本物と醸成

人は、時間に追われ効率ばかりを優先していくと次第に本物であることをやめようとするように思います。本物であり続けるというのは、効率を優先しないということでもあるからです。敢えて、手間暇をかけたり、自然に完成するのを待ったり、そのプロセスが本物だからそれが本物になるのです。

現代は、時間がかかるものは科学的な手法で上手く誤魔化して本物風で仕上げます。そしてできる限り本物に近くなってくると、それを本物だと定義していきます。流行り目立ち、人気がでれば本物だとするのです。周りもそれを持て囃していきますが、本物にはなっていないのだからかえって矛盾から本物を演じるようになるのです。そしてみんなも本物だと信じようとするのです。そうなってくると次第に、そのカタチがもっと効率化されついに本物はここまで来たかのように人々から語られます。それは偉大な偽物になったということなのです。

例えば、発酵関連の食品などもそのすべてを科学の力で発酵食品っぽく入れ替えました。発酵もたいしてしないものを短時間に効率的に、淡々便利に防腐剤などによって腐らないようにしてしまいました。

店で売られれば人はこれもまた発酵食品だと思いますから、本物だと信じて購入していますがこれは本物の発酵食品でもなんでもありません。発酵しているものをふりかけのようにふりかければ発酵したのではなく、本来は時間をかけてそのもの全体が醸成されて発酵するから本物の発酵食品になるのです。

つまり醸成するということ。時間をかける、手間暇をかける、一歩ずつ丁寧に変化していく。この長い時間をかけて多大な配慮をし手入れをすることが本物である証だったのです。

醸成なしに本物は決してないのです。

効率優先の世の中は、この逆を目指していきます。短時間で便利に、機械的に科学的に結果を出したものがいいともいいます。しかしそれが最高品質化されたもののように表現します。そのような価値観の中で、そのような製品に囲まれて育てば、本物と偽物がすげ変わってもだれも気付くことがありません。

人の教育や、そして本来の暮らしもそのように塗り替えられていきました。人間も時間をかけてじっくりとゆっくりと醸成されていきます。その醸成される環境は、日本の伝統文化や住環境の影響を受けていきます。穏やかな暮らし、静かで悠久がある場には、私たち日本人をじっくりとゆっくりと醸成します。

またその中で、楽しむ暮らしは日々のプロセスが最大化するように味わえます。日々を味わい暮らす人は、心が育っていきます。心を育てるのは、人間が生き方を通して仕合せになるために必要ですしこれが人間を磨いていくことにつながっていくように思うのです。

物が溢れたこれまでの便利で偽物に囲まれて満足した生き方の時代から、たとえ不便でも手間暇をかけて本物に囲まれた暮らし、新しい生き方に換わるのは時間の問題だと私は思います。

子どもたちのためにも、あるがままの暮らしを楽しみこの醸成する時間をありのままに味わっていきたいと思います。