先日、ある方から「あなたはいのちを大切に扱っている」と仰っていただきました。あまり今まで気にしたことはなかったのですが、日本の文化を学び、日々の暮らしの中で徳を磨き生きていると自然にそういう意識が醸成されてくるように思います。
何かを修理したり、修繕したり、また洗浄したり拭き掃除をしたりしているといのちを観る感覚が養われていくものです。またむかしから大切にされてきたものの傍にいると、なぜか心が安らぎ穏やかな気持ちになるものです。
例えば、花器に花が入れば花も花器もお互いに喜びイキイキしていきます。太陽の光を透過する和紙や古い窓なども光が通ることでイキイキします。室内の陰翳もまた、古い道具たちの徳を顕現させお互いに優しく包まれてしっとりとイキイキします。
いのちは、お互いに活かしあう中でイキイキするものです。そのいのちをそのままに愛でたり、そのままに味わったり、その時々に手入れすればいのちは大切に扱っていることになるのかもしれません。
いのちは、常に経過とともに存在が失われていきます。それは私たちの寿命と同じです。しかしその時々で、いのちの輝きがあり、まるで青春のような状態があり、それを一生のうちに何度も何十回も体験できるようになっているのです。
終わったかと思ったようないのちも、かたちや場を換えてあげればまた新たないのちが甦ります。私はいのちの甦生がとても好きで、それはまだまだ別の使い道を発見したり、今まで価値がなかったところを新たに価値を見出したり、くすんで霞んでいたものを磨いて光らせたり、配置を換えてあげることで別の役割を与えたり、いのちそのものを別物に仕立てたりすることに喜びを感じます。
面白いことに、心はいつもその可能性を楽しんでいます。好奇心や子ども心は、その一瞬をとらえて遊びます。私は、いのちで遊んでいるのかもしれません。子どもたちがいのちを大切に扱い、いのちのままに健やかに生きられるように今此処から発信を続けていきたいと思います。