学問の本懐

人間はそれぞれに宿命があり、自分のいのちの目的に向かって自然に歩んでいくものです。その手段は、運命もありそれぞれに異なりますが目指している夢が近い人たちとめぐり逢うことで自ずから天命を悟っていくように思います。

人は毎日、他人と出会い、自分と出会い、自己と出会います。どの瞬間にも同行二人であり、混然一体の一人と歩みます。

魂の不思議というものは、離れていても一緒にいて、別々になっても一体であることです。これは意識の世界、無意識の世界、その両面において私たちはつながっているという事実を実感するときに感じるものです。

自然界も同様に、すべてのものは有機的につながり一つの生命体を示しています。早朝、目が覚めれば日が昇るまでに様々な鳥の鳴き声がありとあらゆる場所から聞こえてきます。

鳥たちは共鳴し、ひとつの自然を謳歌します。

これは何千年も何万年も繰り返し、行われてきたものです。私たちは自然が持続する理由をどう直観するのでしょうか。当たり前に存在しているものに対しては、それは当然なくならないと信じ込んでいるものです。しかし、自分の一生だけで限定してみればそう感じたものでも、諸行無常の真理は普遍です。

いつの日か、必ずそれは終息しまた新たな息吹をはじめます。

生々流転し、万物流転しますが、いのちは永遠に存在し続けます。それは空気がそこにあるように、その空気が生きているように、私たちは気体として目には見えないその空間の妙の中にいのちの本体を持っているからです。

こんなことを書くと世の中では宗教やオカルトなどと騒ぎます。しかし果たして本当にそうでしょうか。自分の感覚を極限まで研ぎ澄ましていけば、目には見えない世界に触れられ、さらには脳が使っていない感覚を呼び覚まして不思議な力を発揮することもあります。

科学でしか語れない世の中とは如何に不便で否効果的なものかと感じるはずです、科学も宗教も事実には敵いません。事実がそこにあり、真実があるのなら、それを直視して深めるというのは自然に生きる私たちの智慧であり、そこを正しく判断することで子孫へどうあるべきかを当代を生きる使命がある私たちが果たすことです。

子どもたちは、私たちの世代がどう生きたかで次の舞台を推譲していくことができます。先祖を省みて、あの代の先祖は偉大だったと感じる世代があります。そういう世代に私たちがなるべきです。だからこそ一人一人が小我を超えて大我を目指そうという話です。これは宗教ではなく、生きる道であり学問の本懐だと私は思います。

引き続き、学問の本懐を成し遂げられるように脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。