変化の本質

物事というのは、対立的な処では判断できないことがたくさんあります。それは〇か×ではなく、善悪ではなく、本質というもので判断する必要があるからです。

そして本質とは、状況の中で刻々と変化しますから変化に対して臨機応変に判断していかなければ維持していくことはできないのです。

しかし実際には、ルールばかりを頼ってはそれをいつまでも換えようとしなかったり、もしくはその逆で誰かだけの判断にだけ頼って自分で考えることをやめていたりと、本質からわざわざ離れていくようなことをしては判断を放棄してしまっていることもあるように思うのです。

例えば、今回のコロナであればコロナだからとマスコミや一般的な意見ばかりを優先してそれさえ守ればいいとやっているうちに、一部は差別的なかかわりをはじめたり、もしくは自滅的な行動をとったりするのもその一つです。

本来、コロナのことも刻々と情報が明るみになり変化しているのだからその時々にどのように判断をするのかを周知を集めて知恵を出し、みんなで乗り越えるための創意工夫をしていくことで対立ではない判断もしていけるように思うのです。

本来、日本人は集合知というものを大切にする民族です。

それはお互いを尊重し合って、その中で最適な判断をしつつもみんなでよくないところはカバーし合うという協力して助け合うことが得意な民族です。

その理由は、世界有数の自然災害に遭遇する地域に住むことが理由でもあり、自然の恩恵をいただきながらも、それだけ自然の猛威にも触れる機会が多いからです。

ルールばかりをつくりマニュアルを用意していても、それを超えるような自然災害は発生しますし、歴史的に振り返っても過去にないほどの感染症がやってきたりもします。その時々で、どのように暮らしてきたか、何を大事にしてきたかでその時々の判断は成長し発展し、柔軟に変化させてきたのです。

子どもたちにも、一つの模範になるようにコロナかどうかではなく、本来の在り方、時代が変わっても普遍的な変化への処し方を示していきたいと思います。

兆しを読む

台風10号が通り過ぎていきましたが、準備の御蔭でこちらは無事で済みました。直前に来た台風9号が猛烈で色々と吹き飛ばされて荒れたので、このままではまずいと準備したことが善かったように感じています。

これは自然の法則や摂理が働いているように感じます。

最初の被害の時に、どれだけ次への準備を怠らないか。自然は常に最初に警告を与え、そのあとそこで篩にかけます。篩にかけて用心するものは生き残り、何も改善しないものは死に絶えていきます。

自然災害を思う時、この後、訪れるであろうさらに大きな自然災害に対してどれだけ謙虚に畏怖畏敬の念で自らを改善したか。それが試される時が来ていると実感するのです。

突然に巨大なものが来るのではなく、その予兆といった兆しがあります。

虫や動物たちは、自然と共に暮らしていますが野性を失わず常に周囲に気を配り、あらゆるものへのいのちへの用心があります。そのことから兆しを感覚的に捉えることも早く、準備を怠りません。

油断するとそれはすぐに死につながる世界に生きるというのは、常に感覚を鋭敏にしながらその予兆を嗅ぎ取る力を磨いているともいえます。食べ食べられる関係において、何を食べ何を食べないかを嗅ぎ分けるとき、それは同時に予兆を感じ取って判断しているともいえるように私は思います。

常に危機に備えるというのは、油断こそ本当の敵であるという意味であり常に予兆を嗅ぎ分けて準備を怠るなということでしょう。

そこまでしなくてもと色々な人に言われることがありますが、本来、リーダーとは人々を危険から守る役割の人です。みんなが安心して暮らしていくためにも、誰かが危機感をもって鋭敏に感覚を研ぎ澄ませて予兆を嗅ぎ取ることで未然に危機を脱することができるのです。

本当の怖さは、マスコミや一般論、集団心理ではたらく危機風のことに踊らされ本来の予兆を勘違いしてしまうことです。そのうち麻痺すれば、本当の危機にも対処することができなくなります。

敢えてそこまでしてでもというのが、今の時代の感覚を鈍らせない方法でありこの先の自然災害の篩にかけられて生き残る智慧でしょう。

今回の体験もまた、教訓にして子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

予知の仕組み

今は台風や大雨などは科学が発展し衛星画像などを送って確認することができますがむかしはそんなものはありませんから予知によって判断されていきました。

目に見える予想に対して、目に見えない予知。科学はみんなこの目に見えるようにしていく作業ですから、目に見えないものは消えていくのでしょう。しかし、時として目に見えないものにも長期予測や予知などがありそれを簡単に非科学的だから切り捨てるのはどうかとも思います。

以前、カマキリを研究して積雪予測をしていた酒井与喜夫先生とお会いしたことがあります。これはカマキリの産卵の場所を定点観察することにより積雪の位置を予知したというものです。驚くほどの的中率で、昆虫たちが生き残るために自然を予測しておられました。他にも木々の水分量を測ったりしながら、謙虚に自然から学び感覚を通して真心で接して自然に教えてもらおうとする姿勢に深く感動したことを覚えています。

現在は台風が通り過ぎている真っ最中ですが、台風などはアシナガバチで予知したといわれます。軒下や高いところに巣をつくるときは台風が多い年になるといいます。といっても、むかしは台風という言葉の定義もなく、「野分」や嵐、大風などと呼ばれていました。自然はいつ猛威を振るってくるか、むかしの人たちは予知をするためにあらゆる身近なものを認識しました。

例えば先ほどのカマキリは秋に高い場所に産卵すると、その年は大雪になる。ミミズが地上に這いだしたら雨が降る。クモの巣に朝露がかかっていると晴れる。カエルが鳴くと雨が降る。ナマズが暴れると地震がくる。などです。

特にナマズにはこのような記録が江戸時代の安政見聞誌に残っています。

「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」

現代では、電気信号を予測したからだとか、磁場を読んだからなどがあります。本来、私たちは自然の一部ですから感覚的に自然災害を予測しました。しかし現代は、その感覚を手放して科学的に頭で見えるものに頼って感覚を捨てていきました。

本来、目に見えないものとは感覚の世界であり、私たち人間はもともと自然と同様に感覚が備わった存在だったのです。それと環境や教育によって減退させていき、その力をつかうよりも科学的なものだけを使うようになりました。

しかしです。

それに頼りすぎることにより、これから訪れるであろう自然災害への畏怖や畏敬もまた失われていくのは本末転倒です。どんなにすごいコンピューターが出ても、予測できるものとできないものがあります。それは感覚でしか予知できません。本来、天気予測などは数日から数週間くらいの読みですが、本来のむかしの農家などは半年から数年先、もしくは数十年先までも予測していたといいます。

それは予知に限りなく近いものであり、全感覚と頭脳を発揮しありとあらゆる自然を観察して判断材料にしたのです。科学か自然かである前に、人間はもっと謙虚であるべきであろうと私は思います。それは本当の意味で、災害を未然に防ぐための本質的な予知になると感じます。

先人を倣い、本来の生き方、私たちが生き残るための智慧を伝承していきたいと思います。

自然災害の智慧 ~日本人の役割~

有史以来の自然災害を色々と調べてみると、私たちの想像を超える規模で巨大であったものがたくさんあることが分かります。津波、地震、台風、竜巻、洪水、熱波にブリザード、火山の噴火に隕石の落下まできりがないほどです。

歴史に残って私たちが認知できるというのは、滅亡ほどの災害ではなかったからでもあります。もしも隕石の落下からの大津波で地球全土を洪水にする規模がくれば、文明は崩壊してしまい出来事を知る人はほんの限られた人たちだけになり今のように神話として語り継がれる程度です。

まだ数千年の歴史しか知りえませんが、数億年、数十億年の間には、滅亡するほどの災害に何度も遭遇していることが予想されます。今、私たちは地球環境問題と向き合っていますが改めて今私たちがこの地球で住みよく暮らせることに深い感謝を考えて謙虚さを取り戻す必要が感じます。

東日本大震災でも目覚める人がいましたが、今回のコロナ禍でもさらに気づき行動する人が増えたように思います。人類は、自然災害や天敵に晒されるとき、本能から本質を思い出すのかもしれません。

自然災害を深めて気づくことがもう一つあります。

それは自然災害は一瞬の猛威ですが、その後の人災の方が問題であり多くの死者は災害の後に出ているということです。例えば、食料が尽きて飢饉がきたり不衛生から感染症が拡がったり、人心が荒れて犯罪が蔓延ります。

自然災害というよりも、人災の二次被害の方が圧倒的な死者が出ているのです。これは災害後の人々の在り方、リーダーや政治がどうなっているのか、それまでの結びつき、結び方が露呈するのです。

日本がよく感動されるのは、災害後の人々の道徳的な行動です。自然災害がもっとも多い国だからこそ、何をすれば人が死ぬかを本能的に文化として伝承されているのです。

災害に遭ったから不幸ではなく、災害後に助け合わなかったことが不幸だと自覚しているのかもしれません。災害は乗り越えていくことができます、しかしそれは人類の協力や助け合い思いやり、そして道徳があってこそです。

教育とは一体何のためにあるのか、それはみんなで生き残るための智慧と徳を養い人格を磨き高めて肝心要の自然災害の時でも乗り越える絆を深めるためではないでしょうか。

単なる知識を詰め込み、試験をして大学や就職のためにするものではないのです。平和な時代の教育も確かに必要ですが、これからは自然災害のステージが今までよりも2つも三つもステージが上がり、そこから生き延びるために、生き残るために、本来の生きる力を身に着けていく必要があるのです。

これからの自然災害を生き残る力、それは日本人がもっとも長けていて世界に模範を示す役割があるように私は思います。日本人は、世界のリーダーとして今こそ自然災害後の助け合いの仕組みを人類に示すときです。

子どもたちのために、残りの人生、できることやれること、暮らしフルネスを通して伝道していきたいと思います。

徳の本体

国家とは、クニとイエという言葉で成り立っています。そもそもクニとは何か、イエとは何か、かつての人たちは何をもってクニとしイエとしたか、改めて原点回帰が必要な気がしています。

私は、壊れているものや傷んだものを修繕して甦生させることで徳を引き出し徳に報いる実践をしている場道家を名乗ります。これは本来のものを蘇らせ、かつての本質を磨いて回帰させて今の人たちに再認識できるようにする仕業とも言えます。

本質とは何か、それは本来のものということです。その本来のものとは、はじまりの本質であり分化したり発展したりする前の状態の事です。

例えば、山とは何か、川とは何か、雲とは何か、火とは水とは、木とはなどあらゆる現象の本体を本質ともいうのです。この本体は、形を変えていきますから私たちが言葉にしているのは特徴の一部であって本体ではないことがほとんどです。私はこの本体のことを見出し、それを引き出していく作業をするとき「徳に報いる」という手法を使っているのです。

その本体の最高の本質をどう引き出すか、それには時を遡りながら修繕していくというプロセスが必要なのです。どのように辿ってきたか、そして何があったのか、何を経験したのかを知るとき、そのものがどのような意志と徳があって存在したのかを実感するからです。

これを別の言い方では、歴史ともいい、温故知新という人もいます。

時を遡る作業というのは、時を超越する作業のことです。時という現在の世の中の概念を少し横において、そのもののいのちと深い対話をしながら時の本体を感じるのです。

そうやって徳を磨いていけば、次第にそのものの徳は引き出されて本来の姿に回帰していきます。ものやいのちが甦生するというのはそういうことで、私たちは徳をもって永遠の存在を宇宙や自然に保障されているのです。

こういうことを書くとどこかスピリチュアルな話だなといわれるかもしれませんが、物質的な言葉を使って物質的ではないことを書けばすぐにそう受け取られるものです。言葉には本来、二つの作用があり、目に見える言葉と目には観えない言葉によって形成されています。

私たちが日常で使う言葉のほとんどは今は目に見える言葉になりましたが、目に見えないことを伝える言葉も本来はたくさん存在したのです。なぜならそれが言葉の本体であったからです。二つのものが一つに存在する言葉、それが言葉の原点回帰です。

話が長くなりそうなので、この辺でまとめると大切なのは「徳」を鑑みることです。

徳を鑑みて、本来のあるべきようを悟り、今を生きる。

子どもたちに先人からの徳を磨いて繋ぎ、人類の遺徳をそのままに伝承していきたいと思います。

山とは何か

先日、ある方と山の起源についての話をしました。そもそも登山とは何か、日本人は山とどうかかわってきたのか、少し深めてみようと思います。

そもそも私が山で最初にイメージするのは、神話の日本武尊(ヤマトタケルミコト)です。日本全国のあらゆる山で、日本武尊の形跡を感じます。

本来、日本では山岳は神仏の住むもっとも神聖な場として捉えてきました。入山にあたっては精進潔斎(しょうじんけっさい)をし、白衣をまとい、金剛杖に身を託していた山伏なども有名です。他にも、神話の中では常にその土地の山岳や霊山、聖山に身を清めて投じ、頂上や聖地にて祈りを捧げていました。

他にも、山には先祖がいるとし盂蘭盆会などの行事が伝承されたり、神様は山に住みサクラと共に稲の田畑に降臨すると信じられていたりと山に纏わることはほとんどが信仰の対象でした。

実際に信仰と関係がないような「登山」をするようになったのは明治以降大正時代くらいにはじまったといいます。これは西洋文化の影響だといいます。そもそも西洋文化での山は戦いの場であり、悪魔の住処であるとさえ信じられていました。私たちの日本人はアニミズムといって八百万の神々の調和で成り立ちますが、西洋は対立構造をもって対立概念ですから、善か悪かがはっきりするのです。山は善か悪かとみると、悪とみるのでしょう。

日本人は山や自然は心や魂の還る場所、いのちの産まれる場所と信じていたためそこは故郷であるという定義をします。山に登るというよりも、山を信仰するという気持ちで山に入ります。

私たちの故郷には、故郷の山を持っています。私の場合は、関の山という山がふるさとの象徴ですが遠くから眺めても心が安らぎ、山に入りゆっくりと歩き空気を吸い、頂上で大気を浴びて木漏れ日の瑞々しい風を感じて降りてくれば心身が恢復し、感情や精神も清浄な心地になり幸福を感じます。

山はいのりの場であり、山はいのちの甦生の場なのです。

信仰としての登山がなくなり、単なる経済合理性の登山が流行ってしまうことで山は単なる娯楽の一つになっていくのは寂しいものです。山が汚れたり、キャンプ場が廃墟になったり、山が傷む姿をみるのはなんだかとても辛いことです。

子どもたちのためにも本来の山とは何か、そして山とと歴史、「大和」の尊が歩んできた生き方を伝承していきたいと思います。

畏怖と畏敬

台風9号が近くを通過していきましたが、天気予報の状況とは異なり暴風が吹き荒れています。ここまで激しい風の音は久しぶりで引き続き週末に通過する台風10号に畏怖を感じています。

自然の猛威というものは、私達に畏怖を感じさせます。

私たち人間はなんでも思い通りにできると勘違いして傲慢になってくるものです。そこに自然や宇宙の圧倒的な存在を感じておそれおののき謙虚さを取り戻していきます。

みんな自然に敵対し逆らおうとはしなくなり、また自然を思い通りにできるとは思わなくなるのです。人類はその偉大な存在を畏怖し神とも呼びました。

邸内社のお社もこの暴風で甚大な被害を受けました。この風がおさまり次第、また修繕し家を手入れし福としますがこの一連の出来事の中で確かに神の存在を感じました。この神の存在こそが、自然の畏怖であり感覚としえて思い出す自然の絶大な存在なのでしょう。

人間はその畏怖をすぐに忘れてしまいます。津波や地震も畏怖を感じたはずですが、時が経つと頭で考えられるような津波や地震になり存在を軽んじていきます。正しく怖がり続けることは、謙虚さを維持していくのに大切であるように思います。

また今回のことで家が中の人のことを災害から守ってくれているのを知り、改めて深い感謝の気持ちを思い出しました。大切なものを守るために、自然を敵とするのではなく自然への畏敬の念で家を建てていく。

この畏怖と畏敬という二つは、私たちが決して忘れてはならない自然の摂理への接し方であるように思います。自然の摂理は人間にはどうにもならないということを思い知ること、そして偉大な存在に見守られていること、奇跡の日々を与えられていることなどの中にこの畏怖と畏敬は常にあります。

今回のことも謙虚さを学び直す機会として、真摯に正していきたいと思います。

つながるということ

何かの構想が働き実行されるとき、私たちはそこに大いなる目的の存在を確認する必要があるように思います。人がどの次元でつながるか、それは目的ありきだからです。

実際には、目的よりも方法ばかりに目がいきがちで話し合いもまたその手段でつなげようとしていくように思います。しかし実際には、それぞれに動機があり目的がありますからその目的の純粋性や透明度、また信念などによって集合してくるものもまた変わってくるのです。

つながりというものにも深さがあるということでしょう。

ご縁というものもまた同様に、あらゆるご縁は緻密で大胆、そして微細であり壮大です。あらゆるものは目的に向かって台風のように渦巻いて集まっていきます。時代の流れに合わせて発生する台風のようにあらゆるものを巻き込みながら移動していきます。そしてまた消えます。

私たちの意識というものは、この自然界の摂理ととても密接であり酷似しています。空気のように透明ではありますが、そこに自然の気候のような変動や変化を吸収し移り変わります。

人々は毎日、意識を通して気候変動に関わります。人の意識がまさか気候変動に影響を与えるとはほとんどの人は思わないでしょう。しかし、この意識というものの正体は素粒子や波動というまだ科学が入り込んで間もない分野に関係しています。

意識というものをよく整えて、現在の自然の流れを読む。

風を感じるのも、音を聴くのも、光の揺らぎを味わうのも意識です。意識を自然に調律し、地球の鼓動や息吹に合わせて子どもたちのために確かな未来を読み進めたいと思います。

美しい味わい 旬

昨日、友人たちと庭で育てている自然農の秋ナスを炭火でじっくりと焼いて食べました。旬ということもありますが、旨味も香りも味もどれも最高で調味料などは必要ありません。

現代は肉や魚などを食べますが、本当に美味しい野菜を食べたことがある人は特に肉が必要とは思わないほどに野菜だけで充分だと感じています。ベジタリアンというとなんだか健康志向で野菜が好きな人というイメージですが、実は肉好きであっても今回のような秋ナスを食べればベジタリアンの楽しみがわかるように思います。

私たちは旬というものの本当の美味しさを知ると、味というものの本質を学び直すように思います。最近はスーパーで旬ではないものも売られているため、余計に調理して味付けをしていかないといけませんが旬のものはそれだけで美味しいのです。

この美味しさは舌先三寸の美味しさではなく、まさに旬の美味しさを美味しいと感じてるのです。つまり旬=美味しいという真実を感じているということです。

旬を食べると美味しいと感じる理由は、それが最高のタイミングでお互いに活かしあうことができるからです。一期一会というか、まさにこの瞬間この今、この時という最高のタイミングを味わっています。これは身体全体、魂全体、心や感情すべてが調和を味わいます。まさにその「美しい味わい」が旬なのです。

私は暮らしフルネスの中で、この旬を食べること、旬であることにこだわり取り入れています。それは人間本来の生き方、また地球の中で生きてきた私たちが食べてきたものの本当の意味などを理解して心豊かに仕合せに幸福を味わうことを学び直すためでもあります。

これからいよいよ今年の稲刈りでまた新米を田んぼの真ん中でみんなと楽しみます。引き続き子どもたちのためにも、本来の美しい味わいを伝道していきたいと思います。