夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

徳積社會

時代の節目には、色々な人たちが新しい活動を増やしていくものです。そのいくつかの活動は前例にはないものですから周囲から色々と賛否両論が発生するものです。しかしそんなものは歴史をみれば当たり前に行われていたものであり、今更新しくはじまったものではありません。

明治維新の頃などは、吉田松陰などは狂人と名指しされ、地域の人たちからも頭がおかしいから近づくなといわれていたようです。そしてその本人も、仲間や弟子たちに「狂いなさい」と指導していたといいます。そして「思想を維持する精神は狂気でなければならない」とさえ言っています。

つまりは、空気を読めるけれど敢えて読まないという生き方。シンプルに言えば「正直であれ」と説くのです。

天地に照らして正しいと素直さを学問を通じて磨いたうえで、自分の心に正直に思う心があるのであれば、それを自分自身が裏切ってはならないという具合です。それを別の言い方で「至誠」とも言いました。これは吉田松陰の座右の銘です。

時代が変わっていくというのは、それまでの常識や正論が音を立てて崩れていきます。別の国にいけば別の常識があるように、環境が変わればそれまでの常識も変わります。環境と同じく時代が変われば同様に常識も変わるのです。

その中である意味で時代に適応していく人たちは一応にして空気を敢えて読みません。世間からは、変人奇人扱いされますが本人たちにとっては時代の変化が観えているのだから気にもしません。賛否両論あろうが、本人にとっては至誠や正直を貫いているだけです。

つまり正直の徳というものは、もっとも最高の智慧であり磨き上げて洗練された本質の姿です。本物であるともいうことです。これを正直と定義するのです。正直であり続ける人は、自分の心を偽らない人です。その正直さこそが、徳の本体だと気づければ社會は自ずから徳積社會に近づいていきます。

私が取り組む、徳積財団はまさにそのようなものを顕現するための活動基盤の場を目指しています。

子どもたちがどんな時代でも自分らしく正直に健やかに生きられるように、徳積社會を広げていきたいと思います。

伝統を継ぐ

琥珀色というものがあります。これは飴色に輝いている透明感のあるものですが、長い時間の経過が色に入っているものです。私はこの琥珀色のものがとても好きで、飴色のものをみるとすぐにうっとりしてしまいます。

経年変化というものは、長い時間をかけてじっくりとゆっくりと積み重ねられてきたものです。この積み重ねというものが時間をかけて色合いを彩りその歴史を語るからです。

私は歴史を感じるときに心がとけます。

歴史とは、文化でもあり、心の在り処でもあります。私たちは日々に追われるように生きていますが、このいのちもまた先人たちがここまで紡いできたいのちです。いくら新しいように感じていても、魂は古く、琥珀色をしています。

そして初心や目的を忘れずに文化を伝承してきた姿から琥珀色や飴色の透明感を感じます。この琥珀色や飴色は、時には青いものもあれば、白いもの、黒いものあれば、赤いものもあります。しかしその色から放たれるものはすべて琥珀色や飴色を醸しているのです。

時を感じる力というのは、この積み重ねられてきた「徳」を感じる力です。

徳を引き出すということは、積み重ねてきた今を顕現させるということに似ています。それは自分も先人たちと同様に積み重ねる実践を行うときに顕現します。伝統を継ぐということは、徳を引き出すということでしょう。

徳を引き出し、子どもたちに伝承していきたいと思います。

大切な智慧

人は目的に合わせて場を創造していくものです。何のためにという目的があって、その場所にはそこに関わる人たちの「思い」が空間の中に蓄積していくからです。その思いが場となり、その場は力をもって多くの人たちを引き寄せていきます。

場力というのは、目には観えませんが確かに存在していてその場の力が働くことで私たちは様々な助力をいただくことができます。

例えば、私の自然農の畑では自然との共生というテーマがあって高菜を植え育てています。ありとあらゆる動物や虫たちが自由に謳歌し、野生のままですがそこで農作業をしていると不思議とストレスなどが消えていきます。

少し横になり、天を仰いでじっと落ち着いているといのちの存在を身近に感じ、小さな虫たちの活動を眺めては自分もその自然の一部であることを認識し心穏やかです。

日ごとは都会のど真ん中で人工物と人工的な目的の影響を受けて働いていますが、都会ではどうしても経済活動の場として用意されていますから何をやっていてもその力の影響を受けていきます。

このように場というものは、目的に合わせてその環境を構成しますから私たちは目的と場というものをよく考えて創造していく必要があるのです。私は世間でいう、自然と共生しようともしないことを暮らしといっても人間中心の世界で人間相手だけに物販をしている人たちを暮らしているとは思っていません。

暮らしとは、自然の循環の中に入って共に生きていくことが前提ですから先人たちのように自然を相手にしながら自然と共にお互いを活かしあう活動をしていくことをいうのです。

暮らしの定義も、和風と同じように暮らし風になってきていますから本物の暮らしを伝承していくことも智慧が必要です。

暮らしフルネスは、基本は原点や原型を重んじます。原始の魂を真摯に受け継ぎ、温故知新して甦生させ、現代でも自然との調和をはかります。新しいサウナがいよいよ着工しますが私の「水」の智慧の集大成として取り組んでいきたいと思います。

子どもたちに、その大切な智慧を伝承していきたいと思います。

知恵を絞る

物事には損得というものがあります。損というのは、何か自分が不利益を被るもの、そして得というのは利益を得るものとして認識されています。しかしその損得は、大きな視点から観ると一時的であって全体としては循環していることがわかります。

地球に置き換えてみれば、すべて地球で行われている損得はすべて「徳」です。つまり、一時的に損であっても長い目でみれば得であり、一時的に得であってもまた長い目でみれば損であることがあるのです。

また自然界で観ていれば、人間にとっての得はその他の生物にとっては損になります。長い目で人間は損をしても、自然環境の思いやり徳を積むことの方が偉大な得を得ることもあります。

自然界の利子で暮らしてきたアイヌの先人たちや、かつての先祖の循環型の生き方は今の時代からみれば原始人的で非効率的のように思われまずが本来の損得の意味を深く理解した行動であったのはきっと後世の人たちによって証明されるように思います。

現代のように物が溢れる大量消費の価値観と資本主義経済の世の中においては、この「徳」の深遠な智慧を理解することはないかもしれません。

しかし身近な暮らしや人間関係の中、その他のどんなことにも一損一得があり、そのどれもが必要なものでそれをどう活かすかというところに人類の智慧があります。利他で生きようとする人には、大きな余慶が入ってきて家が仕合せになるといいます。また自利貧というか、貧乏の影にはつねに自分さえよければいいという孤立が出てきます。

私たちは自然の法則の影響を受けますから、生き方を転換するような出来事が起きては人類はそこから学び直し、何度も文明をやり直してきました。今は、まさに文明の転換期ですがどのようにこれを立て直すのか。

私もブロックチェーンストリート構想を掲げていますが、新しい道徳経済を甦生するために知恵を絞りだしていきたいと思います。

菜の花の力

この時期の室礼で用いるお花はほとんどが菜の花になります。菜の花といっても、茎の大きいものは菜の花ですが細いものはからし菜になります。私は高菜も大根も育てていますから、菜の花といってもその形状も異なりますし色合いも異なります。

菜の花はアブラナ科のアブラナ属になりますが種類は豊富で、一般的に知っている野菜だけでもキャベツ、芽キャベツ、ダイコン、小松菜、ブロッコリー、白菜(ハクサイ)、チンゲンサイ、カリフラワー、ケール、カラシナ、カブなどがあると思います。これらの花はすべて菜の花と呼んでいます。

またこのアブラナ科の油も、菜の花の種から油がとれるということもあります。油が今のように当たり前になかった時代、この菜の花から抽出できる油は大変重宝されました。

江戸時代の行燈はこの菜種油を使っていたといいますから本当に貴重な油だったのでしょう。二宮尊徳が、幼少期に菜種を荒れ地に蒔いてそれを収穫して夜学の油にしたことは有名です。私たちは今は菜の花をみて油を取ろうとはなかなか思わないと思いますが、本来はどの植物や野菜も食べるだけでなく見立て次第で様々な活用をすることができます。

私は先祖に菅原道真公がいますから命日の頃は梅と一緒にこの菜の花を祀ります。これは東京の亀戸天神でも行われていますが、なたねがなだめにもなるといい供養花として活用しています。同時に、梅の清々しさと合わせて菜の花の明るさと希望が満ちている姿が天神様を彷彿させるからです。

明るく清々しい姿はまさに子どもの元氣そのもので、春爛漫の希望に溢れています。季節季節にその時機にもっとも相応しい花が咲きますが、私たちはその時機に相応しいことを直観しているものです。

これは長い年月をかけて、その季節の感性や感情を自然と共に私たちも影響をいただいているということです。まもなく桜が開花しますが、まさに山から田へと風が吹いてきて夏に向けて勢いづいていきます。

長い冬が過ぎて春の滋味が心身に沁みわたります。新しい季節を新しい取り組みを味わいながら進めていきたいと思います。

改善のチャンス

新型コロナウイルスの影響で多大な影響が出てきています。各国政府の過敏な対応を観ていたら、今までの鳥インフルエンザなどとは異なった動きを感じます。真実や本当の情報がはっきりとせず、虚偽や隠蔽などが横行していくと世の中は混乱していきます。

現在のデマも人心が乱れるのもまた、こういう時こそ正直に事実だけを伝えみんなで協力して乗り切る必要があります。どうなるかわからない不安な状態というのは、誰もが自利を優先しようとするものです。しかし周りも不安でみんな大変だからこそ、協力して注意して乗り越えていこうとする力に転じていくしかありません。

私たちの会社では、「暮らしフルネス」をちょうど実践するチャンスとして勤務時間を短縮してその分、暮らしに力を入れる機会にしました。具体的には、「健康クラブ」的なものをみんなで発想を持ち合い、朝の体操や運動、また食生活の見直しや規則正しい睡眠、ゆったりと心身を穏やかに寛ぐ時間などを取ることにしています。

本来、どのようなことが起きようとも私たちは健康でなければ働けませんし、生活習慣を改善して加齢や環境の影響に順応して日々を充実させていこうとします。当たり前のことを見直すには、このような有事の時の方が取り組みやすいともいえるのです。

またテレワークなど色々といわれますが、日ごろから「信」を優先して協力して一緒に取り組んでいる仲間であればどこにいても情報共有しながら助け合って働けるものです。

日ごろの仕事の見直しも、この有事の時だからこそ当たり前に気づき取り組みやすいのです。

禍転じて福にしていくためには、自分だけではなくどのように全体が善になっていくか、また本質的に取り組むかが大切になっていきます。

子どもたちの未来に似たようなことが発生した時、どのように運を高めていくか。そして信を磨いていくか、一つのお手本になれるように精進していきたいと思います。

仕合せの場

人類は助け合うことで、様々な困難を乗り越えてきました。それは遺伝子にインプットされ、助け合うことで人は仕合せを感じるようにできています。仕事の原点もまた、その助け合いの場として発展してきました。

現代は、仕事は成果主義や評価が入ってきて助け合いをするためにというよりも業務遂行能力の方が優先されていきました。そのうち役割分担から業務分担になり、余計に人間関係やコミュニケ―ションが薄れていきました。そのことから仕事も次第に楽しい要素が失われていき、何のために働くのかという原点が議論されることもなくなってきました。

以前、日本理化学工業の会長から働く仕合せのことをお聴きしたことがあります。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の四つです。人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、そして、人から必要とされること。愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです」

働くのは、本当の仕合せを求める人間の証であるという言葉。とてもしっくりきます。この働く場には、「助け合い」という人間がもっとも愛を感じるものが存在するからです。

仕事で成果を出すためだけに人は働くのではない、助け合うことで愛を感じ、生きる仕合せ、一緒に取り組む喜び、そして誰かのお役に立てることのつながりが深く味わえるのです。

働くことは単に仕事をすることではなく、働くことは人間としての仕合せのために働くのです。とすれば、会社は何をする場かということです。それは仕合せの場であるという認識に切り替えなければなりません。

仕合せの場とは、その人間一人一人が助け合える喜びを感じ味わえるようにしていく場であるのは自明の理です。

同じ仕事であっても、働くであっても、そのもとになっている理念や考え方が異なればその結果としてその言葉の定義も異なります。仕事は助けてもらわないとできないからこそ、助け合いが生まれやすいのです。

子どもたちが豊かで幸福な人生を味わうためにも、仕合せの場を広げていきたいと思います。

初心のまま

人は生き方を優先すればするほどに正直になっていくものです。自分の本心を偽らず、自分の本当の姿を大切にしながら生き方を手入れすればするほどに素直は磨かれていきます。その素直を磨けば磨くほど、今度は正直になっていきます。無理に周囲に合わせたり、周りを意識することなく、本当の自分の心のままで他人にも自分も接することができるからです。

正直者というのは、自分に対してどう接するか。自分の本心を偽らずにどのように思いやりを持って生きるかということとつながっているようにも思います。

子どもの頃、正直さというのは何よりも安心感がありました。自分のまま自分とつながっていることで自己の調和を味わい仕合せを感じるものです。それが、外発的な力によって次第に正直ではなくなっていき自分を見失ってくると自己肯定感も下がっていくものです。

今を生きる上で課題になるのは、教えられないことの中で本当の自分というものの存在に気づけるかということ。そしてその本当の自分と一体になっていくということ。つまりは自立をする過程において、どのようなプロセスを通ってそれを実現するかということが大切であるように思います。

自分に正直な人は、他人も正直になります。自分に素直な人は、他人にも素直になります。正直さや素直さのもっとも大きな効果は、自分の観念や価値観、その世界が素直さや正直で溢れることでしょう。

それが生き方として出てくれば、その分その生き方を通して周囲にその正直さや素直さの美しさや価値を弘めていけるようにも思います。子どもたちの姿を観ていたら、自分のやりたいことに正直で、自然体で素直そのものです。赤ちゃんをはじめ、初心ないのちはみんな初心のままです。

初心を大切にするという生き方が、子ども心を守っていくように思います。

引き続き、人類の未来に向けて生き方を磨いていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。