人生を振り返ってみると、人は役に立つことで仕事は発展してきたように思います。自分がやりたいかやりたくないかというよりも、自分が役に立つことが喜びで仕事は増えていきさらに働き甲斐が出てくるのです。
仕事がないというのは、単なるお金が貰えないという意味ではありません。仕事がないというのは役立つことがなくなったということです。これはとても辛いことで不幸せなことです。
私が以前お会いして感動した方に、日本理化学工業の大山泰弘さんがこのような言葉を遺しています。
「工場見学に来る小学生や中学生に『働くって、どういうこと?』と投げかけると
『おカネをもらうことです』って。大人たちがそう言っているんですね。でも僕は、働くとは、人に必要とされ、人の役に立つことだと思います。」
そして会社とは本来、社員に「働く幸せ」をもたらす場であると定義します。
働けることとは、役に立てるということ。人間は誰かの役に立っていると感じられるとき仕合せを感じ、その人が役に立つときまた仕合せを味わえるように思うのです。なぜそうならなくなってきたのか、そこには利己主義や利益第一主義、自分さえよければいいという資本主義経済の社会の影響を受けているように私は感じます。
誰かにとって必要と不必要が無理やりにわけられ、利益に役に立たないものは不必要として捨てようとする。いわゆるゴミのように扱い、ゴミのように接することはその人の個性を尊重したものではありません。
人間にはそれぞれ一長一短があり、また能力の差もあります。利益を出せる能力が高い人間だけを評価し、そうではない人間を粗末にするというのは皆が働く幸せを感じられる場にはなりません。
みんなが働く幸せを感じられる場というのは、能力で誰か特定の人が評価して仕分けるのではなくみんなが必要になる場を創造していく必要があります。
みんなが必要な場とは、シンプルにいえば「助け合いの場」を創造することです。社會は信頼し助け合うための場であると考えるのなら、自ずから仕事の定義が変わります。そして働く意味が変わります。そうやって、人間は社會をどのように創造するかで幸不幸に分かれていくのです。
お金をたくさん貰える仕事が価値があり、そうではない仕事は価値がないかというとそうではありません。みんなその仕事は必要で、時にはお金と関係しないような芸術や文化、伝統などもまたみんなが仕合せになる社會のためには必要な仕事とみなしみんなで助け合うべきなのです。
今回の新型コロナウイルスでも、ドイツなどはアーティストやフリーランスの仕事を国家において必要な存在であるとし大きな支援をしています。これは文化を守ることであり、民度が試されることなのです。
現在の政府の対策は、残念ながら視座が低く国民の幸福を優先しているものではなくその場しのぎである感じがします。緊急事態でもあり、きっとトップの方をはじめ周囲も不眠不休で対応されているとは思いますがこういう時こそ少しだけでも立ち止まってみて何が国家の本質的な成長につながり、何が国民の本当の仕合せになるのかと原点に立ち返ってみるといいように私は思います。
世界人類は、みんなでどう幸福な社會を創るか。
どこかの国だけが搾取し富み栄え、ある国だけが只管に貧困で苦しむ、これが幸福な社會なのかと向き合う必要があるのです。この社会を反対に読むと会社ともなります。
現在、発生している世界を巻き込んだ有事においてどれだけの人がこの出来事と本気で正対し、原点に回帰しこれからの社會をどうしていくかに気づけるか。そこに私は人類の未来が決まるように思います。
世界は一つなのだから、せっかく生まれてきたのだからみんなで働く幸せを味わい、誰もが助け合いによって必要な社會を創ろうと生き方や働き方を改革していくチャンスにしていくといいように思います。
子どもたちの未来のために、働く仕合せを追求していきたいと思います。