私は世の中の動静を長期的に直観していると、この世には捨てる未来と捨てない未来があるように思います。今、私たちの社会は常に大量に生産し大量に消費することによって経済を成り立てています。捨て続けてはゴミが増え、そのゴミは循環を破壊してあらゆる貧困を巻き起こしています。
ここまで世界を捨てる未来が席巻してしまうともはや元の状態が何であったのかを思い返すことも難しいのかもしれません。同時に個人主義が私個人の利益だけを求めるという歪な欲望が渦巻き、競争や比較の中でさらに不安を増加させては加速を上げています。自分の家が汚れたり破壊されたり住みにくくなることには抵抗するのに、地球全体の問題はどこかほかの家での話のように認識しているかのようです。
長い目で観て、私たちの未来はそのまま子どもたちの未来になります。資源を使い切り、汚染するだけ汚染して、お金を使うだけ使っては死んでいく。空き家の問題もお墓の問題も、介護の問題も、精神を病む問題も、これは全部一つのところから発生していることに気づく必要があります。
知識というものは短期的で限定的なものです。人類は知識を得ては文明を発展させていきました。科学という技術を発達させることで、自然のエネルギーや力を上手く取り出しては自然を凌駕したと思い込み自然を征服していきました。
しかしそのどれもが本来は自然のエネルギーを一時的に取りだしたのであって、膨大で永遠な自然の力のほんの微細な点にすぎません。水を創ることも、火をつくることも、いのちを創ることもできません。偉大な智慧にはとても敵わないのです。
いくら征服したと思ってみてもその思い違いはすぐにやってきます。征服するから不安が募り、支配するから恐怖がきます。そうではなく共生して協働するのなら安心が増え、心の豊かさが訪れます。
人類は長い間、自然と共生してきました。
物質的に豊かになっても、自然由来の豊かさには決して敵いません。そしていくら便利になったとしても、深い味わいは自然の手間暇には敵いません。
今こそ、よく考えて私たちはこれからの未来を拾う必要があると私は思います。未来を拾うことは、子どもたちの未来を拾うことです。みんなで捨てるのをやめ、しっかりと今を手入れし、磨いてそれを子どもたちに譲り渡していくこと。
「徳を積む」とも言いますが、今こそ新しい経済に舵を切る時機です。
私にできることを考えて、構想を認め、仲間や同志を集めていきたいと思います。