先日、新潟で「えにし屋」を主宰する清水義晴さんにお会いしてお話をお聴きする機会がありました。透き通る感性と、先見の明、また福祉の原点をお持ちの方でいつも大きな学びをいただいております。
まさに魂のままの方というか、自分の魂に従ってそのまま素直に物事の本質を観続けてこられたのではないかという感じをいつもお受けします。私たちは何を観続けるかで、物事の審美眼というか本物を見極める能力を磨いていくことができます。
私の知る求道者は皆、同様に真実をみつめ物事の本質を研ぎ澄ませます。それはその人の語る言葉や文章から出てくるものです。その清水義晴様から、「一行詩」の中の一つをご紹介いただきましたのでこのブログでご紹介したいと思います。
「いい仕事」
「いい仕事をしたら それだけで報われている 仕事自体が報酬だ 報酬がなくとも 報われないかたちで報われている はじめから報いを求めていないのだから それでいいのだ いい仕事をしたい ただそれだけなのだ」 (一行詩 清水義晴)
人は報われることで仕合せを感じるものです。しかしその報われるものを何にするかでその人の目指したものが決まっていきます。ある人は目先の利益が出れば報われたといい、またある人は、目標が達成したら報われたともいいます。他にも、徳を積むことができることを報われるとする人もいれば、報われないことで報われているという人もいます。つまりは、何をもって報われるかの中にその人の生き方や生き様が入っているということでしょう。
存在そのものが報われていると思っている人は、感謝を生きる人です。そして何かの報酬を期待せずにただ純粋に初心や目的をもって生きている人はそれが何よりの報酬だと感じているのです。
二宮尊徳がかつてその生き方の理念に「報徳」つまり「万物にはすべて徳があり、その徳に報いる」という言い方を遺しました。この徳に報いる生き方をしていることこそが、まさに報酬であると。
今回の清水義晴様の一行詩に、同様な感銘を受けました。
私たちはどう生きるのかは自分で決めることができます。自分を生きるというのは、まさに与えられた自分の徳を活かすことに努力を惜しまないということでしょう。それは言い換えるのなら「いい仕事をしたい」という言葉でもいいのかもしれません。
自分自身を磨くことが徳を高め、徳を積むことにつながります。子どもたちに希望を紡いでいけるようにこれからもいい仕事をしていきたいと思います。