現在、様々な技術革新によって人類は新たな扉を開こうとしています。私たちはそれを進化と呼びますが、物事は観方によってはそれは果たして本当に進化であったのかというものもあります。
例えば、縄文時代という時代は非常に平和な時代が続き持続可能な生活を維持してきたことが遺跡から洞察されています。また飛鳥時代なども、職人たちの建造物からその時代の人たちの心豊かな暮らしが洞察されています。物がなく、科学技術も進んでいなかった時代は果たして進化ではないのかと思うと考えさせられるものがあります。
人類においての洗練というのは、決して技術革新だけを言うのではありません。人類の洗練とは、敢えて技術革新しないという選択もあるのではないかと私は思うのです。
自然循環が余計なことを邪魔しないように、私たちも余計な邪魔をせずに暮らしていく。如何に、長くこの地球で暮らしていくのかを思う時、果たしてこの科学技術ばかりを追い求めていくことが人類の洗練なのだろうかと疑問に思うのです。
人類が洗練されていくというのは、目には観えない世界をもちゃんと自覚して自律して協力し合っていく社會を築くことではないかと私は思うのです。それは、自分自身がよりよく生きていきながら周囲への思いやりを忘れないでいのちを輝かせて生きていくこと
心安らかに、与えられた場所で自然と一体になって暮らしを営んでいくこと。人類は、何度も何度も同じ課題を向き合い、結局は縄文時代のような生活に回帰するのではないかと私は思うのです。
知識が増えて言葉が増えていくことが果たして進化と呼ぶものなのか。かえって言葉がなく知識がない方が眼に見えない偉大な存在をみんなが感じ取って仕合せに豊かさを築き上げていたかもしれません。
現代に生まれた私たちがそれに憧れないのは、もう環境が変わってしまったからかもしれません。気候変動が如実に目に見えてくればくるほどにきっと私たち人類は、何が洗練された人類なのかということと向き合う日が必ず訪れます。
子どもたちが末永く平和で仕合せでいるために、大人が選択して決断しなければならない日もまた必ず訪れます。今は、時代の過渡期ですからどこまで通用するかわかりませんが、自分の生き方で世の中に生き方の発信を続けていきたいと思います。