徳の道

自然との共生を私は徳循環と定義しています。すべての徳がそのままあるがままに循環するとき、この地球の生命システムはもっとも調和し全体最適により最幸の状態を持続し続けることができます。

つまり徳の循環の邪魔をしなければ自然は次第に共生の方へと恢復していくのです。

しかし現在は、人間にとっての得循環ばかりを追い求めているうちに人類は自然から孤立してわが物顔でいる状態に入っています。一時的な便利さを追求しているうちに、自然の摂理を壊すものを科学とも呼び浮かれています。

例えば、核エネルギーも、身近では防腐剤、遺伝子治療、新薬の開発など、本来、自然ではないものを見つけ出してはそれによって自然を凌駕したとも思い込んでいます。

結局は、自然の一部としてあるのが人間ですから自然のものを使うしかなく、自然に許してもらいながら自然に反するものをつくっては自然を破壊していく。まるで、反抗期の子どものように親に迷惑ばかりをかける存在のようになってしまっています。

親孝行の徳のことを、近江聖人の中江藤樹はこういいます。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

孝徳、これは二宮尊徳に言えば報徳とも言います。

つまり徳によって生きている私たちは、徳をいただき存在する徳の一部であるということ。だからこそ自分たちもその徳を循環させていく大切ないのちの使命があるということでしょう。

私たちは、自然の徳の教えを受けてここまで育ってきました。今の体も、心も、また豊さを感じる五感も、すべて自然の徳によっていただいたものです。それを存分に発揮して自然界のすべてのために貢献する。

その生を全うして、全体の徳循環を促していくことが人間のお役目であり仕事だったはずです。万物を活かすもの、万物を支え合うもの、万物の徳の循環を促すもの、それが人間の目指す大徳だったはずです。

天地の大徳こそ、人間の志した大徳であったものが、その反動からか真逆の生き方になってきました。不老不死、栄耀栄華、まるで権力にみんなが呑み込まれていきました。社會をつくる動物ですから、その業があるのは仕方がありませんが人間には理性があり、智慧があります。

人格を磨いていく中で、如何にそれを悪用しないように工夫するか。それは先人たちも同様に挑戦してきたことでもあります。今、世界はコロナ後でまた同様の過ちに向かおうとしています。ここで気づく人と、ここで戻る人が分かれます。この分かれ道は見た目はそんなに差がなくても、未来には偉大な差として顕れます。

徳の道を歩む人は、この分水嶺の重要さに気づいているはずです。子どもたちのためにも、勇気をもって変える勇気を実践していきたいと思います。

真心の暮らし

私の郷里には疫神社というものがあります。父が随分前にその疫神社のお社の修復で奉納したご縁からこの存在を知りました。疫神様というのは不思議に感じるかもしれません、特に欧米ではウイルスを神様にするなどとんでもないと思われるかもしれません。

しかし日本人は、古来からなんでも人間が上でそして自然の中に敵対する関係を築こうとすることはせず、常に自分自身を見つめ平等にお互いを尊敬し、尊重し合い折り合いをつけて共生するという生き方をしてきました。

その証拠に、八百万の神々といってすべてのものを神様として信仰し、お互いに心穏やかに平和に暮らしていこうと取り組んできました。決して善悪に照らして誰かが裁くというのではなく、お天道さまにお任せしながらお互いに「裁かない」という生き方をしてきたのです。

現在は、何かあればすぐに裁く傾向があります。なんでも善悪・理非を捌きますが、その裁いているのは一体誰かということです。みんなが神様だからという尊重し合う関係と、自分がまるで何物かの偉大な神にでもなったような尊大な態度とは同じ神でもまったく意味が異なります。そもそも尊重することと、比較することは同じことではありません。みんな違ってみんないいという発想と、みんな同じだから違いは許さないでは平等や公平の意味もまったく異なってしまいます。徳と法というものもありますが実際には徳の中に法があるのであって徳と法は比較するものでもないのです。
そういう社會になっているのは、社会基盤の前提の枠組みやシステムが裁くシステムになっているからです。

日本人の先人たちは、万物のいのちはすべて等しく自然の一部であるという思想がありました。その証拠に、日々の暮らしはすべて自然との共生で成り立たせ、動物や植物、あらゆる虫まで共に暮らす神様として一緒に生活を営んできました。つまりこの世もあの世もすべて神々(自然)の姿としたのです。

江戸時代なども文献からも家畜といわれる牛や馬やニワトリたちも、人間と寄り添うように生きて一緒に生を全うしていきました。共生する仲間たちを人間の都合だけで捌くということをしない暮らしがありました。

疫病が疫神社になって疫神さまになるのも疫病が流行って大変なときに疫病を恨むのではなく謙虚に同じ神様としてお祀りして御怒りはごもっともとしてご機嫌よくしていただいていつもの自然の調和に還ってもらおう、その荒ぶる魂を鎮めてもらい穏やかな魂になってもらうようにみんなで感謝を捧げるのです。

私たちの郷里の疫神社にはこういう由緒が書かれています。

「明暦二年(一六五九年)多田村及近邑に疾疫流行し、人民なやみ苦しめり其年十月祠官有光時安十七日間身を浄め、神道を以て妙見大明神に其の事を伺い奉るに、祇園三社を勧請し祈祷をなすべしとの霊告によりて那珂郡博多の津祇園の神を祀り、病邪たちどころに退き邑村の悦ぶところとなる。」

現代では祈祷だけでウイルスを除去するなど非科学的だと馬鹿にされそうなものですが、祈りのチカラというものは科学薬ではなく人間たちの心の中の欲望の魔を鎮める効果もあるのです。なぜそもそも疫病が流行ったのか、そこには確かな理由があり人間の傲慢さが密接にかかわっているのです。

その原因を取り除こうともせずに、単にワクチンを開発してさっさと治して消毒薬で撃退してしまえばそれで終了などとして人間のつくった原因はそのまま放置されるならさらなる人災を増やしてしまうのです。

人災に気づくように、神様(ここではウイルス)が「知らせ」を与えてくださっているのにそれにいつまでも気づこうとしないのではますます共生がまた別の捌くことによって競争になりさらに捌き続けることでいのちたちがいない砂漠のような場になっていくことは自明の理です。

人類は、ここで気づく必要があるから疫神さまがやってきてそれを教えてくれているのではないかという少しでも謙虚な気持ちをもって今回のことに正対すれば自分たちの生き方を見直すチャンスになると思います。

世の中、緊急事態宣言の自粛解除でまた元通りの生活をしようとしています。しかし今度やってくる第二波や第三波はこんなものではありません。先人たちの知恵をちゃんと見習い、なぜその時にみんなで疫の神様としてお祀りしたのか、なぜ今でも神社の境内にあって祀られ続けているのか。

子どもたちが未来に安心して健やかに暮らしを営んでいけるように、それぞれが真心の暮らしを取り戻し、本来の姿に近づいてかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

暮らしフルネスメッセージ

日本人は古来から暮らしの中で神道を実践してきたように思います。日本人は無宗教だといわれますが、それは暮らしの中で文化を継承し、神代からずっとご縁を大切に生きてきましたから無宗教ではなく宗教が分かれる前の原型のままで存在しているということです。

日本人の暮らしとは、単なる海外のライフスタイルということではありません。よく生活という言葉も言われますがこれは暮らしではありません。暮らしはもっと奥が深いものであり、それは神道でいうところの「中今」という実践、他にも「常若」という実践、「むすひ」という実践、等々数えればきりがありませんが本来の実践によって智慧を伝承するという仕組みになっているのです。

実践が優先ですから、理論によって分化させていく必要はなくまさに暮らしそのものの中で粛々と和を維持しながら生き方を大切に道を歩んできたのです。

暮らしが充実するというのは、決して生活が物質的に豊かになる事ではありません。私の言葉では、暮らしの豊かさ=暮らしフルネスというものは神道的な実践を暮らしを通して学び直しそれによって神代の人々と同じような心になっていくということです。

以前、ブログの中で飛鳥時代の人々の暮らしのことを書いたことがあります。最後の宮大工、西岡棟梁が法隆寺の槍鉋の跡や、その当時の職人たちの暮らしを建物から読み取っていくと如何に飛鳥時代が神様のように生きた人々が多かったか、平和で心豊かに愛に溢れた社會を築いていたかということを想像されていました。

私たちの内面にも神代からの魂は今に生き続けており、それが甦ればすぐに私たちは神代の人たちのような暮らしにアクセスすることができます。愛ややさしさ、真心のままに生きてみんなでこのいのちの歓びを謳歌しあいこの世もあの世も楽園になっていく。

そういう暮らしこそ神の道であったように思うのです。決して宗教としての神道ではなく、神の道としての暮らしを実践することが私は本来の日本人の原型であり原点だと確信するのです。

なかなか、この時代、体験していないし世の中の仕組みやシステムが神代のような心にアクセスさせませんからそれを思い出すことは非常に難しくなっています。しかし、「場」を通して、また「家」を通して日本人の心は甦生できると私は確信しています。

今は、意味不明で非科学的と思われることもあるかもしれませんが日本人である以上、今の自分たちは神代からこれまらつながって存在しているのだから必ず思い出す日が来ると信じています。

引き続き、徳を積み、徳を磨き、徳を甦生し、その徳の御魂によって子どもたちの安心できる未来のために行動していきたいと思います。

元氣の素

日本には古来より穢れを祓うという思想があります。この穢れは別の言い方では、気枯れともいいますが魂そのものが澱まないように手入れを行い続けて常に新鮮であり続けるための工夫です。

この思想は、世阿弥の初心を忘れるべからずのようにあらゆる先達の方々が実践の中に取り入れてきました。現代では、あまりこの穢れという言葉を見聞きすることもなくなってきましたが私たちは本来、水の性質を生きていますから水が清らかであり続けるように自分たちの根源的な本質を洗い磨き続ける必要があります。

「洗心」という言葉があります。

これも穢れを祓う禊から出てきた言葉です、読んで字の如く心を洗い続けることで魂を磨くということを示します。私たちは、生きていると色々なものがこびりついてきます。油汚れのようなものから、埃のようなものから、また或いはシミのようなものまで生活の中で様々な垢が出てきます。

それをそのままにしていたら、本来あった瑞々しい本体を維持していくことが難しくなり自分が一体何ものであったのかすら思い出すこともなくなっていきます。自然のままであったものを不自然にすればするほどに穢れは増えていきます。

この自然のままというのは、元素、エレメント、つまり原始的な火、水、月、土、風などのシンプルなものであればあるほどに「そのまま」です。それを加工すればするほどに不自然になるということです。

滾々とわき出てくるような元氣の根源は、常にこの原始的なものと触れているときに活性化するものです。私たちは元氣を失えば、気枯れをおこし、病気になります。心身を病んで精神を痛めてしまえば、まともな暮らしを営んでいくことができません。

古来の先人たちは、常にそのことを意識し穢れを日々に祓うことを大切にしてきました。私も日々の暮らしの中で、火や水、風、土、木をはじめ様々なものを活用してその穢れを祓い元氣を甦生させています。

元氣さを保つというのは、大自然の中に一人、一緒になって存在している感覚を保ち続けることです。現代は大きな刷り込みのシステムがあり、そんなことはいちいち考えないとは思いますが私たちは地球と一人であり、宇宙とも一人です。

地球人、宇宙人であるという意識に先人たちは生きたからこそ神話もあり、星々の運行を直観することもあったのです。非科学的なもの非現実的なものは、現在の常識では非常識な意見とも思われます。しかし実際に、内面の深くに入れば入るほど、潜在意識の奥底に沈めば沈むほどその価値が偉大であることに気づくものです。

私たちは暮らしの中に宗教があり、それを道と呼びました。これは暮らしこそ道であるという意味です。暮らしは文化ですから、文化を生きていれば次第に日本人らしくなっていくのです。日本文化の根源にこの「穢れを祓う」という思想があることに仕合せを感じます。

日本人らしい生き方を実践しながら、子どもたちに元氣の智慧を伝承していきたいと思います。

価値の真実

すべてのものには価値というものがあります。その価値は、目には見えないものから目に見えるものまであります。例えば、ダイヤモンドなどの価値は市場で評価されている価値であることを知っている人には価値があります。しかし何も知らない人には特別な価値を感じないかもしれません。

私たちは知らず知らずに価値というものの判断を市場に委ねているのが分かります。こうやって価値を売買して、価値を交換することで経済は動かされているとも言えます。何が価値がもっともあるのか、それを金融の方で眺めれば世の中が何に執り付かれてうごめいているのかがわかります。

それに戦争でもひとたび発生すれば、武器が売れ、その統治国になるであろう国に資源が高騰していきます。石油なども、何かあるたびに価格が乱降下していきますがそのたびに株価も変わります。

この価値というものの歪さは、市場価値が誰かによって操作されていくところです。いつまでもそのものの価値を保つために、あらゆる操作をしてそれを維持しようとする。資本家や資本主義の持つ、中央集権の仕組みは世の中の価値を標準化していきました。

そのために、市場と切り離されていたむかしからの暮らしを維持していた農村も次第に巻き込まれその価値を押し付けられていきます。市場に参加するように促されていくのです。

一度、参加してしまえば市場価値合戦がはじまりますから市場にとって価値があるものしか製造しなくなっていきます。農家などわかりやすく、暮らしのために多種多様に作っていたものたちがある一つの果物だけを大量につくる農家に変身します。それは市場価値があるもののみを扱おうとするからです。価値がこうやって塗り替えられてしまえば、その周辺の村々に住む人たちの価値観も入れ替えられてしまいます。

何が価値があるのか。

この問いは、本来その人その人によって異なるものです。しかしその自分の価値を生きるよりも、周囲の価値を優先して生きていかなければ無価値になるとさえ思い込み、自分の価値の最大化を怠ることでより市場原理によって価値は中央集権化していきます。

そんなことをこのまま続けていたら、多様性は劣化していき本来の真実の価値が痩せ細り価値があることに気づかない人が増えていくだけです。

すべてのものに価値があるということを私たちの先祖は、八百万の神々という生き方によって守ってきました。そこにはゴミなどもなく、すべてがいのちのある神様として同等の価値を維持していきました。

私はこれを分散型と定義して呼びます、分散型の技術の哲学は私はこの八百万の思想から定義しているのです。ブロックチェーンの仕組みも私はこれと同じものであると確信しています。

これからは本物の価値とは何かをみんなで本気で議論する時代に入ります、そしてその価値をどうやってみんなで最大化していくか。それは生産性や効率性を最大化するのではなく、価値を如何に最大化するかということ。言い換えるのなら、真の豊かさをみんなで生きて幸福な世の中を今一度見直していこうとする時代です。

子どもたちが安心して、自分のあるがままを認められ信じ見守れるような世の中をここから実現していきたいと思います。

新しい常識

私たちは日常を生きていますが、そこには確かな社会システムというものが入っています。それは常識とも言い、また別の言い方では刷り込みとも言います。いくら本人が常に本質的に目的を優先して生きていこうとしていても、霧や霞がかるように次第にぼやけていくものです。

初心を忘れないという言葉もありますが、これもまた常に自分の心のままであること、正直な自分自身であるままに醒めている状態でいるということでもあります。醒めているから、物事があるがままに観えて惑わされることはありません。

たとえば、自然か不自然かという判断基準があります。自然が観えている人であれば不自然というものが何かを見極めることができます。しかしそもそも不自然を自然と思っている人には不自然というものが自然になっているのです。

常識とはそのようなもので、人によって常識が異なりますが誰かが常識を創り上げてしまっていたらそのシステムの中で本質や真実でいようとすると非常識なことをしていると周囲に評されていくのです。

変人や奇人と呼ばれる人は、常識がないと揶揄されます。常識がある人は正常な人で、常識ではない人は奇人変人。では常識がもしも誰かが創り上げたものであって、それが非常識になってしまった場合は全員が奇人変人ということになります。

これくらい人の世は、常識が変わっていくのです。それは時代が変われば変わってしまうことを歴史から学べるはずです。戦国時代の常識、縄文時代の常識、現代の常識、人間はそうやってその時代時代に常識を創り上げていきます。

自然界からすれば、常識は変わることはなく存在します。それは地球の常識に従うからです。私たち人類は、地球の常識を常識にしなくなりました。だから地球からしたら非常識だと思えることを、それこそ非常識だと言い切り、人間の常識を地球に押し付けていきます。

これこそ人類の刷り込みの原因であり、根幹にあるものです。自然と共生していくという生き方は、現代では奇人変人の類になります。しかし太古の時代から、変わらずに私たちは自然と共生してきたからここまで生き延びてきました。自然の常識に逆らって生きていけるはずもなく、自然に淘汰されていきます。

現在、コロナのことがあり人類は立ち止まって新しい常識と向き合う機会をいただきました。この新しい常識とは、決して特異なものではなく本来の常識、地球の常識であることに気づく必要があると私は思います。

新しい常識に生きるのなら、まずそもそも常識とは何かから考えることです。子どもたちの未来の仕合せのためにも、常識の意味を実践していきたいと思います。

コロナの御蔭~人類の転換期~

コロナ後によってまた世の中は元の姿に戻ろうと動き始めています。元の姿の代表的なものは、資本主義経済優先の世の中のことです。コロナの御蔭で、何が価値で何が本来だったかを思い出したのもつかの間、生活の安定のため、不安の解消のためにまた資本主義のシステムに依存するようになっていきます。

しかしこれはすでに限界に達していることが分かっており、また近くに似たようなことが発生することは間違いありません。そもそもコロナはあくまで切っ掛けの一つであり、新しい経済を創造する想像力がなければこのまま第二のコロナは必ず訪れるだろうと思います。

いつまでも資本を優先し、みんながそれぞれに貨幣そのものを欲望しつづけ、目的と手段が入れ替わってしまっている世の中にいることは本来の幸福や自然の調和とはかけ離れており持続するはずはありません。

限界に達している時に、今回のコロナが発生したともいっていい状態であり私たちは何が問題だったのかをよく観察してみる必要があるのです。

私たちは本来、価値を生きています。つまりそれぞれにみんな違ってみんないいという違いを味わうように分化してきました。顔が一つも同じものがないように、葉っぱが一枚も同じものがないように私たちはその違いを喜びにしました。

それが何か一つの価値観のみや、ある優れたものだけを比較差別され、価値を一方的に評価され、その価値以外は無価値かのように扱われていきました。資本主義の本体は、この価値の押し付けであるのは自明の理です。

本当の価値や本質よりも、大多数の集合真理や資本家たちの価値のみが優先されていく歪なシステムというのは不自然極まりないものであり、そんなものは長続きするはずがないのです。しかしそれを長続きさせるために貨幣は次々と発行され、膨大に膨れ上がってきて今があります。

世界自然保護基金WWFがこのまま人類が消費ペースを続ければ2030年には地球2個分が必要といわれます。すでに中国を中心にさらに競争が激化してきましたからすでに到達しているかもしれません。

こんな経済、果たして成り立つのか。ゼロベースで質問すればだれでもわかるようなことを、私たちはわかろうとはしません。

本来、このコロナはコロナ禍ではなくコロナの御蔭と生きていくのは人類の智慧です。何が間違っているのか、どう変異すべきかを教えてくれたのはウイルスたちです。

今の人類がこうなったのもウイルスの御蔭であり、ウイルスがいなければ私たちは進化もせず、分化も促されません。変化の象徴でもあるウイルスが一体、私達に何を伝えようとしたのか。

メッセージを受け取るかどうかは、私たちの意識次第なのです。

子どもたちが未来に安心した暮らしが譲り渡されるように、今やるべきことに注力していきたいと思います。

 

共生の智慧

以前、ある方から蜘蛛やトンボやカエルが古代から稲作と共存してきたことを寺院の古鏡に刻まれていたというお話をお聴きすることがありました。確かに、稲作にとってその3つの昆虫はよく見かけるもので稲を食べる虫を食べてくれる虫でもあります。

トンボやカエルなどは小さい時から親しみがあり、なんとなく愛着が湧いている人も多いように思いますが蜘蛛は結構、嫌われていることが多いように思います。

しかしよく考えてみたら、身近にいつもいる昆虫たちは人間と共生してきたから傍にいるのであり、人間の営みが自分たちにとっても都合がよいから一緒に生きてきたとも言えます。

他にもツバメやニワトリ、犬や猫、もっと以前になれば牛や馬などの動物たちも人間と共生してきました。

お互いの長所や役割を上手く活かしながら、共に生活を営む仲間がいるというのはこれは大きな暮らしの智慧であるように思うのです。そしてこれは自然の共生の原理であり、すべての生物たちはそのようにして仲間をつくり共に互助関係を築き上げていのちを助け合い繋いできたとも言えます。

改めて考えてみると、それぞれの生態系を調べていくことはどのように共生してきたか、また身近な生きものたちから自分たちが何を学んできたかを発見する鍵でもあります。共生の智慧を学ぶこともまた、身近な生き物を深めていく中で自明するように思います。

例えば、先ほどの蜘蛛という昆虫も偉大な生物の一つです。蜘蛛は糸を出しますが、最長で700m近く出し、風で糸を飛ばしては最長で一日に30キロほど移動するといいます。また餌のあるところを見つけては設けた蜘蛛の巣は毎日手入れのために分解し綺麗に作り直します。蜘蛛は狩の名手でもあり経糸と横糸があり、移動する糸と捕獲するための油のついた糸は分けられ絶妙な巣によって昆虫を捕獲して保存します。

また全世界に生息するクモが食べている昆虫の量は、毎年4億~8億トンに及んでいるとの研究結果が出ていてこれは人間が1年間に消費する肉と魚の総量に匹敵するといいます。しかし同時に蜘蛛は食べられる存在でもあり、8000種以上に及ぶ鳥や他の捕食動物や寄生動物が蜘蛛だけを食べて生きているとも言われます。

蜘蛛が全生物に与える影響をみれば、如何に偉大な存在としてこの地球で共生していることがわかります。身近なミクロな存在であっても、マクロで観直してみればそれが地球全体の貴重な共生の一部であることを知るのです。

私たちが身近な生きものたちと暮らすのは、同時に虫たちや動物たちも人類を同様に生態系を維持する共生の仲間として観られているのかもしれません。

自分のことしか見えなくなるのは、人間の弱点の一つです。

視野を広げて、視座を高めて、もういちど、共生の智慧から学び直していきたいと思います。

歴史を間違えない

歴史を学べば、その時代時代に数々のことが発生したことに気づくことができます。その中でも人類の歴史というものと、自然の歴史というものがあるように思います。

人類の歴史は世界史や日本史などもそうですが、その時々で権力者たちによって書き換えられてきたこれまでの人類の変遷です。本来は、人類史というものは世界全体でどのように暮らしを営み現在まで行われてきたかということのみあれば事足りるように思います。つまり人類史は社會史でもありますから、どのように社會を形成して変化させていったか、その中でどのような出来事によって価値観が変容してきたかを知ることで人類という生物の歴史が学べるように思います。

また自然の歴史というものであれば、それは災害の歴史でもあります。隕石や火山の噴火、津波、寒波に熱波、大地震など地球全体の生命を危機に晒すような出来事が現在までに発生してきたか、その中で生命はどのように変化してきたか、これによって自然から生命の歴史が学べるように思います。

今、生きているものたちはみんな過去の歴史を歩んだものたちです。その時々でどのように乗り越えて種を保存してきたのか。これはとても偉大な形跡であるように思うのです。

そしてこの先、同様な危機が訪れた際にどのようにその困難を乗り越えるのか。

それは歴史に学ぶしかありません。

今、私たちは歴史を学んでいるでしょうか。そして本当の歴史を見つめているでしょうか。為政者や意図的に誰かが刷り込むための歴史を歴史と勘違いしていないでしょうか。本物の歴史は果たしてどれくらい役割を果たしているでしょうか。

人類がもしも大きな間違いをするとしたらこの歴史を間違えるということかもしれません。歴史は、私たちの先人からの徳の中にこそ存在しています。それを智慧とも言います。

歴史や知恵から、なぜそうしたのかと洞察するとそこに歴史を乗り越えてきたヒントやコツ、そして答えが記されています。私が古民家で暮らしを甦生するのも、1000年先の子どもたちのための環境を遺すために今に取り組むのもまた以上の理由からなのです。

人は自分というものの小さな単位でしか物事が見れなくなってきました。自然から離れ、個人主義を刷り込まれ、偉大な時間や存在のことを忘れてしまいました。刷り込みの怖さは場や環境から感じ取れるものです。

もう一度、まだ間に合うからこそ一人でも多くがその歴史の智慧や本質を学び直して子どもたちに徳を譲り遺していってほしいと祈ります。自分ができることから、取り組んでいきたいと思います。

スローな暮らしの時代

昨日はBAの畑づくりをしましたが、敷き藁と支柱で懐かしい牧歌的な畑に仕上がってきました。モノづくりをするという環境からどのようなインスピレーションをいただくことができるか。私たちは、豊かな心でモノと接するには豊かな環境が必要になります。

それはなんでも効率優先で無視してきたゆとりや余裕の中にこそ非効率的な豊かさや暮らしの美しさがあるように思うのです。

一見、無駄だと思われて省かれる中に、そして不必要だといって捨てられる中にこそ心の余裕が入っています。この心の余裕とは一体何かということです。西洋ではこれを「スロー」ともいいます。このスローは、イタリアで起こったスローフード運動から派生したもので、効率や利便性を追求する現代人に、あらためて自分自身、また自分の生活を見直そうといった考え方であるといいます。

日本では田舎暮らしのことをスローライフとか言われますが、実際にはグローバル化された比較競争の資本主義経済の社会の中でも他人や社会に翻弄されないでゆっくりと自分自身の懐かしく美しい暮らしを実現させていくようなことを言うと思います。

コロナの御蔭で、世界は一度立ち止まることができました。その上で元に戻そうとする人、元には戻らないというする人に大きくわかります。つまり、元通りがよいという人、元よりももっと善い世の中にしていこうとする人ともいえます。

改めて行き過ぎた過剰な経済競争や欲優先の知性を少し手放し、子どもたちの未来のために自然との調和と人類の社会の平和のゆるやかなスローな暮らしの時代に向けて少しずつ変化していきたいと思います。