神代

今日は、徳積カフェのカウンターテーブルの素材を確認するために福岡県の大川に来ています。復古起新に取り組みはじめ、さまざまな古いものを温故し、そしてこの世に新たな価値として甦生させていくなかでその材料との出会いやご縁に導かれて私の民家甦生は完成していきます。

そもそも出会いは、人との出会いだけではなく、物との出会い、魂との出会い、そして時との出会いがあります。

これらの組み合わせの奇妙さは一期一会の日々を彩りこの世をさらにキラキラワクワク輝かせていきます。空の景色が日々に異なるように、出会いがその時々の懐かしい記憶や思い出を醸成するのです。

話を戻せば、今回私が見に来たのは神代欅の一枚板です。

この神代(じんだい)というのは、神代のむかしから眠り続けているという意味でとても数奇な運命をたどっている木材とも言えます。なぜなら神代とは現在よりもはるか何千年も前に火山の噴火などによって地中に埋められてしまっていた埋もれ木を指します。

このとても貴重でほとんど見かけることもない神木は、別名を神代木とも呼ばれて出会うことが稀なのです。時には川底に何千年も前から埋まっており河川工事などによって掘り起こされて発見されるのです。この神代というのは、最初は無垢の木が経年変化によって化石になる途中の段階の木材とも言えます。

地中に入り、空気に触れなかったから千年以上の時を過ごしてきましたが空気に触れれば次第に酸化して朽ちていきます。はるか数千年の眠りから覚めた木材、、文章で表現するだけでもロマンを感じます。

私たちは日々に見かける木材は森を眺めれば感じられます、それが地球というゆりかごのなかで数奇な運命を辿り地中に入りますが木材は眠っているだけで死んでいるわけではないということなのです。

私は今回の徳積カフェは、日本の伝統の木工が光るように徳を引き出していきます。その中で主役でありこの理念の中心に据えたのがこの「神代」であるということです。

木材は決して死んではいません、古民家の300年の梁や天井から今でも松脂が少しずつ湧き出てきます。そして空気を吸い、水分を吸収し今でも呼吸をして生き続けています。

人間は動物だから生きていることの定義は、動いている最中のことだと思い込むことがあります。しかし、この世に生きていないものはなく、すべてのいのちは死しているようで死んではいないのです。

このことで伝承するために、現在は仕組みを構築している最中です。科学はさらに発展していよいよ今まで観えなかったものを観えるようにしていきます。私はそれを両面から実現して子どもたちに、本物とは何か、この世の道理とはなにかを環境を通して伝承していきたいと思います。

 

時のこと

人はそれぞれに時間の使い方というものを持っています。ある人は、時間が忙しくキビキビと流れまたある人は、時間がゆっくりと穏やかに流れます。時間は人間には平等に流れていますが、その感じる時間がそれぞれに異なるということです。

本来、自然には自然界のリズムの時間があります。それは地球が過ごしている時間の事です。地球は24時間で自転し、太陽を中心に廻り365日で過ごします。そして銀河系はまた、長い時間をかけて銀河を廻ります。

私たち動物たちも寿命の長さにあわせて、日々の過ごす時間が異なります。寿命が短いものは、寿命が短いだけにその時間の速さを持ちます。しかし今度は寿命の長い大樹などは数千年の時間をもちますからその時間域で生きています。人間は、現在は平均年齢があがってきていますからそれだけの時間域を持つようになります。

つまり私たちが時間が早いとか遅いとかは、人間を基準に考えていますから実際には異なる時間域でそれぞれが生きていて時の交点によって重なり合うところで場を分け合っているということになるのです。

しかし、その時間をどう過ごすのかはそれぞれの生命体の物理的な時間軸と精神的な時間軸があるのは間違いありません。心穏やかに生きる人や、精神がとても安定して成熟した人たちは時間の使い方が異なります。どんなに有事で環境が変化著しい状態であっても高僧の瞑想時のような悠久の時を過ごします。

その時は、単なる物理的な時間ではなく心の中に無限の時を持っているという具合です。それは時というものの本質を現わし、本来は時は動くものではないという真理を象っています。

私たちは無意識に時には過去と未来があり、前にだけ進むものだと認識します。過去は過去と呼びますが、実際には懐かしいというような感覚、時が止まったままにいつでも回帰できるというものも持ち合わせています。同時に未来といいながら、今を感じて今に生きるとき、今こそが時の中心であるということに気づくことがあります。

このように時は実際には、止まっているものであり動くものではありません。そういう時に生きる人は、常に心に永遠を持ち、精神が悠久に包まれ、時そのものと一体になることができるのです。

可笑しなことを書いていると思われるかもしれませんが、時とは何か、時空とは何を指すのか、掘り下げてみればきっと誰もが同じところにたどり着くように思います。

時を大切に生きていく人は、いのちを大切にすることができます。同時に、懐かしい思い出に包まれて、いつも時に感謝して味わい盡していくことができます。忙しい時代にみんな心が時に追われています。もっと時を大切にして、かけがえのない今を子どもたちに譲っていきたいと思います。

新しい場の創造

コロナ自粛の要請で、テレワークやオンラインでの生活様式が続いています。私たちも、1月末からテレワークに切り替え、今でもオンラインとオフラインを組み合わせて働いています。

特に東京では、ほぼ出勤がなくなり月に1度くらいしかみんなと会うこともありません。もともと朝サミットといって、お互いの感情や情報を共有しながら健康的に働くための実践をしていましたからそれが続いているくらいで他はほとんどオンラインでやり取りしています。

とはいえ、私は福岡で場づくりをしていますからあまりコロナの影響も受けずコロナ対策は当然しますがそれよりもコロナ後の「新しい場」を探求して創造することに余念なくワクワクと働いています。

そもそも場にはつながりがあります。このつながりをどう新しくしていくか、そしてそのつながりがどのように場を創造していくか。居場所や全体快適などは、その場づくりする人の思想や哲学、仕組みが大きな影響を与えます。

人はご縁で結ばれていくものですが、そのご縁の集積地をどのように手入れするかは、その人たちの生き方が決めていきます。この手入れという思想には、自己を磨くという生き方があります。自己研鑽を通して、目的を磨き続けていけばそのうち場が醸成されていくからです。

最近では、この醸成する喜びや仕合せというものが遠くなっているように思います。私は、発酵が大好きですから、色々なものを醸成しています。漬物をはじめ、パン酵母、ぬか漬けに味噌、そのほか畑の作物もそうですがすべて醸成するものばかりに触れています。

そうすると、そもそも醸成することが場づくりであり、場は醸成することで出来上がるという道理を知るのです。そして今、場が求められてきています。しかしこの場とは、単なる今までのスペースではないことは明らかです。

スペースがあったからと人は集まれなくなったのです。だからこそ場に集まる意味が必要な時代になったのです。場はこれから新しい時代の新しいつながりを醸成していくところです。

子どもたちが、安心して未来に希望をもってつながり合えるように今から丁寧に手入れし仕込んでいきたいと思います。

木工の伝承

日本には、暮らしを支えてきた道具がたくさんあります。私が日ごろ使っている道具たちもまた、千年以上前から先祖たちと共に私たち日本人の暮らしをずっと支えてきた仲間たちです。日々の暮らしの中でその道具を用いて一緒に生きていることが嬉しくて温かくて仕合せを感じています。

そう考えてみると、暮らしとは、道具にたちによって豊かに彩られてきました。最近では、何かオシャレな道具を使っていることが暮らしといわれたりもするようですが、本来は、歴史と職人たちの魂、また使い手の和の心やものを大切にして末永く伝承してきた人々の初心と共に生きている姿の中にこそ暮らしがあるように私は思います。これはこれで、また暮らしフルネスの記事として書いてみたいと思います。

今回は、少し木工のことを深めてみたいと思います。

木工(もっこう)は、木材に加工を施す作業または製作技能、あるいはその職人であり、家具製作(キャビネットおよび家具)、木彫、指物、大工のことを一般的にはさしています。工作、美術、家具製作などの領域をはじめ、建築や土木などの領域でも、木材を加工するときにこの言葉を使います。

私たちの祖父母や両親は、木工のことを大工仕事とも言っていましたが最近では日曜大工やDIYなどといって木製のものを使って様々なことをつくったりすることも当たり前になっています。

日本は全体の国土の7割が森林でできていて、杉や檜などの針葉樹、ケヤキや栗や栃などの広葉樹、これら加工できる樹木が200種類以上あるといいます。

これらの木を加工する中で、指物 (さしもの) 類・彫物類・刳物 (くりもの) 類・挽物 (ひきもの) 類・曲物類・箍物 (たがもの) 類といった木工技法が生まれたといいます。またほかにも斧(おの)、鉈(なた)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鑢(やすり)などの道具を巧みに使う日本の木工技術は世界一とも評されています。

その技術は、仏教伝来からさらに発展し、日本人の精神性がさらに研ぎ澄まされ木工技術を昇華してきました。長い歴史と、高い精神性、そして見事な技術が、日本の伝統的な木工の歴史を醸成してきたのです。

木工製品の醸し出す雰囲気は、この日本の文化と暮らし、そして歴史のうえに成り立っていることを感じます。改めて、当たり前ではないこの日本の木工の粋を究めた木製品に囲まれていると先祖たちの息吹や大和心を身近に感じます。私が和にこだわることの一つに、この木工があることはこれらの意味からです。

ひきつづき、子どもたちに木工の素晴らしさが伝承していけるよう身近な暮らしの道具たちにこだわり大切につないでいきたいと思います。

間の探求

人は病気になることで健康のありがたみが分かります。しかし同時に健康は病気をすることでわかるのだから病気のありがたみも同時にわかったということになります。

これは自然に似ています。自然のありがたみは自然災害や気候変動でわかります。同時に自然災害や気候変動があると自然のありがたみがわかるのです。

人間は、このありがたみがわかるとき、そのものの本体に触れていることになります。そしてこの仕組みは、生と死も同様にその「間」にあってこそ私たちは感覚を得ているということでもあります。

この間にある人と書いて、人間とも呼びます。人間は、社會を形成する生きものです。社會が病んでいることがわかれば、社會が素晴らしいことも敢えて学びます。また社會に見守られている仕合せを感じることで、社會が壊れてしまうことの痛みも感じその両方のありがたさを感じるのです。

平和も同じです。平和のありがたさは、戦争によって知らされます。また戦争があるから平和のありがたさも知るのです。こうやって歴史は何度も繰り返すのは、私達人間は、この「間」にあるからこそ体験から学び、実感を得ては成長する生きものだからとも言えます。

この間に何があるのか、この間が何だったのか、それは時が過ぎていくなかで感じられるものです。それを時間と書きますが、時間は私たちの体験を司るものであり、時代の様相を伝えるものでもあります。

私たちは場や間をよく観察し洞察することで、何が「和」であるのかを察知します。

和を知るということは、場や間を会得するということであり、会得すれば自然とは何かということを直観できるようになると私は思います。

私が場道を通して実践するのもまたこれらの道理を子どもたちに伝承していくためでもあります。一つ一つの意味を紡ぎながら、この先に訪れてくる変化の兆しをよくよく洞察しこれからの時代に備えていこうと思います。

自然の智慧を活かす

今度の徳積カフェの内装は、すべて古材を活用してあらゆる時代物の建具を組み合わせて配置します。また、外壁には焼杉板を一枚一枚焼いて創り上げ、仕上げは“鎧張り”を行います。

この鎧張りは木造民家の外壁に用いられる伝統的な張り方で、まさに鎧のように板を重ねていく工法です。とくに雨の多い地域に多く見られる方法でしたが板の隙間から風が吹き込むことがなく、雨も全て下へ流れ落ちる仕組みになっています。具体的には柱の間隔の長さに調整した板材を、下から上に順々に重ねるように、釘で打ち付けていきます。

焼杉というのは、耐久性を増すために、杉板の表面を焼き焦がし炭素層を人為的に形成したもので別名で焼板とも言います。これは調べると滋賀県より西の地域で使用される伝統技法で、外壁の下見板や土中に埋まる土留め板などに用いられています。なぜ西日本だけなのかの理由はいまだにわかっていないともいいます。

塗料で塗装するのではなく、焼いて耐久性を上げるという発想。これは自然を観察しながら焼いた板がなかなか腐らないことに注目して発明されたようにも思います。

この鎧張りも焼杉も、自然の法則や摂理を上手く活用したものです。今回の徳積カフェのコンセプトには徳を活かすというものもあります。万物の徳を活かすというのは、自然の理法に従うということでもあります。

不自然に人間の都合で建てる建物ではなく、まさに自然の仕組みをよく観察してもっとも理に適ったものにしていくということ。また自然物を用いて、できる限り加工していない自然のものを活かすということ。

まさに「あるものを活かす」というところに自然の智慧は入っています。

子どもたちに自然の智慧を示しつつ、自然の沿った生き方を伝承していきたいと思います。

徳積カフェ

現在、徳積カフェの建築で色々と思案をして素材を組み合わせて検証しています。私の場合は、いのちをもったいなく活かしきる仕組みで取り組んでいきますから世の中に捨ててあるものや、価値が変わってしまったものに息吹を与えてそれを甦生し、さらに観建て直して輝かせるように工夫します。

そもそもこの見立ては、あらゆるものの融合と調和からはじまります。そしてそれを組み合わせを創意工夫し折り合いをつけては新しい価値に仕立て直します。

新しい創造とは、今あるものの組み合わせの再定義であり再構築です。これは自分の成長とも同じで、もともと備わっているものはあるがままですがそれを使い方次第で、また組み合わせ次第でまた別の能力へと変化するのです。

私は建築家ではありませんから、あまり建物のことにどうこうというこだわりはありません。しかし、日本の文化や大和心、民族伝承の智慧には強いこだわりがありますからそれを徹底的に深め、今ならどうこれを活かすか、その価値の最大化や再構築には妥協は一切することはありません。まさに、狂ってるかのようにそのものと一体になってそのものを寝ても覚めても離れることはありません。

今回、カフェを設計するにいたっては「徳」にこだわるのは大前提です。その上で、暮らしフルネスの応用を使って「禅」や「茶」の空間や場の和の仕組みを融合させて組み立てています。

当然、風水を重んじ、日、月、水、石、風、土、木そして火に炭、光、陰、ゆらぎ、時間、手間、色、素材などを丁寧に組み合わせていきます。まるで、自然の野菜をつかって、自然の道具を用いて料理を楽しみ味わうような瞬間です。

本当は、忙しくて大変なはずですがこれらを設計している間はいのちがわくわくしてきます。そして新たな空間と場ができれば、そこに奇跡の人たちとのめぐり逢いが生まれます。

建物を創る喜びは、出会いです。

出会いがあるからこだわりが産まれ、こだわりがあるからご縁が深まっていきます。一期一会の生き方を、この新たな建物に息吹を与え、イキイキといのちが輝けるように真心を籠めて最期までやり遂げてみたいと思います。

真の改善

政府のコロナ対策を観ていたら、本当の問題はコロナではないことに気づきます。これはどの国家でも言えることですが、問題が起きると、その問題よりもその問題が問題になっている本当の理由が観えてくるのです。

例えば、ある国家ではリーダーが不在で責任者がいつまでも出てこなかったり、ある国家ではみんなが不正をして隠し事ばかりをしていて本当の情報が出なかったり、またある国家では自分のことばかりを優先して周りのことは他人事のようにしていたり、またある国家は100年以上前から変化できないでいつまでも改善する気がなかったりと、そのことからコロナがそこの弱点をついて猛威を振るいます。

それをコロナのせいにしていますが、それはコロナのせいではなくその組織や文化、あり方のせいであるのは自明の理でしょう。

しかしその問題を解決しようとしないので、いつまでもコロナは猛威をふるい続けます。

私たちは、きちんと問題と正対するときはじめてそこに変化があり改善が生まれます。問題を先延ばしにしたり、見なかったことにしたり、何もしないということをすれば自然に淘汰され衰退し滅びるのは明らかです。

問題を引き延ばしているうちに、世界は本当の問題にぶち当たるという真実。

地球環境の問題、気候変動の問題、それも同様にこれは人間の問題であるのは間違いありません。いくら地球に挿げ替えても、気候に挿げ替えても、そのこと自体は問題の本質ではありません。隕石が落ちるのならまだしも、こうなるとわかっていてもいつまでも変わろうとしなかって今の災害なのだからこれはもはや天災と呼んではならずやっぱり人災なのです。

人災をどう防ぐか、そこには謙虚さが必要ですし、生き方を決め覚悟を実行するための勇気も必要です。

コロナから観えてきた、人類の本当の問題と向き合い、子どもたちのために真の改善を示していきたいと思います。

価値観の変化と意識の成長

時代の変化と共に、人々の価値観が次第に変わってきているのを感じます。今までは、当然だったものが不必要になっていく感覚。まさに、もう充分にそれを体験して次のステージに入ったということでしょう。

そう考えてみると、人間は常に分断と統合というものを繰り返して社會が形成しているように思います。資本主義経済への傾倒で分断が続き、これでもかというくらいにあらゆるものを分けて処理してきました。物質文明は、物に価値を置いていますから物以外の価値を奪っていくのです。

しかし今は、自分もみんなもという本来の統合へと進んでいるように思います。あらゆるものを分かち合い、それを味わおうという考え方です。これ以上、物ばかりが必要ではないこれからは心をもっと大切にしようとする考え方に価値観が変化してきています。

その証拠に、シェアサービスや、マインドフルネス、持たない暮らしをする人が増えてきています。それは心が豊かになる方へと関心が高まり、心のつながりを取り戻していこうとするステージに入っているということです。

時代は、価値観と共に繰り返しながらその意識も成長させていくように思います。私たちの歴史でいえば、飛鳥時代などは心の世界でありありとあらゆる物が心と一体になって存在していたように思います。

それはその時代の遺跡や建造物、書物などからも垣間見ることができます。他にも縄文時代なども、自然と調和してつながりを大切にみんなでわかちあい生きていました。

現代は、歪な個人主義が進み、お金を中心に機械化された社会で心が忙しさで死んでいて利己的な人たちが身勝手に自然を利用して破壊を続けています。

地球が単なる物置小屋のようになりゴミが蔓延しているかの様相です。

次の時代の子どもたちは生まれながらにその状態をしり、何とかしようとする価値観と共に育っていきます。このままではいけないと、新たな価値観を生き、私たちの代わりにその責任を背負ってくれています。申し訳なさや、悲しみがあるからこそ今の代にできること、私たちの世代でもまだ間に合うことをしたいと思うようになるのです。

私はまずその物置小屋やゴミ溜の状態を、坂本龍馬や横井小楠の言ったようにこの世の中を「じゃぶじゃぶと洗濯をする」ことと、「綺麗に片付けて整える」ことからはじめます。

そして甦生させたものを、心とつなげ直して新たな価値を与え子どもたちがそれを舞台に活躍できるような環境を用意していきます。あとどれくらい、自分のいのちが持つのかわかりませんができることを粛々と実践をして根を深めていきたいと思います。

もったいない暮らし

全ての物や場には「いのち」というものが宿ります。そのいのちをわかりやすく感じる方法は、「思い出」でというものに置き換えてみるとわかるように思います。

無機質だったものが、何かの物語に出会い、そこで共通する「思い出」を持ちます。そのものは、ある人の思い出になりその人の心の中で共に生きいのちを与えられます。するとそれはモノではなく、いのちの一つになって存在するようになります。

つまり「出会う」のです、いのちとしてのご縁と。

これがいのちの一端を感じる方法であり、思い出はみんなそうやっていのちとつながっていきます。例え、片方がこの世から去りそのものがなくなっているように感じたとしてもその思い出といのちは、別のものに引き継がれ一体として残りのいのちの寿命を全うしていくのです。

この仕組みとこの仕掛けこそ、私たちが存在するいのちの真理であり私たちはその仕合せと喜びを無償で天与されているのです。ありとあらゆるものが、変化し、思い出と共に循環するという仕組みは宇宙の本体でもあります。

だからこそ、その寿命を少しでも伸ばしてあげたいという思いやりはその人の寿命だけでなく全体の寿命も伸ばしていくのです。それを神道では真心といい、観音様は大悲といい、イエスキリストは愛といい、孔子は仁と呼んだようにも思います。

もったいないというのは、この思い出を大切にしていくということと同じ定義です。下位概念である、捨てないとか、利活用できるとか、その辺ももったいないといいますが本来はこの「思い出」の方を言うのです。

一日、一瞬、人生はそのすべてをいのちと共に歩んでいきます。だからこそ、大切ないのちの思い出を忘れないで、いのちの思い出と共に暮らしていく。

これが暮らしの本体なのです。

暮らしフルネスという言葉は、暮らしとマインドフルネスの合体した言葉であり、現代の西洋思想に取って代わられた日本人が分かるように転換した言葉です。改めて、一つ一つのいのちを大切にしながらもったいない暮らしを味わっていきたいと思います。