BA開校の意義

かつて人間は様々な技術革新を起こして歴史を換えていきました。その技術革新はこの100年を省みても、様々なものが産まれてきたのがわかります。核融合、インターネット、ナノ技術、遺伝子組み換え、もはやキリがないほどに革新が行われてきて時代が変わってきています。

最近でも、IOTやブロックチェーン、AI、量子コンピューターなど次々に新しい技術が創造されています。

歴史的に見ても人類史の中でもっとも加速度的に技術革新が続いている世紀を私たちは生きているとも言えます。同時に、かつての技術が消えていく時代に生きているとも言えます。

新しい技術がすべて万能というわけではありません、古い技術の中でしか実現できなかったものもあるのは確かです。それをどう温故知新して調整するかは、技術者だけではなくそれを活用する人物の思想や哲学、そして生き方や決断が必要になります。

それだけ新しい技術革新の時代には、それに相応しい人材が求められてくるのです。人間の教育は果たして技術革新に追い付いているのか、それは大きな疑問を感じます。

人間には様々な我欲があります。その欲があるからこそ、技術革新もまた産まれます。しかしその欲が果たして平和に基づくものか、それとも戦争や支配に基づくものかは人間が決めるのです。

いくら技術が進んだとしても、その高度に洗練された技術に相応しい人格がなければその技術は台無しになります。

だからこそ、本来、あるべき古い伝統的な思想と最先端の技術を融合させることで人類の初心を学び、その初心を忘れないで技術革新を続けていく努力が必要なのです。

私がBAを開校するときに、もっとも技術の学問として大切なのはこの取り組む姿勢を磨いていくことだと私は思います。医者であれば、医道があり、保育であれば、保育道があり、政治であれば、政治道があり、それぞれに生き方といった道があります。

道を学ぶことが、本物の技術者を育て、人類にとって本当に大切な技術として広がっていきます。このような時代だからこそ、このような学問や学校は志ある人たちで立ち上げてなければなりません。

この先の展開がどうなるかわかりませんが、まずはブロックチェーンがかつての日本的精神によって平和活用できるところからはじめていきます。引き続き、私にしかできないことで人類の技術革新に貢献していきたいと思います。

仲間は力

人は自分にできないことがあるからこそ仲間が必要です。仲間とは力であり、力は仲間の存在によって引き出されていくものです。現代では、能力主義や評価を気にするあまりできないことを隠し、できることだけで人とつながろうとします。しかし一人でできることは少なく、そして脆いですから仲間の存在や信頼があればできないことへも挑むことができるように思います。

では仲間とはどのようなものか、それを省みるとどんなことがあっても離れていても最後までご縁を活かし合う関係ではないかとも感じます。その時だけの関係というよりも最後までそばにいるような絆をもった関係です。

そう考えると、いつもそばにいるというのは苦しみも悲しみも喜びも分かち合う関係があるということです。それは絆ができているともいえます。お互いの違いを認め合っても、お互いのことを信頼し続ける。それだけお互いのことを分かり合っているとも言えます。

本心や本音で分かり合えるからこそ仲間になります。本心や本音を最期まで隠すのは、評価や認められたいと外側ばかりを見つめては自分の内面を誤魔化すからかもしれません。自分が仕合せになるためにも、自分の本心や本音を打ち明ける仲間が必要なのです。

仲間がいれば、一人でも頑張れますが仲間がいなければ一人では頑張れないのです。一人で頑張れるのは、それをわかってくれる、信じてくれる、助けてくれる、支えてくれる存在を感じることで力が湧いてくるからです。

仲間は力です。

力を精いっぱい出して自分のやりたいことに挑むためにも貴重な仲間の存在とつながりを大切にしながら歩んでいきたいと思います。

銅器の魅力

現在、建設中のBAでの料理には銅を使った台所道具を用いることにしています。聴福庵は鉄を中心にしていますが、銅もまた先人たちの智慧が伝承されているものです。

そもそも銅の歴史は古く、太古の時代から利用されていて人類が最初に使い始めた金属とも言われています。青銅器時代と呼ばれる時代があるくらい銅は青銅器や武器や農具といった一般的に使われる道具まで人類が活用してきた金属でした。銅の種類では青銅、純銅や真鍮、白銅などがあります。そして真鍮(しんちゅう)もまた銅の仲間の一つです。

銅は金属の中でも特に柔らかく加工がしやすいという特徴があります。また錆にくく熱伝導性が高く、殺菌作用もあります。

世界中のプロの料理人が愛用するのは、それだけ料理に向いている道具だからです。しかし鉄と同様に手入れするのが大変な道具であり、今の便利な時代の価値観の中では次第に活躍の場がなくなってきています。

銅鍋などは料理中の銅が少し溶け出すくらいはかえって鉄分の吸収を助ける働きがありますが、料理後にそのまま放置すると銅が酸によって大量に溶け出すことにもなります。またこまめに使っていなければならず、手入れが必要な道具なのです。

またかつては、銅から出てくる緑青に毒があると信じておりさらに銅製品の評判が下がっていきました。この緑青とは銅の腐食により出来る錆で、科学的には塩基性炭酸銅と言われる化合物のことです。

実際に緑青は20年ほど前までの教科書や辞書には有毒や有害と記入されていましたから私たちの世代も銅の緑青は猛毒だと信じていました。しかしこれはまだ金属清廉技術が未発達な時代に銅の中にヒ素が混入しヒ素中毒を起こしていたのではないかという事例から有害だと思われていたといいます。

国立衛生試験所が昭和55年から3年間を費やして実験を行い、その結果を受けて、昭和59年8月に厚生省は無害であることを認めました。それに1984年8月に厚生省の見解として有害ではないと発表され緑青は水に溶けず体内にも蓄積しないことが立証されてかつての価値観が覆りました。

銅の素晴らしさが、誤解によって埋没し、そして不便な道具として不名誉な評価をもらうことはとても残念なことです。

BAでは、炭のスイーツを開発していく予定ですからこの熱伝導、熱効率、熱加減が可能な銅の製品はこれからの新しい炭料理のパートナーになりそうです。

子どもたちに、先人の智慧と伝統を継承していきたいと思います。

徳の循環

この世の中には、いのちがあります。そのいのちとは、そのものに備わっている徳ともいい、そのものの長所や持ち味でもあります。そのいのちを何に活かすか、それはいのちの命題であろうと思います。

どんなものでもその中には確かな徳性が備わっています。それを用いるには、その徳を引き出す側の力が必要になります。徳を引き出すことが、いのちを活かすことになりますからこの関係は切っても切り離すことができません。

現代では、幼少期から比較競争させられ能力評価を中心に教育を施されてきました。また社会の空気感としても、結果重視で効率優先ですからどうしても能力が高いことがもっとも価値があるかのように刷り込まれていきます。

しかし実際は、いのちの現象ですから能力が価値があるのではなくその徳にこそ価値があるのです。徳は、存在価値そのものでありまたお互いのいのちのハタラキそのものですから畢竟すべての生命は徳を磨き徳を高めていくことが命題なのです。

その命題をしっかりと思い返し原点回帰するには、何のために生きるのかといった道を見出す必要があります。それは言い換えれば自分の心と向き合うということです。その上で、天地自然のいのちの在り方を学び直し如何にその心を天地自然に近づけていくか。

すべてのいのちが天地自然と混然一体になって報いていくように、私たちもまたその混然一体の一部になって徳を還元していくのです。そうやってみんなで徳を還元する社會こそ真の楽園になり、平和が訪れるように思います。

徳の循環というものは、永続的にいのちが発展繁栄する道理でありまさにいのちの在りようそのものの根源であり、生きる意味の真実です。

子どもたちが現代の道理に外れた現実で迷わないように、真摯に徳の循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

いのちの感覚

昨日はむかしの田んぼで、仲間たちと一緒にお米の収穫祭を行いました。ちょうど、前日に大嘗祭があり翌日に私たちも新米を食べる行事を行いました。

具体的には、宮司さんに来ていただき田んぼの真ん中に祭壇を設けみんなでご祈祷を行いました。そして竈門で炭を使ってじっくりとご飯を炊きそのお米をおむすびにしていただくという具合です。

おむすびは、佐藤初女さんのいのちのおむすびを参考にみんなでお米が呼吸できるようにと心を籠めてむすんでそれをみんなで歌いながら交換し合って食べました。いのちがむすばれたおむすびは本当に優しい味わいで身も心も充実しました。その後は、思い思いにそれぞれで好きな具材を使っておむすびをむすびみんなで楽しく共食を楽しみました。

美味しいお米をつくり、美味しくお米を食べる。

これだけをやってきたのですが、お米を大切に愛して食べていくだけで今ではお米のいのちを感じる貴重な機会になっています。

美味しいというのは決してただの食べものではなく、いのちそのものの味わいのことを言うのです。いのちに対してどのように向き合っているか、いのちを如何に大切にしているか、いのちをどれだけみんなで分かち合っているか。

これらが美味しさを磨く秘訣であり、美味しいと感じる根源なのです。

人間は単に味覚だけではなく、五感を超えた何かをつかっていのちを感じているのです。まさにそれは「いのちの感覚」と呼んでいいかもしれません。

いのちだからこそ、いのちそのままに次世代に譲っていく。いのちは生き続けるからこそ、生き続けるいのちとして私たちはいのちと共に存在していく。今回の大嘗祭を受けてのむかしの田んぼはいのちがいっぱい宿っていることを実感した行事になりました。

行事のはじまりと共に、子どもたちに大切ないのちの存在をこのむかしの田んぼを通して伝承していきたいと思います。

真の自立

心を通じ合わせて何かに取り組んでいると仲間ができてきます。その仲間は、同じ目的のために協力し合う時にできてくるものです。何かがあった時、仲間の存在に助けられることがあります。人は一人では夢を叶えることが難しく、必ず自分の思いや夢の力になってくれる人が必要なのです。

私も人生を振り返ってみると、本当に多くの仲間たちに出会い歩んでくることができました。距離的にたとえ離れてはいても心はいつもつながっている仲間がいます。その仲間たちはみんな同じ目的に向かってそれぞれの場所で真摯に挑戦し続けています。

私は仲間というものは、力になる存在だと思っています。

力が発揮できるのも仲間のお陰であり、仲間があるから力が湧いてきます。不思議ですが、人間は協力することで仲間をつくってきたからここまで苛酷な自然環境の中でも生き残ってくることができました。

生き残るために社會を創造し、その社會を守ることで仲間を育てたのです。

現在は、個が強くなり仲間よりも自己本位である人が増えてきました。仲間の絆や信頼よりも自分の願望や欲望を優先するような事件やニュースをよく見かけます。忙しさで心が殺伐としてきたら仲間の有難さや存在に気づきにくくなっていくのかもしれません。

一緒にいて仕合せな関係というのは、苦楽を供にする中で築き上げていくことができます。それは助け合う関係によって醸成されていきます。お互いに心を開いて心をつないで協力し合うことができる絆が増えれば増えるほど、仲間は増えていきます。

人生で苦楽を共にできる仲間がいることは、人生を豊かに彩ります。

仲間の門出を見守りつつ、真の自立に向かって邁進していきたいと思います。

暮らしの甦生

人は日々の充実した人生があるからこそ仕合せを感じるものです。その充実した人生には真の豊かさがあり、その状態のことを人は「暮らしがある」というのです。

この暮らしは単なる一般的な生活の事を言うのではありません。この時の暮らしは、心の豊かさのことを言うのです。

心の豊かさとは、日々の心が満たされている状態のことを言います。世界ではこれをマインドフルネスという言い方もしますが、私に言わせれば暮らしをしているということです。

なんとなく、日本では暮らしというものは仕事以外の生活のことを指しているように思います。しかし本来は、暮らしの中に仕事があり、すべては暮らしを中心に育まれれていたものですから本来は心の充実した状態の中でなんでも行っているのが仕合せであるということです。

自分の状態が仕合せであれば、どのような環境や状況があってもその人の心は豊かであり満たされています。しかし如何に世間が羨ましがるような物があふれ贅沢にお金があって全部持っていると思われていても心が充実しているとは限りません。

かつての日本は物質的には恵まれていなかったかもしれませんが、とても心豊かな暮らしをしていたことが海外の文献などに遺っています。その証拠に、いつもニコニコと仕合せそうでまるで仲良しの家族のように隣人と共に支え合って生活していたとあります。

日本人は物質的には大変豊かになり、物が溢れなんでも思い通りになるような世の中にしていきましたがそれと反比例し、心はどんどん貧しくなってきました。同時に日々の暮らしが次第に消失していき暮らしをやめていきました。心が病み疲れるのは、心が充実することがなくなってきているからです。

今では欧米の文化が流入し、仕事とプライベートを分けている人が増えています。あくまで仕事は仕事、プライベートは別ということですがそんなに簡単に一つの人生を分けることができるのでしょうか。

人生の充実は、日々の暮らしの充実です。それは日々心を豊かにしていくことです。人に親切にすること、感謝で生きること、恩返しをすること、助け合うこと、支え合うこと、微笑みかけること、誰かのお役に立つこと、こういうことが心を豊かにしていきます。

言い換えるのなら、徳を積む日々を歩むことこそが暮らしを甦生していくことだと私は考えているのです。

引き続き、場を高めながら子どもたちに心の豊かさを伝承していくために新たな境地を世界に切り拓いていきたいと思います。

不便の徳

現代は、様々な理由から体調を崩し精神を病む人が増えています。生活環境はますます便利になり、なんでも思い通りに快適になりましたがそれと反比例するかのようにあらゆる病気が増えているように思います。

人間は、便利になればなるほどにそれまで必要不可欠であった自然の道理から離れていきます。時間をかけて手間暇を惜しまず、心を寄せて何かに取り組んでいくということも、忙しい現代においては最初に省かれる項目に入ります。

不便なものは悪のように語られ、便利さこそが価値があるかのように評価されます。人間においても同様に、不便な人よりも能力の高い便利な人の方が重宝されやすくなっています。物の扱い方もまた、便利なものがたくさん売られ不便なものはすぐに捨てられていきます。

自分の五感をフル稼働させ時間をかけて習得するのではなく、誰でも簡単に平均的に時間を短縮してできる道具を求めてきたから今ではAIやロボット、さらに便利な存在に近づいていこうとしています。

しかしよく考えてみると、これは誰にとって便利なのか、誰にとって都合がいいのかということです。

楽して栄養をとれる、楽して自動でできる、楽して時間が節約できる、これらは自分にとって利があるから便利を優先します。しかし実際は、その楽して栄養をとれているように見えて健康を害していき、楽して自動でやっているうちに仕組みや修練、能力を磨くこともないから応用ができなくなり、楽して時間を節約しているうちに味わい深い関係や思い出をなくしていたりします。

結果ばかりを求めて、自分に利があるかどうかばかりを追求すればするほどに不自然が増えていき気が付くと本質的に不便になっていることに気づく日が来るのです。

むかしは、里山のように、または暮らしの中で、自分だけが利することをせず、敢えて不便であっても全体最適であるように努めていきました。手間暇も労力もかかり不便であっても、それを善として、周囲への思いやりのためにと楽よりも苦を選びその分、楽しくなるように、仕合せになるようにと発想を転換して喜びに換えていました。

例えば、お酒造りも、漬物作りもも、今の時代は、化学的なアルコールを添加したり、漬物も化学合成調味料を塗り込むだけですが本来は時間と労力と手間暇をかけて丁寧につくりこみました。お酒は、苦労の中でも醸し唄のようなものをみんなで歌いながら苦労してつくり、漬物も手でかき混ぜながら声がけしながらつけていきました。

しかし五感や体は、自然であることが分かるようにそのものを食べると美味しいと感じるものです。不便であることが美味しさをつくり、便利であることが不味さをつくるのです。

これは人格形成においてもまた同様のことが発生するように私は思います。教育の本質とは何か、それは地球の平和が続くよう人格を高め道徳的な社會を形成していくためにあるように思います。

だからこそ人間がどうあるべきか、それは生き方に出ますから便利な教育ばかりを施していたら便利な世の中になり便利な人になっていくでしょう。だからこそ今の時代の教育の中に私は不便さが必要であるように思います。

子どもたちに不便の徳を伝承できるように、実直に誠実に伝統の初心を継承していきたいと思います。

一所懸命の今

人間は、「今」というものにどれだけ真剣に打ち込んでいるかはその人の生き方を顕すものです。畢竟、人生とは何かといえば「今の集積」であり、終わりの時は今の集大成なのですからこの今に打ち込めないというのは生き方が定まっていないということです。

仕合せの青い鳥はいつも脚下にこそあるというのもまた、この「今」に対する心構えのことを示しているように思います。

経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏はこういいます。

「現在与えられた今の仕事に打ち込めないような心構えではどこの職場に変わっても決していい仕事はできない。」

「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。」

どうしても心が離れてしまうと今からも離れてしまうのが人間です。今から離れないように今に真剣に打ち込む人は、心が今から離れることがありません。つまり「今、此処」に生きています。今、此処というのは、過去と未来がつながる処でありそれは心の在る処です。

以前、「今でしょ」という言葉で有名な林修さんの記事を拝見したことがありました。そこに「今」というものに対する哲学が書かれてあり、そういう意味でもあったのかと感じ入ったことがあります。「今やる人になる40の習慣」林修著にこう書かれてあります。

「例えば、あなたがパン屋さんで、朝早くからパンを焼く日々を送っている、とします。その場合、あなたの焼いたパンを買うお客さんにとって、あなたが楽しそうに焼いたか、あるいはつまらなそうに焼いたか、パンを焼くことが好きなのか嫌いなのか、実はそんなことはどうでもいいことなのです。大切なのは、あなたの焼いたパンは美味しいのか、それともまずいのか、それだけです」

・・

「嫌いなことをやってお金をもらっているのに、いい加減なことなんてできるはずがない。そう考えて、いつもできる限りの準備をして授業に臨んできました。そうまでしてこの仕事を続けてきたのは、世の中に数多くの仕事があるなかから、自分で選んだんだし、嫌いではありましたが適性はあると感じており、また実際にいい結果がずっと出ていたからです。もちろん、自分の仕事が好きな仕事をしているという人は、それはとても幸せな、しかもめったにないことなんですから、わざわざ嫌いになる必要はありませんよ」

 

いい加減なことをしない、自分本位ではなくお金をもらっているのだから真剣に喜んでもらう、パンで言えばどのような美味しいパンを食べてもらうのか。今でも活躍の場を広げているのは、この方の「取り組みの姿勢」が素晴らしいからでしょう。

私も営業から今に至るまで、どのような仕事であっても好き嫌いかどうかという自分の感情ではなく、本気で善い仕事をしようと真摯に取り組み、自分がやる以上、自分の設定した質の高さを維持しようや、前回よりももっと成長した仕事にしようや、子どもたちのためにも一切妥協しないで心から打ち込もうというようにどの仕事にも誠心誠意全力を尽くしてきました。そして今があります。

一所懸命という言葉もあります。

これは今、自分が与えられた場所で本気で命懸けで取り組んでいくという生き方です。そもそもこれは中世(鎌倉時代の頃)の武士たちが将軍から預かったり先祖代々伝わっている所領を命懸けで守ったことに由来してできた言葉です。この「一所懸命」がその後は「命懸けで取り組む」という意味になり「一所」が「一生」と間違われて「一生懸命」となり、発音も「いっしょけんめい」から「いっしょうけんめい」に変わったのです。

今に一生のすべてをつぎ込むことの集積こそが、自分の人生を真に切り拓いていくことができるのです。選ばない生き方というものは、この今に真剣に生きるということ。まさに私の座右の一期一会の実践をするということなのです。

最期にマザーテレサの言葉です。

「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」

どんな仕事であってもやるからには常に真剣に本気で心を籠めて取り組んでいくこと。まさに真剣勝負の生き方こそ、一所懸命という日本古来の武士道であり根源的な在り方なのです。

子どもたちのお手本になるような歩み方を、今に正対しながら取り組んでいきたいと思います。

料理は生き方

聴福庵での竈を使った料理の実践が増えているからか、料理の際に五感を使うことが増えてきました。例えば、気が付けば音を聴いたり、臭いを嗅いだり、また湯気を見たり、味見してみたりと、あらゆる五感を鋭敏に使って料理をしています。

少し前は、ほとんどが頭で目を使って分量などを確かめながらやっていましたがほとんど今では分量に頼らずに感覚で調味料などを入れています。

さらに、出汁を中心に調味料の取り方も変わっていき、調理法も次第に原始的になっていきます。つまり遠赤外線の力でやったり、水や炭火にこだわったり、鉄鍋や道具などの選定も細かくなっていくのです。

もっとも変わるのは手間暇のところかもしれません。

敢えて手間暇をかける、丁寧に時間をかける、手作業で行うなど、感覚を使うものばかりが増えていくのです。

私たちは人間に合わせて道具を用いますが、その時々の人間の思想が道具には出てきます。法隆寺の大工が、むかしの槍鉋を使いこなせるように精進するように、今の全自動の電気鉋などを用いることはありません。しかしそれは単に便利か便利ではないかでそうしているのではなく、その時代の職人たちの意識の高さや取り組む際に心の清らかさ、そして姿勢のよさ、美しい生き方が創るものに宿っているのを実感するからこそそのむかしの道具を使いこなしながら先人の生き様から心技体を学んでいくのです。

料理もまた、原始的なものを用いれば用いるほどに先人の生き様に触れその生き方から自分を磨き上げていくことができます。料理には、生き方が宿ります。

子どもたちに料理を伝承するためにも、むかしを慮り今を新しく創造していきたいと思います。