歴史を学べば、その時代時代に数々のことが発生したことに気づくことができます。その中でも人類の歴史というものと、自然の歴史というものがあるように思います。
人類の歴史は世界史や日本史などもそうですが、その時々で権力者たちによって書き換えられてきたこれまでの人類の変遷です。本来は、人類史というものは世界全体でどのように暮らしを営み現在まで行われてきたかということのみあれば事足りるように思います。つまり人類史は社會史でもありますから、どのように社會を形成して変化させていったか、その中でどのような出来事によって価値観が変容してきたかを知ることで人類という生物の歴史が学べるように思います。
また自然の歴史というものであれば、それは災害の歴史でもあります。隕石や火山の噴火、津波、寒波に熱波、大地震など地球全体の生命を危機に晒すような出来事が現在までに発生してきたか、その中で生命はどのように変化してきたか、これによって自然から生命の歴史が学べるように思います。
今、生きているものたちはみんな過去の歴史を歩んだものたちです。その時々でどのように乗り越えて種を保存してきたのか。これはとても偉大な形跡であるように思うのです。
そしてこの先、同様な危機が訪れた際にどのようにその困難を乗り越えるのか。
それは歴史に学ぶしかありません。
今、私たちは歴史を学んでいるでしょうか。そして本当の歴史を見つめているでしょうか。為政者や意図的に誰かが刷り込むための歴史を歴史と勘違いしていないでしょうか。本物の歴史は果たしてどれくらい役割を果たしているでしょうか。
人類がもしも大きな間違いをするとしたらこの歴史を間違えるということかもしれません。歴史は、私たちの先人からの徳の中にこそ存在しています。それを智慧とも言います。
歴史や知恵から、なぜそうしたのかと洞察するとそこに歴史を乗り越えてきたヒントやコツ、そして答えが記されています。私が古民家で暮らしを甦生するのも、1000年先の子どもたちのための環境を遺すために今に取り組むのもまた以上の理由からなのです。
人は自分というものの小さな単位でしか物事が見れなくなってきました。自然から離れ、個人主義を刷り込まれ、偉大な時間や存在のことを忘れてしまいました。刷り込みの怖さは場や環境から感じ取れるものです。
もう一度、まだ間に合うからこそ一人でも多くがその歴史の智慧や本質を学び直して子どもたちに徳を譲り遺していってほしいと祈ります。自分ができることから、取り組んでいきたいと思います。