予知の仕組み

今は台風や大雨などは科学が発展し衛星画像などを送って確認することができますがむかしはそんなものはありませんから予知によって判断されていきました。

目に見える予想に対して、目に見えない予知。科学はみんなこの目に見えるようにしていく作業ですから、目に見えないものは消えていくのでしょう。しかし、時として目に見えないものにも長期予測や予知などがありそれを簡単に非科学的だから切り捨てるのはどうかとも思います。

以前、カマキリを研究して積雪予測をしていた酒井与喜夫先生とお会いしたことがあります。これはカマキリの産卵の場所を定点観察することにより積雪の位置を予知したというものです。驚くほどの的中率で、昆虫たちが生き残るために自然を予測しておられました。他にも木々の水分量を測ったりしながら、謙虚に自然から学び感覚を通して真心で接して自然に教えてもらおうとする姿勢に深く感動したことを覚えています。

現在は台風が通り過ぎている真っ最中ですが、台風などはアシナガバチで予知したといわれます。軒下や高いところに巣をつくるときは台風が多い年になるといいます。といっても、むかしは台風という言葉の定義もなく、「野分」や嵐、大風などと呼ばれていました。自然はいつ猛威を振るってくるか、むかしの人たちは予知をするためにあらゆる身近なものを認識しました。

例えば先ほどのカマキリは秋に高い場所に産卵すると、その年は大雪になる。ミミズが地上に這いだしたら雨が降る。クモの巣に朝露がかかっていると晴れる。カエルが鳴くと雨が降る。ナマズが暴れると地震がくる。などです。

特にナマズにはこのような記録が江戸時代の安政見聞誌に残っています。

「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」

現代では、電気信号を予測したからだとか、磁場を読んだからなどがあります。本来、私たちは自然の一部ですから感覚的に自然災害を予測しました。しかし現代は、その感覚を手放して科学的に頭で見えるものに頼って感覚を捨てていきました。

本来、目に見えないものとは感覚の世界であり、私たち人間はもともと自然と同様に感覚が備わった存在だったのです。それと環境や教育によって減退させていき、その力をつかうよりも科学的なものだけを使うようになりました。

しかしです。

それに頼りすぎることにより、これから訪れるであろう自然災害への畏怖や畏敬もまた失われていくのは本末転倒です。どんなにすごいコンピューターが出ても、予測できるものとできないものがあります。それは感覚でしか予知できません。本来、天気予測などは数日から数週間くらいの読みですが、本来のむかしの農家などは半年から数年先、もしくは数十年先までも予測していたといいます。

それは予知に限りなく近いものであり、全感覚と頭脳を発揮しありとあらゆる自然を観察して判断材料にしたのです。科学か自然かである前に、人間はもっと謙虚であるべきであろうと私は思います。それは本当の意味で、災害を未然に防ぐための本質的な予知になると感じます。

先人を倣い、本来の生き方、私たちが生き残るための智慧を伝承していきたいと思います。