暮らしフルネスの定義

現在、BAでの暮らしフルネスの準備をしていますが改めて働き方改革と前提を助けるのが暮らし方改革であることに気づきます。人間は、生き方改革というものもありますが実際には世の中の常識に沿った今までの生活を見直し、改めてどう生きることがもっとも仕合せなのかということに向き合うことが何よりも重要です。

なぜなら、何のために生まれてきたのかという問いがあります。

決してただ仕事をするために生まれたわけでもなく、利害損得ばかりを求めて日々を生きるわけでもない。大切なのは、自分の決めた生き方をどう展開していくかという勇気と覚悟が必要です。

しかしそうはいっても、それができる人は一握りの状態です。どこかで諦めてしまっていますが、工夫次第でいくらでも改革できるものこそ「暮らし」なのです。実際には、暮らしはすぐに改革できます。

例えば、通常の仕事だけ100パーセントの生活をしている人が心の豊かさを増やしていく生活に60パーセント切り替えればすぐに暮らしが充実していきます。それは自然の生き物と共生してみたり、絵画や音楽、あらゆるアートに触れてみたり、落ち着いて日々の手入れや手間暇のかかる食事を味わったり、実際には簡単に暮らしは改革できます。

改革できない理由は、それができないと思い込んでいる先入観なのです。私たちの会社は、日々の暮らしを優先し同時に仕事もしています。つまりは暮らしを充実させながら働くのです。ここでの暮らしは、仕事(利益)とはあまり関係がないかもしれませんが、利益を超えた徳があります。この徳をみんなで磨き、徳を楽しみ、徳を味わうことで私たちは暮らしをフルネスにしていきます。

暮らしフルネスは、私たちの造語ですが暮らしは日本人の生き方であり、フルネスは足るを知る心とも定義します。

いよいよコロナ後の未来に向けてBAでの暮らしフルネスをブロックチェーンエンジニアと共に創造していきたいと思います。

禍福一円

私たちの取り組む一円対話には、禍福一円という意味があります。これは禍福は一つのものであり切り離すことができないということ、それを一円の中で観ればちょうどいいことが発生していると受け容れるということです。

無理に転じようとすればするほどに自分の都合が入ってきますから、ちょうどいいとは思えなくなるものです。ちょうどいいの意味は、調和の意味です。調和するというように理解すれば、その禍福はすべてバランスを保つために存在するものです。

人生は、幸不幸が循環しているものです。その都度、喜怒哀楽があり様々な出来事によって人生の妙味を深く味わっていきます。また世界には一人一人別々の世界があり、人生があります。同じ人は一人として存在せず、生まれた時からそれぞれの別個の人生がはじまっているのです。

その人生を省みて、如何に様々なことをちょうどいいと感じるか。自分の主軸を自然の中に置き、自然と共に歩んでいく中ですべては運命に見守られていると実感して生きることで心は安らかになっていくようにも思います。

以前、新潟の五合庵で良寛さんの詩に触れたことがあります。

良寛さんは、すべてを聴き入れじっと受け容れることを重んじ、あらゆるものをちょうどいいとあるがまま自然体で生きられた方のように感じます。それは詩からその生き方や生き様が垣間見れ、宇宙全体と一体になっておられるような雰囲気を醸しています。

その良寛さんの遺したものに「ちょうどいい」という詩があります。なかなかちょうどいいと思えない現実ばかりの人生ですが、最期はやっぱりちょうどよかったと思えるような人生にしたいと祈ります。

「仏様のことば(丁度よい)」

 お前はお前で丁度よい

 顔も身体も名前も姓も

 お前にそれは丁度よい

 貧も富も親も子も

 息子の嫁もその孫も

 それはお前に丁度よい

 幸も不幸も喜びも

 悲しみさえも丁度よい

 歩いたお前の人生は

 悪くもなければ良くもない

 お前にとって丁度よい

 地獄へ行こうと極楽へ行こうと

 行ったところが丁度よい

 うぬぼれる要もなく 卑下する要もない

 上もなければ下もない

 死ぬ月日さえも丁度よい

 仏様と二人連れの人生 丁度よくないはずがない

 丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信が生まれます

 南無阿弥陀仏

子どもたちにも、自分自身を全肯定して仕合せを自らが決めていく生き方になるように実践を積み重ねていきたいと思います。

心のこと

私の両親は小さいころから共働きでしたら、祖父や祖母がよく面倒をみてくれていました。弟の世話をする私や親戚の子どもたちも年が近かったらかよく一緒に過ごす機会がありました。

特に病気や怪我、そのほか何かのトラブルの時には祖父母を頼っていました。ただ病気や怪我をすると大袈裟なのであまり頼まなかった記憶があります。祖父は、無口で厳しく怖い存在でしたがその奥にある深い優しさを感じていました。

今でも思い出すのは、私が高熱やぜんそくが酷く苦しんでいると聞いた祖父が民間療法でネギを首に巻かれてそれを耐えさせられたことです。病気よりもその民間療法が辛かったので、治ったふりをしたくらいです。他にも、田圃でお米の収穫時の袋に入ったお米を運んで痒くなったり、山で一緒に遭難したり、思い出せばそれはすべて祖父の人柄との接点でした。

祖母の方は、慈愛に満ちていて私が痛い体験や辛い体験をすると自分がまるで体験したように感情を含め共感してくれて自分の方がそこまで大袈裟ではないと安心させようとして振る舞っていました。私が交通事故で病院に運ばれたときも、すぐに駆けつけては涙を流していました。心配ばかりしていた祖母に、心配かけてはいけないとその時心から反省したことを覚えています。

私は御爺ちゃん御婆ちゃんっ子でしたから、亡くなった時はとても悲しくて悲しくて涙が出ました。御爺ちゃんは病気で最期に言葉を交わしたのは沖縄に出張に行く前で、手を握ってくれて有難うと声をかけてくれました。御婆ちゃんは御爺ちゃんが亡くなってから3回忌をしてすぐに突然亡くなりました。

御爺ちゃんが亡くなってからはほとんど言葉が少なくなって、感情もあまり出さないようになり、身なりもそんなに気にせず、周囲との距離をおいてあまり人間関係が深まらないように離れていました。最期は、ほとんど印象がなく普段通りの挨拶だったように思います。

悲しみというのは、心から出てくるものです。

この心は現実の世界とまた別に存在していて、ゆっくりとじんわりと動いて生きています。脳や肉体などの反応とは別の存在で、心はまるで霧のように空中に浮いてはゆらゆらとまとまっています。

この心のことを人は魂と呼んだのかもしれません。心は霧や霞のように実態がないのですが、この揺られているなかで感受しては様々なことを深く味わっています。

たとえ頭で理解しても、心はそれを感受するのは時間がかかります。準備もいるし、そんなに簡単に味わえるものでもないのが死を受け容れることです。ただ悲しみは、そのまま心をつながります。

心は受け容れることで心を育てます。

いつか誰にも訪れるその日にむかって私たちは生きています。心の弱さを受け容れながら、心のままに心を大切に心にしっかりと明るさと美しさを保ち頂いた宝と記憶を磨いていきたいと思います。

魂の故郷

人間は自分のアイデンティティが確立されている人ほど、他人を尊重することができるように思います。自分自身の中にその文化の源泉が備わっていることに気づいた人は、自己を単なる個性の一つとしては捉えることがないからです。つまり自分というものの存在を深く知る、そこから文化は生まれてくると私は思うのです。

私は、世界の平和というものが何かと考えた時、それはお互いの文化を大切に尊重することではないかと感じています。人類が世界でつながり、それが交流するとき文化は色々な反応を観せてくれます。

例えば、江戸時代であれば鎖国中でしたが吉宗の改革のとき西洋の文化が流入してきて浮世絵がうまれそれがまた海外へと渡りさらなる芸術の発展が産まれました。つまりは、人類の魂が醸成され新たな高みへと進化したのです。

これはもっと前の時代であれば、中国の文化との交流などもあります。今の私たちの日本文化は、長い年月を経て様々なものとつながり合い今があります。

しかし今はどうでしょうか。果たして文化が尊重し合って存在しているでしょうか。文化は多様性が保証されていますが、これは自然の仕組みと同じです。自然が多様性を保障されていれば、文化もまた同様に調和していきます。しかしその自然を人間が不自然にコントロールして自然を人工物にしてしまえばそこに文化の持つ調和が減退していきます。

文化が減退し尊重されなくなれば、戦争がはじまり文化が破壊されていきます。戦争もまた人類の営みの一つかもしれませんが、これだけ世界がつながって一つになろうとするときだからこそ文化人の役割の大きさを感じます。

文化の別の姿を省みると、それはそれぞれの持つ魂の歴史であり自然風土の化身であり、遺伝子が持つ記憶です。お互いに大切な役割やお役目がありますから、それをお互いに全うさせていこうとする。その寛容で見守る社會が、文化の醸成を促していくようにも思います。

まさに人類の魂を磨き育て養うことが文化事業ということでしょう。

私の取り組みもまた、文化事業であると信じています。子どもたちが安心してこれからも末永く文化的な豊かな暮らしを味わっていけるように魂の故郷のような懐かしい世の中を増やしていきたいと思います。

孤立と孤独

先日、一円対話の中で孤立や孤独についての話がありました。コロナで今までなんとなく曖昧にしていた人間関係や社会問題もこういうことがあると露呈してくるものです。改めて、孤立や孤独とは何か、考えてみることにします。

そもそもこの孤立や孤独は、使っている人によってその定義も意味も異なります。また集団の中で使われるときは大勢の方と少数の方でも使い方が異なります。つまり、この言葉は客観的に外側から使われるときと、内面的に主観的に使われるのではその意味が全く異なるということです。

例えば、自ら孤立や孤独といっても志を高くし、目的に向かって我が道を真摯に精進する人には孤立や孤独は自己研鑽のために必要な徳目でありそれは決して悪いことではありません。誰かに甘んじるのではなく、ひたすら道を追求する中で時には甘えず、時には助けてもらい自らの孤独や孤立を高めていくのです。どうしても誰にもわかってもらえないような次元の大きな志に生きるのなら、それはなかなか語り合える朋とも出会えません。しかし、みんなそのようにして偉大なことに挑戦していこうとしますからそれはそれで真摯に初心を省みて実践を積み重ねていくしかありません。孤独も孤立もそれは志を歩んでいる証拠だとも言えます。

しかし、これとは別に人間社會の中で人間関係を大切にしない人や思いやりが欠けている人は別の意味で孤立や孤独になっていきます。人間は一人では存在していませんから周囲への思いやりは常に必要です。困っている人に手を差し伸べたり、みんなが心地よく働けたり、人間関係や信頼関係が損なわれないように常に誠実で正直なかかわりをつくりつづけていく必要があります。それは決して見せかけの関係を創ればいいという意味ではありません。

畢竟、人間関係というのはまずは自分自身との関係性からすべてはじまります。自分への正直さや素直さ、自分をちゃんと大切にできる人、自分自身に対して誠実に生きている人が翻って他人へも同じように正直に素直に誠実にあることができるのです。

自分を粗末にしたり、自分の扱いを乱暴にしたり、自分に嘘をつき続けたり、自分を騙したり、自分との関係がちゃんと維持できなければどうしてもそこに孤立や孤独が発生してきます。まずは、もっとも身近にいる自分自身を大切に思いやる事。これは間違ってはいけないのは、別に自分勝手に自分のことばかりを優先すればいいというわけではありません。

自分を大切にするというのは、相手を大切にするよう自分も大切にし、自分を大切にするように相手も大切にするということです。もしも相手が自分だったらどうしたら喜ぶだろうか、自分がもしも相手だったらどのようなことに感謝するだろうかと、常に自他一体になった境地で人間関係を結んで丁寧にケアしていくのです。

人間は、自分がされなくないことを他人にしないというのがまず思いやりの原点です。そして自分がされて嬉しいことや仕合せなことを相手にも与えていくことで、自他ともに仕合せな心持になっていきます。

つまり「思いやり」とは、そういうことなのです。

「思いやり」がなくなれば、孤立と孤独は身近に常に存在して自分自身の間違いに気づくように語りかけてきます。そして思いやりが足りていけば次第に孤立や孤独は仕合せにつながっていることにも気づいていきます。そう考えてみると孤立感や孤独感は自他への思いやりの欠如への渇望感なのかもしれません。

みんな自分自身の心に素直に正直な人たちが、子どもたちが安心できる社会を創り上げてます。人間はもとは自然物ですから、自然の心は誰にも備わっています。それをある人は良知ともいい、ある人はまたそれを真心と呼びました。

真心の生き方をする人には、孤立や孤独というものがそもそも存在せずただ感謝のみの豊かな世界が広がっているように思います。みんなたった一人ではありますが、独りぼっちでは生きてはいけません。持ちつ持たれつ生きていくのですから、思いやりを持って日々を大切に過ごしていきたいと思います。

子どもたちに思いやりの徳を活かしあえるような社会にしていきたいと思います。

みんなが恩人

「恩」という言葉があります。辞書の大辞林には「他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。」と記されています。この恩というのは、人間は誰でも恩をいただいていない人など存在しないことがわかります。

つまり人間は、恩によって成り立っており、その恩をみんなで与え合うことによって生きていくことができるのです。そしてその恩には色々なものがあるように思います。

例えば、親の恩、先人の恩、社會の恩、自然の恩、身近な人の恩等々を数えればいくらでもでてくるのがこの恩です。多くの恩をいただいてばかりですが、その恩を返していくきながらまた新たな恩を循環させていく、それが人生のようにも思います。

恩返しや恩送りという言葉もありますが、実際には偉大な「恩」の中で存在していますからもっとも大切なのは「恩を忘れない」ことだと私は思います。

恩を忘れないで生きていくのなら、いつも自分は恩に恵まれていることも忘れません。その恩はどのようにめぐっているか、そしてその恩は一体どこからやってきたものか、そして自分という存在が如何に恩によって醸成されているか、その徳が備わっていることを自覚することができればみんなが恩人になるのです。

恩人の中で生きている、そして自分も恩人として生きていく。

この恩を忘れない実践が、感謝になり心の平安や豊かな社會を築いていくことができるのです。現代は、恩という言葉もあまり聞こえなくなってきました。利害損得ばかりが語られ、騙されたとか、嘘をつかれたとか、嫉妬されたとか、恩を忘れている時の状態が続いています。

この恩を忘れない仕組みこそ、徳の循環の仕組みです。

徳積の仕組みを、人々に還元するために知恵を絞っていきたいと思います。

コロナシフトの意味

世の中には本当のことだけれど、目を背けて誰も気づかないふりをすることで溢れています。これを常識といい、この常識を変えるというのは不可能だとどこかで諦めているものです。

時に、真実はこれまでの常識に気づかせる機会になります。しかし常識に気づいて、これからどうするかとなったとき、その常識は自分たちにとってとても都合よく再設置されていくのを感じます。

例えば、自然環境でいえば今回のコロナによる自粛で自然環境は驚異的な回復をみせました。CO2の削減にはじまり、あらゆる生態系が増えて同時に汚染が収まっていきました。過剰な経済活動と競争を繰り広げていく中でみんなが利潤を猛烈に追いかければ自然環境は犠牲にしてもいいというのは常識であったことに気づいたのです。

他にも、過剰に都市型社会に固執して密集させて便利にしていった結果、これが今回のコロナの最大のリスクになっていきました。古来から多様性の保持のため分散させてきた各々の地域での文化や価値観を、一つの文化や価値観ばかりを取り上げて一極集中してその強みばかりを追いかけつつそれ以外を弱さだと切り捨ててきたことで人間社会の信頼関係が非常に脆くなってしまいました。弱さを絆にすることが常識であったものを、弱さは悪であるとさえ語りそれを目に見えないところに追いやるのが常識であったことに気づいたのです。

この人間の欲望は、今更、切り離せない、だから前提は変えずになんとかできないかとみんな議論ばかりをしては部分最適ばかりで評価されてそれがさらに現在の常識の厚みを深めていくという悪循環です。

エコやエゴなど、もうすべてどうでもよくなる時が来ます。地球という家でステイすることもできなくなったとき、私たちはどこかの星に移住するのでしょうか。住みやすい世の中というのは、一体誰にとって住みやすく、誰にとって住みにくいのか。

本来、自分の家とは何か、歪んだ個人主義の先にあるいびつな家族像も気になります。生まれてすぐの子どもたちを観ていたら、社會の原型がちゃんと継承されているのを実感します。

むかしは、子どもは国の宝であり地球の宝だと定義されていました。個人的なものではなく、自然的なものとしてみんなで大切に見守り育ててきました。当たり前のことですが、果たしてこれが今はどうなっているのか。

人間は便利で自分たちにとって最高の環境にしてきたかもしれませんが、その人間にとって最高の環境が最悪の環境に突如と切り替わる日が必ず訪れます。その時、人はそれまで前提としていたものが崩れ、常識を無理にでも変える必要に迫られるのです。

環境にとって人が変わるというのは、真実だということも今回の体験で気づいたことです。引き続き、場の力を学び、どのような場によって新たな未来を子どもたちに譲っていくか、気を引き締めてコロナシフトを共に歩んでいきたいと思います。

本物の知性

起きた出来事をあらゆる角度から検証し、内省し、改善する。これはご縁を活かす生き方の一つです。実際に、もしも知識や言葉がなければ人間はどのように学んでいくのでしょうか。

それは先ほどのように、ご縁のみを振り返りそこから発生した出来事を思い出し心の感じたままに修正を続けていくのでしょう。まさに自然であり野生の感性だと感じます。

どちらかといえば、世の中は人工的なエコの世界で理屈を考えて物事を判断するようになっています。次第に飼いならされた動物園のようになり、ワイルドな感性は失われ野生動物が次第にいなくなっていきました。

山林では、いまだに野生のイノシシやシカやサル、クマなどもいますがほとんどが都会の中で現れることはありません。しかし本来、私たちは何処から来たのか、どのような暮らしをしてきたのか、それを思い返せば野生から来たのはわかります。

野生動物は動物園ではありませんから、それぞれが尊重しながら持ちつ持たれつに一緒に自然界で生存しています。動物園のように飼いならされて仕事をさせられていませんから生きるためだけに野生を放ち、イキイキとその野生を謳歌していきます。

実際には野生の生き物の方が、肌ツヤをはじめ眼光や放つ身体からの雰囲気など圧倒的に新鮮です。動物園の方は、残念ながら元気がなく野生が消えてダラシナイ姿になっています。その姿を動物は知性とは呼ばないとは思いますが、人間は知性と呼び、都市化されて飼いならされた世界に憧れるようになっています。

教育の力は絶大で、最初から野生を忘れると野生であることがよくないことのように感じるのかもしれません。しかし人間は必ず、自分の天真天命を求めていくときその根底にある野生に回帰する必要があるように感じます。

それはいのちの根源であり、仕合せの源泉でもあるからです。

日本人の先人たちは野生のままに国を実現していきました。それは家の暮らしの中にも観てとれ、野生の感性を存分に発揮して暮らしを充実させていました。まさに本当の豊かさを持っていました。それを今は、懐かしいと感じる人もいると思いますがこの懐かしさは野生の感性が呼び戻そうとするのではないかと思うのです。

野生の中には知性がないのではなく、野生の中に本物の知性があると考えること。それがこれからの自然との共生に根を下ろすときの重要なカギになると私は思います。

子どもたちが生まれながらの子どものままで暮らしの豊かさが味わえるように、日本の心、その和の持つ伝承を続けていきたいと思います。

リジリエンス~自然の回帰力~

私たちは復興力というものが備わっています。これをリジリエンスと英語ではいいますが、元に戻る力、言い換えれば回帰力のようなものがあるということです。すべてのいのちは、自然から発生して自然に回帰しますからシンプルですが私たちは自然の一部であることからは逃れられないということです。

これを必死で逃れようとするのが人間の科学なのかもしれませんが、逃れられないと思う瞬間が必ず訪れます。それは自然災害や天災、天敵が訪れるときです。今回のコロナは、天敵のウイルスです。この天敵というものは、決して敵味方の時の敵ではなく天とついていますから自然循環の中で調和を司る神様のようなものです。

科学がどれだけ進歩しても、いくら自然から離れて征服した気になったとしてもそんなものはほとんど通用しないことを自然は必ず私たちに伝えてきます。謙虚にバランスを保っていた日本人の先祖たちは、智慧を積み重ねて独特な自然との共生文化を創り上げてきました。

その智慧は世界でも類を見ないほどで、それを先人たちは「和」といい、この和の文化を通して自然と上手く折り合いをつけながら豊かに暮らしていく方法まで辿りきつきました。それを改めて見直す必要があると私は感じています。

そもそも自然の回帰力は、自然の状態に近づける力です。今回、コロナウイルスで人類が自粛しておとなしくしていたらあっという間に空気汚染がなくなり、山林や河川、海にいたるまで生態系が戻ってきたといいます。たかだか数か月、人間が科学をつかった現在の資本主義型の産業構造を停止するだけで自然は随分と回帰したのです。

いくら持続可能だとSDGsとかいって、わけのわからない経済活動ばかりを増やしては自然環境のためにとやっていてもかえってそれで仕事が増えているだけといった矛盾があることに気づくはずです。特に今回のコロナの御蔭で、人間が汚染をするのをやめれば自然は偉大なスピードで恢復するのを実感しましたからもう少し人間はそのことを真摯に受け止めて今の暮らしを換えていく必要があると私は思います。

自然を敵視するのではなく、自然の力をうまくお借りするという発想、自然を征服するのではなく、自然と共生し活かしあう関係を築くということ。これは何億年も前から人類が工夫してきたことの集積が今も伝統に生きているのを感じます。

欧米型の新しい価値ばかりを価値にし、古くからの智慧をなんでもかんでも捨てていきますが捨ててはならないものもたくさんあるのです。捨ててはならないものまで短絡的に捨ててしまうというその価値観が、人類を更に盲目にしていくのです。

だからこそ、そうではない生き方をする人たちによって本来の在り方を見直す必要があります。それは決して原始時代に戻れというのではなく、原始時代にも大切にしてきた智慧を、科学が発展しても守り続けて調和させていく努力をしていこうと言っているのです。

私が最先端技術に取り組みながら、まったく正反対の暮らしを楽しむのもまたこの人類の未来にむけて、子どもたちの将来のために必要だと感じているからです。徳積財団での活動を本格化する前に、仲間を募り同じような生き方をする人たちで新しい経済の思想を築きたいとも思っています。

コロナの御蔭でコロナからはじまる未来を楽しみたいと思います。

スマートという言葉

現在、「スマート」という言葉があちこちで聞かれます。これはIT用語のようになっており、賢い、利口な、頭がいい、気が利く、かっこいい、おしゃれな、粋な、活発な、抜け目の無い、などと訳されています。

実際には、使う人によって言葉の定義も異なりますから何をもってスマートなのかと聞いていると全く別の言葉の意味で使う人もいるので混乱することもあります。

言葉というものは、その言葉を放つ人の生き方や哲学によって全く意味も異なりますからその言葉の定義を確認しなければ鵜呑みにするとお互いの理解の差がますます広がってしまいます。

そもそも何のためにや、その言葉の意味は何かということを質問することはその本質を確かめたいからというものもあります。実際には、言葉には様々な意味が纏わりつきますからシンプルに目に見える実践や具体的な事例がある方が、言葉の持つ定義も説明しやすいように思います。

私は、スマートという言葉は日本語の何を当てるか、それは「智慧」であると定義しています。これは智慧だと思えるものは、スマートだと感じています。

例えば、私は伝統的な日本人の暮らしを活用し、暮らしフルネスを甦生していますがその暮らしは智慧の宝庫です。古民家でいえば、井戸水が湧き、雨水を利用し、通り庭から日陰の風通しをつくります。うだるよう蒸し暑さに対応するために、床下の冷気を抜けるようにしたり、風鈴や水盤、網代敷や葦戸などで工夫します。他には炭を活用して小さく弱い火を活用して様々な料理をつくります。

料理でいえば、味噌をはじめとした保存食にかかわる発酵、また天日干しした乾燥野菜や燻製など色々あります。

そして生き方として、病気にならないような未病の環境を用意しています。自然の四季を先取りして準備することで、無理なく自然のリズムと調和して心身を整えていきます。そこには気枯れを未然に防ぐという仕組みもあり、さらには災害を早めに察知して対策を取るという工夫もあります。私の古民家は河川敷の近くにありますが、歴史をみると何回か氾濫したことがわかっています。神社が高台にあり、何かあればすぐにそこに集まり非難するようになっています。

私が思うスマートとは、この先人の智慧を活かすことをいいます。その智慧は、まさに徳であり、この徳こそがスマートの本体ということです。本来の故郷の在り方、まちづくりの在り方は、先祖の伝統的な智慧にこそ学ぶことです。

温故知新というものは、大切な智慧を守りながら新たな技術を刷新させていくことでしょうからまず前提としての言葉の定義がどうなっているのか正しくしてから取り組むことのように思います。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中にしていくために、スマートに活かしてたいと思います。