新型コロナウイルス感染の経過が日々に報道され、いよいよ全国的に解除に向かっていきます。この後、第二波、第三波が来るのではないかと心配されていますが本当に心配すべきはこの教訓から何を得たかということをもっと真摯に受け取り今と自分を改善して未来を変えていくことだと私は思います。
人は機会を通して学ぶ人と、機会を得ても一向に学ばない人がいます。そして学んで変わる人と、学ぶふりをして変わらない人がいます。大切なことは、機会はなぜ発生したのかというその意味や本質を深めることです。
この機会は、確かな学ぶチャンスであり、そして変わるための切っ掛けを与えてもらったのです。こういう時は、過去に同様に感染症と対峙して日々を刷新し続けた偉人たちの言葉に励まされます。
英国の看護師、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親と称されたフローレンス・ナイチンゲールは変化を常に見据えていました。
「あなた方は進歩し続けない限りは退歩していることになるのです。目的を高く掲げなさい。」
「物事を始めるチャンスを、私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある。」
「人生を生きるには、修練が必要です。「まずまずの目的、過ち多き行為、ぐらぐらしている意志」のうちに人生をうやむやに過ごしてはなりません。」
「看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要がある。」
「何かに対して「使命」を感じるとはどういうことであろうか?それは何が「正しく」何が「最善」であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら「指摘される」からするというのではない、ということではなかろうか。これが「熱中するということ」であり、自分の使命を全うするためには、誰もがもっていなければならないものなのである。」
如何に、真摯に変化をし続けるか、それが学ぶことであり改善することであると語りかけてきます。また学ぶということの本質にはこのような言葉が遺っています。
「経験をもたらすのは観察だけなのである。」
よく観察するものは、そのもののプロセスの意味から深く学ぶものです。私も観察オタクですが、じっと直視してそのものが何のメッセージを届けようとしたのか、そしてどう受け取ることがもっともその出来事から学ぶことになるのかを心がけています。
現実には、時は過ぎ去っていきますがその瞬間瞬間に決断を連続するのが人生です。選ばないという生き方は、単に何も考えないことではなく、無限の選択肢を常に考えつつも来たものを素直に受け止めてそれを活かすという一期一会にご縁を生きる覚悟を持っているのです。
中国の故事にある「木鶏」のように生きることは、簡単ではないからこそ常に自分自身と正対し問答を通して平常心を磨いていく必要があるように私は思います。
コロナ後の変化は、この先の会社や人生を左右する大きな決断ですがフローレンス・ナイチンゲールの「進歩のない組織で持ちこたえたものはない。」という言葉に奮い立たされるようにも思います。
最後に、日本を代表する感染症と対峙してきた偉人、野口英世の言葉で締めくくります。
「人は能力だけでは、この世に立つことはできない。たとえ、立身しても、機械と同様だ。人は能力と共に、徳を持つことが必要である。」
コロナ後の、私の生き方は「徳」に集中すること。
子どもたちのために、覚悟を決めて熱中していきたいと思います。