子どものため?

世の中には子どもの為といいながらまったく子どものためではなく、大人たちの都合のためということをやっている人たちがいます。実際に本当の問題を挿げ替えては、子どもを利用して自分たちの利益を得ようとします。

簡単にそれを見極める方法は、子どもの立場になって子ども自身が喜ぶことかと子どもに聴いてみれば一目瞭然です。子どもが何かの行動をするとき、必ずそこには理由があります。その理由を心を寄り添い耳を傾ければ次第にそれが伝わってくるものです。

しかし今の人たちは、忙しさを理由にしたり、経済状況を理由にしたり、世の中の常識を理由にしたりして子どもの声を聴こうとはしません。現在の環境問題でも同様です。

自然のためにといいながら如何に人間の都合のためにに溢れているか。本音と建て前を使い分けては、さも善いことをしているようにみんなで声高に発信して勘違いや思い込みによって当たり前の方を換えてしまいます。これを偽善とも言います。

実際に善か悪かをここで裁きたいというのではなく、本来の善いことのためにもう少しみんなで見極めるための議論を尽くしたいと思うのです。みんな人間は誰しもが善心をもって生まれてきます、特に赤ちゃんのときには誰もがその徳が備わり生まれてきます。

その時、私たちは何が真実であるかをいのちのハタラキから学ぶはずです。笑顔の価値や、信頼するものの価値、活かされていること、守られていることの意味を知ります。

私たちは自然の一部ですから、自然にそれらの徳が分かるようにできています。子どもの声を聴かなくなるというのはその徳を穢すことと同じです。そのためには今の大人がよく子どもの立場になって子どもを主人公としたときに、今のままで本当の善いのかとみんなで考えることです。

待機児童を解消することが本当に子どものためなのか、発達障害と診断し隔離したり排除したり抗うつ剤を飲ませることが果たして子どものためなのか。よく考えてみることです。

子ども第一義を理念にする私たちの本当の目的は、子どもたちのことを丸ごと信じて子どもの声を聴いて今の世の中を変革していくことです。まさに今は人類の過渡期であり、地球循環の変わり目です。

気づいた人たちと一緒にいのちを賭していきたいと思います。

 

ぬくもり

私たちは皮膚で温度を感じますが同時に「ぬくもり」というものを別で感じているようにも思います。このぬくもりとは、いのちの温度でありそれは単なる冷熱ではなくまさにその温度の超えた存在のぬくもりを五感で直観しているともいえます。

例えば、「手仕事のぬくもり」というものがあります。心を込めてゆっくりと丁寧に手を使ってつくりあげたものにはぬくもりを感じます。機械で簡単便利にさっさと仕上がったものではなく、一品一品丁寧に時間をかけて取り組んでいればいるほどそのものからぬくもりが出てきます。

このぬくもりは、一体何処から来るのか。私たちはこの不思議さに気づけるかどうかで暮らしの豊かさも変わってきます。そして何よりこの暮らしの豊かに気づくには何よりも先に「手入れ」というものをまず学ばなければなりません。

「手入れ」とは、そのもののいのちに触れて甦生させていくことです。つまり、そのもののぬくもりに直接的に触れることによってその「いのちのぬくもり」を味わうという一連の動作のことです。拭いてあげたり、磨いてあげたり、整えてあげたり、修繕してあげたりと直接的に触れて甦生させていくのです。

私は日々の暮らしの中で、手入れを楽しんでいますがこれはぬくもりを味わっているということです。

無機質で機械的に手仕事ではなく造られたものはあまりいのちのぬくもりを感じません。しかしそれも少しだけでも手を入れてあげれば、ぬくもりを感じられるようになります。具体的には、生け花を添えたり、手漉きの和紙を敷いたり、何か見せ方を設えてあげることでもぬくもりは現れます。

生きものたちはみんなそのぬくもりを感じることで、いのちの仕合せや豊かさを感じて自然と合一して心を平和にしていくのです。

今度、BAでは志半ばで斃れた友人の遺志を石に刻むことにしています。その友人は生前にこういう言葉を遺していました。

『頭でひねり出した理論的正しさだけではなく、コードを書くこの手の感性を信じること。それが、自分が書くコードと世の中をリンクさせ、ソフトウェア開発のダイナミックさを引き出す道だと思う。だから、どんな立場になっても、コードのそばにいるよ。』(高橋剛より)

この手の感性を信じるということは、「ぬくもり」を持って取り組んでいくことが何よりも大切なのだと私は受け取りました。そのいのちのぬくもりを感じながら、取り組んでいくことでいのちは様々な世界に融合し広がっていくということ。

自他を自然にして、「いのちの中に入る」ということが私たちは「この世で何かを産み出す」ということなのでしょう。

BAは間もなく開校しますが、有人の見守りをいつでも感じながら前進できるように石碑にその言葉の真意を刻みます。子どもたちに、先人の生き方が伝承できるよう私自身もぬくもりを大切にしながら取り組んでいきたいと思います。

暗闇のぬくもり

BAの開校は2019年12月22日にしていますが、この日は「冬至」になります。この冬至は一年で最も昼の時間が短く夜の時間が長い『太陽の力が最も弱まる日』となっています。つまり一年の中で冬至を境に太陽の力が強まるということになっています。

太陽の復活祭ともいいますが、地上にいた私たちにとって日がまた長くなり明るくなるというのは特別なものだったように思います。特に日本人は、太陽を中心にした暮らしを営んできた民族です。

太陽をおひさまと呼び、こんにちさまと崇め奉り、祈りを捧げ続けてきました。日本古来の神様である天照大神もまた太陽の化身として心のよりどころにしてきました。明るく平和な世の中を太陽の存在を感じながら歩んでいくというのは、今もむかしも変わらずに私たちの心に安らぎを与えます。

また隣の中国では冬至の日を易経では「一陽来復」といって悪い気が去りすべてが上昇に転じる日としてお祝いしてきました。中世以降から中国文化と混じり合う中で日本でもこの日を一陽来復は死に一番近い日として無病息災を祈念しています。

もっとも暗い日こそ、明るさへの兆しがあるということ。

今度のBAは、黒の彩りを中心に家のデザインをディレクションしています。これは黒には多種多様な黒があることを示しましたが、同時に黒(暗闇)がもつ真の明るさやあたたかさを表現したかったこともあるのです。

私は、鞍馬寺で暗闇のぬくもりと同じものを炭のぬくもりで感じました。私は炭が大好きですが、炭の癒す力、浄化する力はこの世でもっとも高いものの一つだと感じています。その炭を感じてもらうためには、炭と同じぬくもりを暗闇で感じてもらう必要がありました。

そこで黒のものを中心に据えて、暗闇を演出することに力を入れたのです。また開校の日をもっとも暗い日にしたということにも意味があり、この日こそもっとも暗闇を深く味わえる日であるからです。

天の岩戸に天照がお隠れになったとき、私たちは絶望と同時に希望を持ちました。その希望はアメノウズメの神楽によって開かれたといいます。それは「笑い(和来)」によって導きました。

この和来こそ、温故知新の象徴であり新しい時代の幕開けへの兆しです。

今回の開校が、徳の世の中に復活をしていけるように私のできることで挑戦していきたいと思います。

 

仕事は生き方

先日、BAの打ち合わせ中に脳出血で倒れた左官職人さんが手術後の経過がよく麻痺もなく無事に回復しているというお知らせがありました。一緒に家をつくり、思いを込めて取り組んでいる間は心を通じ合わせていく仲間ですから急な出来事に大きなショックを受けたのを思い出します。

この左官職人の方は、人格が素晴らしく何よりも左官仕事を心の底から愛しています。以前、一人で黙々と朝早くから夜遅くまで取り組んでいる姿をみて一人でずっと何日も同じ作業をしていて辛いことなどないのですかとお聴きしたら「左官仕事が好きなので辛いと思ったことは一度もない」と笑顔で返されたのを覚えています。

あの時、好きな仕事ができる仕合せというものと同時にこういう人に仕事をお願いしたいと思ったものです。

仕事は生き方が現われます。

実際に、好きな仕事をする人と、仕事を好きになる人がいます。そこには目的意識を持っているかどうかが深層心理に隠れているように思います。

例えば、人生を一度きりとしたときにこの今の仕事もまた一度きりです。大切な人生の時間を愛おしむように使うのだから、自分を何に活かすか、自分をどう使うかは人生の貴重な今の集積になっていきます。

その今の心の持ち方をどのように正対して歩んでいくかは、それぞれにその人の人生の取り組み方や姿勢が深くかかわります。自分の人生を大切にしている人は、どんな出来事もご縁も自分の人生の充実や学びの糧にして発達し発展を楽しみ味わうことができます。人はすぐに仕事に優劣をつけたり、価値のあるなしをつけたり、評価をつけては損得などを言いますが本来の仕事にそんなものはないのです。

技能や技術、結果だけではないそこに生き方があることを忘れてはいけません。

最後に、倒れた時はなぜこのタイミングでこの場所でと悲しい気持ちになりましたがこうなってみてよく考え直してみると私と二人の時であったこと、私がすぐに救急車を呼んですぐに来たこと、その後、迅速に手術したこと、左官も一仕事終えて次の打ち合わせの時機であったこと、応急処置もスムーズだったこと、すべて運が善かったことの連続であったことに気づきます。

無事に祈りが通じて回復していく吉報を得て、人間万事塞翁が馬であることを改めて感じ直しました。

私の取り組む生き方は、この人間万事塞翁が馬そのものです。子どもたちにも私の生き方が仕合せにつながるように祈りながら歩んでいきたいと思います。

暮らしフルネス

人は日々に色々なことを感じて生きています。しかしその生きることの深さや浅さはそれぞれの感じ方によって異なるものです。

ある人は、どんなに色々なことがある日々を過ごしていても微細な自然の変化に気づきとても心豊かに様々なことを感じ取っている人もいればまったく自然から離れて味わうことをしない人もいます。

同じ人間であっても、感じ方一つでまったくその味わうことの深さや浅さが異なるのです。

人は心がありますから、心は鋭敏かつ微細にほんの小さなことでも味わおうとしますそういう人は心の豊かな人であり、人生の意味を深めている人です。

現代は、頭で考えているばかりで味わうことを減らし過ぎたように思います。生きていくよりも不安を解消することや欲を満たすことばかりに知性を働かせすぎて、本来のいのちのハタラキやいのちの存在のことを忘れてしまっているようにも思います。

この今というものは、一期一会でありまさに此処が自分の生きている場所です。その場を味わい感じるというのは、人生の醍醐味を知るということです。

人生は一度きりだからこそ、心を充たすように生き、心豊かに生き、仕合せをみんなで分け合っていくことで心を高め心を磨いていけるようにも思います。

苦労もまた、心が豊かになる一つのご縁ですし、仕合せもまた心を豊かにする一つの暮らしです。

暮らしフルネスとは、一期一会の人生を深く味わうということです。

引き続き、新しい時代に人間にとっての真の豊かさとは何かを伝承し子どもたちの未来につないでいきたいと思います。

自由の意味

人間には何をもって自由でいるかの定義がそれぞれにあるように思います。例えば、金銭的な自由というのを自由であると思っていたり、職業的な自由を自由と思っていたり、権力や武力を持っていることを自由と思っていたり、世の中には自由の価値観はそれぞれで異なっているのです。

しかしその自由はよく洞察してみると、誰かが刷り込んだ自由であって本来の自由ではないことはすぐに自明します。特に人間社会においては、昔から奴隷制度や支配の歴史は連綿と繰り返されてきた事実であり、本当の意味で自由であったという時代は少ないのではないかとも思うのです。

もしも人間の思い通りになることが自由であると思い込んでいるのなら、その前提条件が外れない限りこの世の中の本質や真実を理解することはないように私は思います。それぞれがもし好き勝手に自分の思い通りにしようとしたらこの世界は紛争が絶えず、利害関係によって人間はさらに不自由を増やしていきます。

この自由というものの考え方をどれだけ本気で学ぶか、そこに人間が人間としての大切な素養と学びの本質があるように思うのです。

ではどのようにしてこの世界に蔓延する思い込みや刷り込みから自由になるか。

それはまず本当の自分という存在に気づくことからのように思います。そしてそれは深い自己との内省によって気づくものです。つまり自分とは何か、自分は本当はどのような存在であるのかに自己と対話をして気づくということです。

自己との対話ができるとき、人ははじめて自由の意味を知るように思います。

世の中の常識から解放され、様々な人間社会の刷り込みを取り払いあるがままでありのままでいのちを働かせていくことができることのなかにこそ自由自在の境地があります。

この世に存在させていただいた以上、子どもたちの自由のために日々の暮らしの中で自己の魂や心に従っていのちを磨いていきたいと思います。

思いやりの生き方

人は心に余裕やゆとりがあると相手のことや周囲の人たちのことを慮ることができます。相手の気持ちに寄り添うことができる人は、それだけ視野が広く自他のつながりや人間関係の意味や深さを味わうことができている人です。

個人主義が強くなり、自分のことばかりを気にするようになると相手を慮るよりも自分の身のことばかりを心配するようになります。言い換えれば、自分のことばかりを慮り他の人への思いやりができなくなってしまうのです。

相手がどのように感じているだろうかや、周囲は喜んでくださっているだろうか、そして世の中は善くなっていくだろうかと常に思いやりを向けて生きている人は気遣いや気配りなどを欠かしません。

また一緒に生きていることを忘れずに、いつもつながりを大切にして生きています。それはつながっているのかを疑心暗鬼に確認するような不安な心理状態ではなく、常に一緒につながって生きているという実感を持っている安心な心理状態です。

人は思いやりを持てるとき、人間としての器を大きくしていくことができます。先ほどの慮ることを配慮とも言いますが、よく相手のことを思いやり、その人がどのような状況に置かれどのような心理で、きっと大変なことがあっているのだろうと心配していけば人間はそこに繋がりを感じることができるのです。

それを別の言い方で共感というのです。

共感が大切なのは、人間として一緒に生きていることを実感するためです。一緒に生きていると実感できれば、人間はお互いに助け合い見守り合うための力を得ることができます。

同じ場所に立っていても孤立無援で必死で頑張る意識の人もいれば、お気楽極楽にみんなに支えていただいて安心して仲間に頼る意識の人もいます。

それはその人の生き方に由るのです。

思いやりの生き方を選ぶ人は、よく人の話に耳を傾け共感して仲間に恵まれていきます。素直さというのは、どれだけ相手を思いやるか、そして正直に生きるか、また支援に対して感謝をし、恩返しをするために徳を磨き、天と人がまるで一体になったかように生きています。

子どもたちに安心した未来を譲り渡せるように思いやりの生き方を積み重ねていきたいと思います。

 

 

場の振り返り

人間は共感することでつながっていく生き物です。チームワークの在り方などいろいろな形ができてきますが、根本にはお互いに共感しあうことで絆を深めていくように思います。

人間にはそれぞれに「思い」があります。その思いがどんなものであるか、その思いに対して自分はどう思うか、それをお互いに傾聴し、共感し合い、そしてゆるしあうことで人は繋がりや結びつきを深めていくからです。

その共感は単に理念的なもの、思想的なものへの共感をすればいいというわけではありません。その人がどう感じたか、何を気づいたか、それをお互いに耳を傾けることで相手の気持ちを汲んでいくという思いの連鎖をつなげていく必要があります。

この連鎖とは、相手を慮る事、相手を思いやる事、相手を尊敬することでつながります。つまり、お互いに尊重し合う関係でない限り本当の意味で共感することはないのです。

カタチばかりの共感をしても、尊重し合っていないのだからそれはどちらかが一方的に共感風のようなことをしただけです。本来の共感は常に互いに平等であり尊重ですから「思いやりを通じ合わせた」時にこそ「共感」になっているのです。

では思いやりを通じ合わせるためにどうすればいいか、それはお互いの事を深く理解し合い、お互いが相手のことを深く思いやるという関係を築いていくことが最善であることは自明の理です。

そのために「場」を用意し、その場の醸成によってお互いのことを深く分かり合う時間を持つ必要があります。この時の場とは、人生の大切な時間を共有することであり共に生きている仲間のことを深く分かり合い信じあうという体験の場を創造するということでもあります。

チームというのは一朝一夕にはできません。なぜなら「一緒」になるためにも体験の場数を増やし、そのプロセスを積み重ねていく必要があるからです。どのような「場」をみんなで練り上げていったか、それはその時々の場の振り返りによって顕現してきます。

私が一円対話を実践する理由は、その場の振り返りを見極めチームの状態を理解し、善きチームに導くための場を醸成していくためです。子どもたちが、自分たちで善きチームを築き仲間の力を借りて共生と貢献の素晴らしさに気づき充実した人生が過ごせるように場をさらに高めていきたいと思います。

徳の境地

古民家甦生をしていると思い通りにいかないことばかりがあります。思い通りにいかないことをちょうどいいと転じられるには、ゆるす力が必要になります。このゆるす力は、心を磨くことで高まっていきますがそれには思い通りにいかないことの意味を内省し深める必要があるように思います。

人間は自分が正しいと思い込むと、思い通りになることが最良のように思いこんでいくものです。そして思い通りにならないことは悪いことのように決めつけてしまうことです。

しかしそれは単に余裕がなかったり、ゆとりがなかったり、または視野がせまかったり、長期的に考えていなかったり、初心や本質から離れてしまっていたりすることがほとんどです。

逆を言えば、思い通りにならない時こそそういうことにハッと気づくチャンスであるともいえるのです。

人間はそれぞれに執着があります。ある人はスケジュール通りにいかないと怒ったり、言うとおりにやらないと怒ったり、失敗して怒ったり、感情はある意味思い通りにならないことで波立っているとも言えます。

しかし人間はその起きた出来事に対してどのように捉えるかは人それぞれのゆるす力によっても異なってきます。このゆるす力とは別の言い方では、人徳とも言えます。

人徳を磨いている人は、思い通りにならない時こそ自分を磨く砥石だと思っていますから喜んでその機会を使って自分を磨いていきます。苦労を自ら楽しんで取り組んでいる人がいるとします、その人は確実に徳を磨いていくのです。

思い通りにいっているからと喜んで思い通りではないことを素通りばかりしていたら、確かに得はしていてもそれは徳を磨いているとは言えないかもしれません。自分がなぜ生まれてきたのかに立脚すれば、魂を磨き徳を高めることこそが人生の生きる意味であるのは自明してくるからです。

今のような時代、徳の話をしてもなかなか理解されることはありません。しかし徳を一緒に磨いていこうと話をすると共感する人たちは増えていきます。自分が明るく朗らかに健やかに、居心地をよくしてなんでもちょうどいいと楽しんで生きればまさにそれが「思い通りではないけれど思った以上のことが起きて導いてくれる」という徳の境地に入っていくことができるのです。

私がいただいているような先祖代々の徳を、子どもたちのみんなに譲り渡していけるように徳を高め、徳の境地を体現していきたいと思います。

自然の徳

昨日は、BAの箱庭に苔をいれ整える作業を行いました。日本庭園には、石、苔、紅葉などの木、そして観音竹や灯篭があります。今回は、ブロックチェーンを祀る神社を建立するため御神前を清浄な空気で満たせるようにあらゆる工夫を凝らしています。

例えば、全体には大量の備長炭や竹炭を使い、また水の通り、風の通りがいいように配置し、また光が揺らぐように照明関連などを配置しました。

私は障害があるのか、小さな光でも眩しく感じます。それに光が揺らいだり、動いたり、また留まったりするのを感じます。それに暗闇の様子や陰翳を強く感じるタイプのようで、黒を感じる種類が多く、多種多様な黒を感じて使い分けることができます。

私が古民家甦生の中で相性がいいのは、その陰翳を自由に扱うことができるからです。今ですら、照明器具が発達し明々と一日中同じ明るさの中で過ごしますが私はそれが苦手です。

水から反射してくる光や、透明な風で揺られながら訪れる光は心を澄ませるだけではなく身体も癒されていきます。

日本庭園の素晴らしさは、この風、光、土、水、石、木、いのちの絶妙な組み合わせに自然の徳を実感するからです。

自然の徳が、人間の心身を癒していくように私の取り組む徳積みが人類を平和に導いていけるように挑戦を続けていきたいと思います。