉の意味を定義し、その言葉の本当の意味は何かと深めていくことが最終的には自分というものを形成し、その自分を伝えるための大切な言葉を学ぶことになります。

この言葉は、道具と同じでどのように使うかで価値が異なります。意味を正しく理解して使う人は、言葉を選んで丁寧にその意味の方を語りかけてきます。しかしその言葉を使う人の言葉を直接聞いたとしても、経験や意味が理解できなければ言葉を聞いても理解することはできません。

表面上でわかった気になったとしても、その言葉の重みや深み、その本当の意味は同体験や経験、その人の言葉に対する意味づけの質量で異なるからです。

だからこそ、その人が使っている言葉の意味を理解していくことはその人の背景にある目的や本質を知る事であり、自分の使っている言葉を刷新して本来の意味に定義していくことが自分自身をブラッシュアップさせていくことにもなります。

使い手によって重みが変わり、聞き手によって意味が変わる。

まさに言葉とは、確かに便利な道具のように見えて大変に不便な道具であるのです。

人間の歴史もまた同様に、暗記して覚えたものと実際に伝道や伝承されてきた意味のものとではまったく異なります。言葉は確かに便利ですが、本質を覆い隠すという不便な要素があるのです。

だからこそ言葉の背景を学ぶことや、その言葉の真意を深めること、言葉の定義を決めることが言葉を常に磨き、言葉の本当の価値を高めていき、その言葉がいつまでも真実のままであるように自己研鑽していくことが学問になっていくのでしょう。

言葉を通して私たちは知識を得ますが、智慧は得ません。智慧は言葉と行動と一体になったときにのみ得られるものです。例えば道具はそのものと一体になった時のみ、本物の道具になり道具の使い手もまた道具の一部になっていくのです。言葉も然りで、知行合一に生きる人が使ってのみ本物の言葉になるということでしょう。

本物の言葉を使う人は、本物の人生を生きています。

言葉に翻弄されないように意味を深め、言葉の研鑽を続けていきたいと思います。

本質的な生き方

私は色々なことを深めては取り組みますから他人から多趣味な人といわれることがあります。しかし自分では色々なことはやるけれど、趣味でやっていると思ったことは一つもありません。もし趣味というのなら、炭くらいでしょうがその炭もまた子どものことを思ってはじめたものです。

そもそも目的をもって取り組んでいると、その手段が色々とあることに気づくものです。もしも手段だけで目的がなければそれは単なる趣味なのかもしれませんが、目的を最優先していくのならばそれは趣味ではなく手段の一つということになります。

私は子ども第一義という理念を掲げ、初心を忘れないように日々を過ごしています。そうすると、その理念や初心に関係する様々な出来事やご縁に出会い、それを深めていくと次第に様々なものに行き着きます。その過程で、伝統技術を学んだり、ビジネスを展開したり、古民家甦生をやったり、サウナをつくったり、むかしの稲作をやったり、ブロックチェーンをやったり、多岐に及んできます。それを周囲の方々はそこだけを切り取って多趣味といいますが、私は決して趣味でやっているわけではないのです。

しかしやる以上、全身全霊の情熱を傾けていく必要があります。なぜならそれが目的であり、それが理念であり初心の実践につながっているからです。仕事だからとか、生活のためだから取り組むのではなく、それが目的だから取り組む価値があるという具合なのです。

そして一旦取り組んだのならば、その取り組みの手段の意味が確かに実感できるまではしつこく諦めないで実行していくようにしています。なぜなら、手段は目的に達するための大切なプロセスであり、そのプロセスの集積が本来の目的の質を高めていくことを知っているからです。

目的を磨いていくためには、様々な手段によるアプローチが必要です。あまりにもジャンルが増えてジャンル分けできなくなり、気が付くとただの「変人」と呼ばれ始めますが、手段だけを見て変人と決めつける前に、この人の目的は本当は何かということを観る必要があるのではないかと思います。変人は須らく、目的に生きる人が多いように思います。

言い換えるのなら本質的な生き方を志す人ということでしょう。

自分に与えられた道を、オリジナリティを追求しながら楽しみ味わっていきたいと思います。

ミョウバン水の智慧

昨日は、古民家甦生に自然塗料の定着剤にミョウバン水を用いて仕上げて行いました。自然塗料の中には、水蒸気で剥がれていくものもあります。また風化していきますからなかなか定着しないものです。

例えば、渋墨などは松煤を使いますが煤ですからいくら発酵をしていたとしても時間が経てば水で流れてしまいます。そこに柿渋を上塗りすれば定着します。他にも弁柄などは土でできた塗料ですから同様に水で流れます。それにミョウバン水を用いれば定着します。

そもそも明礬(ミョウバン)とは何かと思われると思いますがこれは鉱物を化学反応させてつくられたものです。世界大百科事典第二版によれば「火山の昇華物として産することが多いが,黄鉄鉱の酸化で生じた硫酸のため,長石類が変成して生成することもある。またミョウバン石と呼ばれるものはKAl(SO4)2・2Al(OH)3のような組成の塩基性塩であって,ミョウバンではない。カリナイトやミョウバン石は硫酸酸性溶液から結晶させるとミョウバンが得られる」と書かれます。具体的には鉱脈から採れたミョウバンを炉に入れて焼き、水に入れ不純物を沈殿させてその不純物を取り除いた溶液を加熱し、水分を取り除いて結晶化させたものがミョウバン(硫酸カリウムアルミニウム)となるのです。

このミョウバンの歴史は古く古代ローマでは、制汗剤(デオドラント)、消臭剤、薬品にも多く使用されている原料です。

特にイタリアにおけるミョウバンの歴史は古く、ローマ時代から布の染色の際の色止め剤や、防腐剤、皮なめし剤として大切に疲れました。実際にはポンペイ遺跡からは皮なめしに使われた場所からミョウバンが使われた形跡が残っています。さらにメソポタミア、エジプト、ギリシャが産地だったこともあり遠方から運ばれる非常に高価な輸入品のひとつでした。羊毛業が盛んだったフィレンツェでは染色のためミョウバンは特に重要だったといいます。

現代でもミョウバンを活用する智慧があり、定着剤だけではなくミョウバン水にして様々なところで活用されています。特に殺菌効果は、体臭から、あせもやニキビまで、幅広い肌、体の悩みに効果を発揮しています。さらにお風呂に入れれば簡単にミョウバン泉にもなります。洗濯に混ざれば半乾きの臭いや汗臭さなどもなくなります。

人類はかつて様々な鉱物を研究して活用しましたが、きっと染料の定着からはじまり消臭を知り、肌にもよかったことから繊維や薬となっていったのでしょう。化学というものは、組み合わせによる芸術とも言えます。しかしそこには使われてきた長い歴史があってこそ、真の実力や活用法を見出せるようにも思います。

安易な化学ではなく、人類の歴史が証明する化学を学び直してみたいと思います。

変化と日常

日常という言葉があります。人は何を日常にしているかで、その中心の暮らしが分かってきます。人によって日常は異なり、どのような暮らしを日常とするかでその人の人生の質もまた異なってくるように思います。

苛酷に仕事をする人を日常だという人もいれば、ゆったりと趣味を味わう時間を日常という人もいます。人生のそれぞれのステージで、日常は異なり、それぞれの状況や環境の変化と共に日常もまた変わってきます。

そう考えると、日常とは変化が起きる前の姿になることを言うように思います。よく災害に遭う時、元の日常に早く戻れるようにといわれますがこれもまた変化の前の元の暮らしになることを意味しています。

人間は誰しもが穏やかに心安らぎ自分が過ごせる日々を求めているものです。それが変化があったことで、如何に有難い日々だったかに気づくというものです。

日常というのは、実はとても平凡ですが何よりも感謝や有難さ、仕合せを感じる時間であったということなのです。

人は変化があることで、改めて日常の有難さを知ります。実は当たりまえになってしまっていた日常こそが何よりも幸せな日々を送れているということをです。そう考えると、私たちは日常から離れてしまうことではじめて日常に気づくことができるのです。そして変化があるから、変化する前の状態に気づくということです。

変化というものは、変化する前後で人間はその時々の今の自分と向き合い、自分が何を大切にしているか、どのような人生を送りたいかなどを学ぶのです。

このままがいいといくら思っても、無常にも時は必ず過ぎ去っていきます。変わらない日々はなく、常に日々は変わっていきます。だからこそ変化に対して努力し精進して変わり続ける日々に対して、自分の日常を高めていく必要があります。

それは有難い日々を深く味わったり、かけがえのない日々を感謝で過ごしたり、その日、一日を人生の一生のように真摯に自分の心と共に道を歩んでいく必要があるように思うのです。

変化と日常は自分自身の人生に大きな示唆を与えてくれます。

心がマンネリ化しないよう、日常を磨き、日常を高めていきたいと思います。

意味の存在

世界には様々な歴史があります。その歴史の中には、それぞれに大切な意味があり物語を継承しています。そしてその物語はこの今の私たちにつながりその意味は私たちが世界に伝承することで人類の発展に貢献しているとも言えます。

その物語の中には、人類としてどうあるべきかという挑戦と冒険が溢れています。ある人は、こう生きた、またある人はこう生きたというものが、様々な組み合わせによって遺ってそれを受け継いでいくのです。

これは人類に限らず、すべてのいのちに必然的に存在する使命でもあり生死を度外視して私たちは「どのような意味を存在したか」ということを試みているのです。

その意味は、目に見えて残っているものとすでに消失して目には見えなくなっているものもあります。しかし、その「場」で行われた歴史や意味は確かにその空間に時を超越して遺っているように感じるのです。それは生きている私たちが、無意識に伝承されているいのちの様相であり、いのちある限り様々な物語や意味はずっと続いているのです。

近代に入り、ありとあらゆる人種が融和し融合し混然一体になってきています。数々の意味がここにきて合わさってきているとも思うのです。その中で、伝統というものはそれぞれの意味を純度の高いままに保存してきた記憶媒体の一つでもあるのです。

これらに触れることで、かつての純度の高い精神や魂から確かな意味や物語を継承する人々がいます。彼らは、新しい時代を創造する人類の叡智を使いこなす子どもたちです。

私が伝統の継承にこだわるのも、いくら宗教とか言われても構わずに「場」を伝承しようとするのもまた意味の存在を守るためなのです。これは私だけではなく、いのちあるすべての生命がやってきたこと、人類の歴史を鑑みればなぜ大切なのかは必ず時間が経てばわかることだからです。

意味の存在を見つめることは、自分自身を深く見つめていくことです。残された時間、少しでも大切な意味の存在を伝承できるように伝道につとめていきたいと思います。

坩堝と襤褸

カナダに来てモザイク社会を洞察していますが、特にこのバンクーバーは多様な国の人たちがひしめき合って暮らしているのがわかります。アメリカにも人種のるつぼという言い方や、人種のサラダボールだという言い方もあります。

つまりは、混じっていて融合しているのかそれとも混じっているけれど独立しているのかという議論です。カナダは、それをモザイクといい混じっているけれども交わっていないというか、ありとあらゆるものを組み合わせでいいではないかという考え方なのではないかとも感じます。

それくらい移民の増加するスピードも速く、広大な国土があり、隣国アメリカの影響を大きく受ける地理的なものも影響しているようにも思います。

このモザイクという言葉の意味は、フランス語で「小片を寄せあわせ埋め込んで、
絵 (図像) や模様を表す装飾美術の手法」と記されます。石、陶磁器 (タイル)、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施されるものとして古くから歴史的にも様々な宗教関係の建物や芸術品にも用いられています。なんとなく、組み合わせて観える全体像でいいという敢えてはっきりしないところで魅力を出していこうという具合を目指しているのかもしれません。

ここ数年、先史時代の人々の遺骨から採取したDNAの解析が進み、もともと欧州人は人種の坩堝の遺伝子を持っているということが分かってきています。古遺伝学者のデビッド・ライク氏の研究結果では、欧州には先住民などそもそもおらず、自分たちの純粋なルーツを見いだそうとしても、そうした概念が無意味であると発言しています。

そう考えてみると、最初から混じっていてなんとなく近くでそれぞれに独立して暮らしていたという関係であったというのは欧米人の生活を見ているとなんとなく想像できます。個人というものや、コミュニティをお互いを尊重して距離を持つことで自分は常に坩堝移民として移動しながら生計を立てていたという生き方は、今の時代も変わっていないのかもしれません。多様な民族を一つにするのではなく、それぞれの民族のままに同じエリアで混じり共生するという坩堝という智慧は、遺伝子の中に組み込まれているようです。

これといった土地を決めずに、自分たちの集団でそれぞれの場所に移住しそこで暮らしを立てていく。そういう坩堝として生き残る智慧をもっていた民族が、国家というものを形成すると今のEUやカナダ、アメリカのようになるのかもしれません。

しかし実際には貧富の差や、肌の色による差別や、様々な問題は決してなくなってはいません。どのようにモザイクにしていくのか、カナダの実証実験はこれからの未来の新しい世代のつながり方を見極める一つの材料になるようにも思います。

日本にはモザイクではなく、古い布を組み合わせた襤褸という思想があります。使い古されたものを組み合わせて、それを勿体なく大切にいのちを使い切るという発想です。新しい組み合わせではなく、古い組み合わせというものに私はどうしても懐かしい未来を感じます。

これから新しい世界に、自分の信じるものが何かということを具体的な取り組みとして発信していきたいと思います。

 

人類共通の智慧

昨日は、UBC人類学博物館(MOA)と新渡戸記念庭園に行くご縁がありました。この二つはブリティッシュコロンビア大学の中にあり、緑がとても豊かな広大な敷地にゆったりと佇まいを備えています。

トーテムポールの展示や先住民族によるアートを含め、アフリカ、オセアニア、アジアなど世界の人類学のコレクションを収集し、約53万5000点もの収蔵品を持つ博物館です。とても一日ですべて見学することはできませんが、人類に共通するものを理解するのには充分な場所です。

特に印象深かったのは、世界中の民族の「暮らしの道具」が展示されていたことです。そこには人類に共通する確かな文化や思想、そして生き方や考え方が凝縮されていました。

例えば、工芸品であれば必ず自然物を用いますがその特徴を活かし修繕がきくもの、また自然循環を維持できるもの、その土地の風土で耐えるもの、用途などに合わせてデザインされています。そのデザインからは、具体的な暮らしが想像することができ古代の人たちはどのようにして自然の中で豊かに生活を連綿と続けてきたのかがわかるものばかりでした。

そのほかにも、日本でいうところの鬼や精霊、自然の畏怖などを霊力を宿す大木や巨石、また色などを用いて魔除けや祈り、荒魂や和魂のようなことを祭祀によって行っていました。ハレとケにあるように、暮らしの中で発生する様々なバランスをとるための工夫が文化の中に存在していました。

またこの人類博物館の面白いのは、先住民たちのトーテムポールなどがありその住居などを展示しているところでした。アイヌ民族の住まいを以前、見学したことがありましたがここカナダの先住民の住まいもまた木造建築でありまるで神社のような大黒柱を拵え、棟と梁と屋根を原型に、木の中で住まうように設計していました。その古代づくりは、日本の建築の原型ともいえるように思います。

人類学を深めれば、人類の原型が何かということが次第にわかってきます。人類がなぜ今、こうなったのかを考察するにおいても人類はかつてどうだったのかを考察するのは大変な意義があります。この大学の中にこの建物があること自体が、モザイク社会に挑戦するカナダの未来においても大きな影響があることを実感しました。

そして新渡戸庭園もその近くにあるのですが、日本の庭園以上に日本を感じさせる素晴らしいものでした。何が素晴らしいのかといえば、何を基本に据えて庭園を構成したのかを拝見することができたからです。海外で日本の文化、その庭園というものを定義するときに、必要不可欠なものが存在します。

私も古民家甦生で箱庭を創るとき、これだけは外せないものは何か、そして何を基準委するのかという心得のようなものを自分なりに構成していきました。それはかつての歴史的建造物を観察し共通するもの、その意味や哲学などを学び直しました。

ここの新渡戸新庭園は、カナダにありながらも日本の気候というものを感じられるものになっていました。そういう意味で目から鱗が落ちた思いがしました。むかしの都は風水を重んじて建てられたといいますが、この風水は庭づくりにもまた欠かせないものです。

どのような光が入り、どのような風が吹き、どのように水がゆらめくか、その一つ一つを演出するのに、あらゆる土、火、風、木、石、水などを調和させていきます。その調和の中心に日本の気候を置くというのは大変な叡智であろうと思います。

ここで学んだことを、今後の暮らしの提案と展開に結びたいと思っています。大きな学びの機会をいただき心から感謝しています。

時差ボケの治癒

日本からヨーロッパからカナダに短期間で移動してきましたが時差ボケが酷い状況です。この時差ボケは辞書で引くと、「時差ぼけ(じさぼけ、英語: jet lag)とは、数時間以上の時差がある地域間を飛行機などで短時間で移動した際に起こる、心身の不調状態を称する一般通称。 それが著しい苦痛や体調不良を伴う場合は時差症候群または非同期症候群と呼ぶ。」と書かれます。

具体的には、自律神経がうまく整わず一日の生活リズムが崩れてしまう状態です。寝たいときにうまく眠れず、食事の時間にお腹が空いたりすかなかったり、他にも突然ボーっとしたり、体が上手く動かせなかったりします。

人間は無意識にも時計とは別の時間を持っています。この時間というものは、生命の時間でもあり自分というものの時間です。時計に合わせて生きているうちに気づきにくくなりますがこの自分の時間を持っているからこそ私たちは地球や風土と溶け合うことができるように思うのです。

朝になれば太陽が出て、夜になれば月や星たちが見守る。朝、昼、夜の風はまた異なり、そして自然が奏でる様々な音もその時々で変わります。季節のめぐりと、リズムが自然に適ってきます。これはとてもゆったりと悠久の時の流れです。

しかし短期間に、朝陽を何度も何度も浴び直したり、自然の奏でるものが別の場所で移動すると自分の時間が不調和を起こしてしまうこともあります。脳みそで判断できるグリニッジで統一した世界時間はスマホをいじればすぐに調整できますがもう一つのいのちの時間や自分の時間は簡単に調整はできないのです。

つまり本質的な時差ボケというのは、自然のリズムから外れてしまうということなのでしょう。これは部屋に閉じこもって生活をしたり、自然のリズムを無視して生きてしまえば何処にいても発生するものです。

自然のリズムに合わせて生きることができれば、時差ボケは治癒されていきます。

自然と時差がなくならないように、常に時差を見極める暮らしを味わっていきたいと思います。

モザイク社会

カナダのバンクーバーに来ていますが、改めてこの国の姿について観察してみると面白いことがわかります。もともとこのカナダは人口約3,724万人(2018年の“国民一人あたりの国土が最も広い国”として有名です。気候もカナダ北部は寒さが厳しいツンドラ気候で北極圏に位置するため、人口の75%はオタワ、トロント、バンクーバーなど比較的温暖な地域にいます。有名な観光地はロッキー山脈やナイアガラの滝など雄大な自然があり、今も世界中から多くの観光客が訪れています。

先住民にあわせてイギリス・フランスの植民地化ののち、カナダとして独立してからも数多くの移民が訪れつづけています。
そのうちカナダ社会を構成する民族と文化は次第に多様化していき、1971年、カナダは世界で初めて「多文化主義政策(Multiculturalism)」を導入しています。

国家理念として「民族や人種の多様性を尊重し、すべての人が平等に社会参加できるような国づくり」を目指したのです。そして今では200を超える民族が生活しながら、毎年20万人以上の移民が入ってきています。特に最近では、中国への香港返還(1997年)をきっかけに、香港からカナダへと移住する中国系移民が増えていると言っていました。

そのカナダの公用語は英語とフランス語ですが、そのほかにもドイツ語、イタリア語、中国語など様々な言語が日常的に使われ新聞・雑誌などは40か国語以上で発行されています。

冷戦後の世界で民族間の対立に端を発する紛争が絶えない中、カナダは多様な民族が平和に共生し、一つの国家を形成する「モザイク社会」(mosaic society)という言い方で国家を形成しているのが特徴です。

これだけの広大な土地があってはじめてできるのではないかとも感じつつ、善いところ取りをしていますがどれくらい文化が尊重されあっているのか、今日はそれを現地で深めてみたいと思います。