私たち人間は一人では生きていけないことは誰しもわかっていることです。一人では生きていけないからこそ、共生し他人を助けて社會のために貢献しています。そこには利他という行為も出てきます。この時の利他は決して相対的な自分と相手というわけではありません。自分の存在が、誰かのお役に立つという具合に社会全体、世界全体のお役に立っているという境地でもあります。
人は比較され自己愛が歪んでしまい自分のあるがままを受け容れずに生きていくと、自己自利が強くなっていくものです。自分がどう見られているか、自分がどう思われているかなど周囲の目を気にしていればいるほど自己ばかりを優先して利他から離れていくものです。
天台宗の開祖の最澄は、「忘己利他」という言葉を使い「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」といいました。人間は自己(エゴ)が野放しになればなるほどに自分中心に物事を考えてしまうものです。
だからこそ自分ではないものに主客を反転させて自分自身を忘れるための精進をし人格を磨いていく必要を感じます。
例えば、地球が喜ぶか、社會が喜ぶか、家族が喜ぶか、初心が喜ぶか、これもまた自分との対比で、自分の地球が喜ぶか、自分の社会が喜ぶか、自分の家族が喜ぶか、自分の、自分のと先に自分が来ればくるほどに己だけのエゴが強くなります。
しかしそうではなく自分を忘れ、そのものの本体や全体、つまり偉大な視座で地球が喜ぶか、社會が喜ぶかと自分を活かし使って行けばそのエゴは自然に全体のためにお役立ちする己になっていきます。
これは社會をみんなで善くしていくことと似ています。
自分ではないものに自分を置いてみることができれば、自分が如何に多くの人たちの助けや協力、見守りをいただいているのかがわかります。だからこそその感謝に報いたいとより忘己利他に生きていくことができるのです。
会社も個人も感謝を忘れて利他をしなくなれば、必ず道理として人は離れていきます。そして周りに誰もいなくなったとき、「もう懲りた」と心から反省するまで何事も上手くいかずに苦労するものです。
人類は、自分たちが発展と繁栄を続けることができた至高の宝を決して手放すこことはありません。それは本能に刻まれ、それだけはならぬと何度も言い聞かされているかのように歴史は語ります。
共生と貢献、助け合いという精神は、人類がここまで生き延びることができた最大の理由であり、人類が目指している最大の使命なのかもしれません。
歪んだ教育や幼少期の刷り込みによって生きづらい人たちが増えています、子ども心を見守る会社だからこそ忘己利他の実践を積み重ね、子どもたちが安心して自分らしく生きていけるような世の中のために挑戦を続けていきたいと思います。