先日、ある人との話で「公平」について考える機会がありました。行政や学校などはなんでも公平にしなければならないということで、実際には不公平なことが発生していて問題になっていることも多いように思います。
以前、ブログで平等の話をかきましたがこの公平もまた似たようなものです。平等の時は、与え手側の平等は受け手側にとっては不平等であることを書きましたが結局はこの公平も同じく与えて側の公平は受け手にとっては不公平になるのです。
現在の米中の貿易戦争などもそうですが、米国ファーストで考えれば貿易の公平という言葉は米国にとっての公平であってそれ以外の国にとっては不公平です。権力を持っている側が、公平にというものを実現するには私利私欲のない公明正大な意識が必要です。
しかしそれが制度や仕組みに頼っていたらそのうち、ルールを守ることが公平であると勘違いされていきます。ルールはいくらでも悪用されますから、使い手次第によってはまったく不公平に用いられていくのです。
本来、この公平や平等という言葉は前提に「思いやり」があってそれを客観的に表現するときに使われるものです。相手を自分だと思ったときに、みんなが安心して仕合せに暮らしていけるようにと配慮していくときに出てくる言葉です。
誰かが一方的に押し付けてくる公平さや平等さは、思いやりではなくルールや仕組みを優先して自分で考えることをやめてしまうときに用いられているのです。
中国の書、「礼記」にこういう言葉があります。
「天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし。」
これは天は万物を覆って、特定の個人のみを覆うようなことはせず、地は万物を載せ、一人のみを載せることはしない、日月は公平に万物を照らし偏ることがない。天地日月はすべてに公平無私であるという言葉です。
これは君子の徳のところで出てくる話です。
孔子の弟子の子夏が「夏の禹王、殷の湯王、周の武王の三王の徳は、天地が万物を生成していく仕事に参加できるほど高いものであったといいますがその徳がどのようであれば天地の事業に参加することができるのでしょうか、お教えください」尋ねました、それに応じて孔子は「その徳は”三無私”を旨として天下のために働くことである」といいました。具体的には、「天に私覆がなく、地に私載がなく、日月に私照がない」この三つの無私を模範とすることだと。
果たして、「公平」であることを語る側が本当にこの三無私の実践をしているのか。それとも行政という立場だからや、法律だからとその仕組みだけそれ無私風にしているだけか、この小さな積み重ねが徳を積むのかどうかにかかってくるように私は思います。
徳を積む人たちは、無私の境地に近い方ばかりです。そういう人たちを、立場や権力る人たちの公平や平等を押し付けられることでその徳が働きにくくなってくるように私は思います。
徳が働きにくいというのは、「機会」や「挑戦」ができずらい環境になっているということです。せっかく新しいことを創生しようとするのなら、平等に公平に与えるべきは挑戦する機会であることは自明の理でしょう。ご縁があるからこそ、私たちはそのつながりによって発展し成長していきます。
それを徳とするのなら、国造りとは徳の創生であることは間違いありません。引き続き、私自身の挑戦から徳積の国造りに挑戦していきたいと思います。