長寿の生き方~天寿の本質~

天寿を全うする生き方というのは、自然に沿った生き方とも言えます。自然を敵にせず、自然が喜ぶように暮らしていく人は天寿の恩恵を多く受けるように思います。この天寿とは、天から授かった寿命、自然の寿命のことです。

そして天寿を全うするという言葉があります。これは、天から与えてもらったいのちを可能な限り大切に大事に使い切るまで生き続け、ある日、定められたその時にきちんとそのいのちを天にお返しするという意味だと私は思います。

まず、自分のいのちは自分のものではなく天から与えていただいたものということが前提になっている人が天寿の本質を生きるように思います。人間をはじめすべての生き物はどんなものでも死は訪れます。その死に向かって日々を歩んでいますから、その死の日が訪れるその時までは天からいのちを与えていただいているのです。

教育者の森信三さんは、「死は万人のいくつく終局的到達点であって、これを回避しうる如何なる人間もいない。この絶対不可避の事実の認識こそ、最大にして最深の認識というべきである。」といいました。

そこから、「人生二度なし」という言葉も出てきます。そして「わが身にふりかかる一切は、すべてこれ「天意」とお受けできる人間になること」とも言います。

天寿や天意と思うことの背景には、この天から与えられた命としての生死を自覚するところからはじまるのです。そして、この天意の天寿を全うする一つに「長寿」があります。昨日書いた、貝原益軒の養生訓もまたこの天寿を全うするための仕組みであり法則です。

壱・『少肉多菜』(しょうにくたさい)
弐・『少糖多果』(しょうとうたか)
参・『少煩多眠』(しょうぼんたみん)
四・『少言多行』(しょうげんたこう)
五・『少衣多浴』(しょういたよく)
六・『少塩多酢』(しょえんたす)
七・『少食多噛』(しょうしょくたそ)
八・『少怒多笑』(しょうどたしょう)
九・『少欲多施』(しょうよくたせ)
十・『少車多歩』(しょうしゃたほ)

まさに、この状態が人間本来の自然の姿であり時代が変わっても人間の養生の本質を示しています。何が本来だったか、どういうものが人間のもっとも素直な姿であったか、この長寿の生き方を通して自然体が観えてくるのです。

そして現代の日本の長寿でギネスに登録されたことがる泉重千代さんも長寿十訓を書き記しています。

1 万事、くよくよしないがいい。
2 腹八分めか、七分がいい。
3 酒は適量、ゆっくりと。
4 目がさめたとき、深呼吸。
5 やること決めて、規則正しく。
6 自分の足で、散歩に出よう。
7 自然が一番、さからわない。
8 誰とでも話す、笑いあう。
9 歳は忘れて、考えない。
10 健康は、お天とう様のおかげ。(ご先祖さまに感謝)

これもまた、日本人としての自然体の姿の体現であるように思います。今の時代、生きづらい人が増えて心身を病み、いのちまで断つ人が増えてきています。もう一度、自分のいのちとは何か、何から与えられているのかを省みて、天寿を全うできるように、長寿の生き方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

腸活と発酵訓

貝原益軒が「養生」という言葉を遺しています。これは、今の時代とても重要な考え方でありその生き方から学び直すところが多いように思います。もともと身体が弱く病気がちであった人生を、健やかに逞しく生きていくなかで自分の実体験から生まれた智慧がこの養生訓です。

この養生訓は正徳2年(1712年)に養生(健康、健康法)についての指南書として益軒83歳の著作です長壽を全うするためには身体の養生だけでなく、精神の養生も同時に必要といいます。

この貝原益軒は、健康的で無病息災の元気な人ではありませんでした。小さい頃から重病を抱え、誰よりも用心深く体に注意をして人生を送ってきた方だといいます。この時代、平均寿命50年未満だったのに80歳を超えても歯は一本も落ちず、暗い夜でも小さい文字の読み書きができたと自ら書き残したといわれます。まさに養生訓そのものの人生を送ってこられた方です。

現在、コロナウイルスのこともあり如何に免疫を高めるかということが大切であることを再認識しています。いくら病院を増やしても、薬を増やしても、病気になってしまったら大変な目に遭います。そうならないようにするためには、未病といって病気にならないように養生していくしかありません。

この養生のポイントについて貝原益軒は「治療は下策」であるといいます。その一つに、「腹の中を戦場にするな」といいます。目の欲、口の欲で食べるのではなく、胃腸そのものの状態にあわせて身体が必要なものを優先することだといいます。

これを現代では、腸活と呼んでいるのかもしれません。

そして具体的な実践は、まず心の整えることからと説きます。

「養生の術は先ず心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさへ、うれひ、思ひ、を少なくし、心をくるしめず、気をそこなはず。これ心気を養ふ要道なり。」

そしてこうも言います。

「養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふこと、愚なる至り也。身命と私慾との軽重をよくおもんぱかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危(あやうき)をおそるること、深き淵にのぞむが如く、薄き氷をふむが如くならば、命ながくして、ついに殃(わざわい)なかるべし。豈(あに)、楽まざるべけんや。」

つまり、心を養い身を慎む、そして天寿を全うする。シンプルですが、これができないから養生して仕合せに生きられないというのです。そして自分の身体は自分のものではないということを説きます。

「人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。」

天寿ということの本質です。またこれは暮らしフルネスで私が取り組んでいる生き方に酷似しています。

「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人もこの楽つねに得やすし。もしよくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。」

別に私は霞を食べていきているのではなく、真の豊かさや仕合せを味わい子どもたちにその生き様を伝承していきたいと思っているのです。

養生は今の時代は、発酵訓とも言い換えれるでしょう。養生する生き方は、発酵する生き方と同義なのです。そして発酵する生き方とは、心身が喜び、自然も喜び、全体も喜ぶ大調和の生き方のことをいいます。

暮らしフルネスの中の腸活の定義を明確にし、暮らしの実践を楽しみ味わい真の豊かさを導いていきたいと思います。

 

感覚の甦生

自然界でそのものの本体を感知する方法の一つに「音」があり、そして「香り」があります。現代は、目ばかり使うので「見る」ことだけで理解しようとしますが本来は五感を通して全身全霊でそのものの本体や本質は理解したように思います。

例えば「音」でいうと、音には美しい音というものがあります。とても澄んだ音、そして心に響いてくる音です。それは濁音や高音ということではなく、そのものが発する「素直な音」です。

この素直な音というのは、無の音でもあり、いのちの音でもあります。その音は、鳥や虫だけではなくあらゆる音があります。暮らしの中で聴こえてくる音であったり、話し声であったり、何かを食べる音であったり、みんな音を発します。

その音の中に、そのものが素直に生きている音があり、私たちはその音によってそのものの心を聴き取っていくのです。音楽というものは、その素直な音に触れることのように私は思います。

そして「香り」というものもあります。香りもまた、そのものから自然に発する香りです。和室の中であれば、畳のイ草の香りであったり、風に流れてくる季節の香り、田んぼにも、火を熾してもみんな香りが出てきます。

この香りを嗅ぐことで、私たちはそのものがどのようなことをやってきたかという経過を嗅ぎ取ります。もちろん、それだけではありませんがこのように五感を上手く使って私たちはいのちの情報ともいうべき本質や本物を直観していくのです。

直観するチカラは、「場」によって磨かれます。場を磨き、場を整え、場に佇むことで場はより透徹され洗練されシンプルになり空間が研ぎ澄まされます。

研ぎ澄まされた場に何度も触れれば、自然に感覚が鋭敏になってくるのです。

この時代、感覚が狂ってしまって心身が病む人がとても増えてきているように思います。私が取り組む、祐徳大湯殿サウナもまたその感覚を甦生するために発心したものです。

子どもたちがこの世の本体や素晴らしいものに触れられるように、デジタルとアナログを調和させた新しいサ道場をひらいていきたいと思います。

三種の神器の本質

日本には「三種の神器」というものがあります。これは日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝器 であるところの鏡と剣と玉(璽)のことです。詳しい名前は八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種類を言います。

その一つ一つに物語がありますが、この3つには共通するものがあることに気づきます。それはどれも「磨いてひかるもの」ということです。

古来より、神器は至宝とされてきました。この至宝である理由は、それがいのちの根源であることを知っていたからです。いのちの根源は、魂であり、その魂に対して何をして生きることが宝であるか。

それを子孫たちに伝承するための道具がこの神器の存在であると私は思うのです。

先祖たちは、みんなその神話や物語を通して何をもっとも大切に生きていくべきか。その理念や初心をこの神器の存在によて奥義を伝承していきました。今の日本人たちが徳が磨かれているのは、この先祖の真心、勇気、慈愛をカタチどったものを心にもっていたからです。

そしてこれを「常若」といって永遠に甦生し続けるためには、先祖と同じように徳を磨くしかありません。原石を至宝に仕上げていく責任は、自分にあります。自分の一度きりの人生をこの真心、勇気、慈愛をもって切り拓いていく。その中に、和の心が醸成されていくのです。

徳は、とてもシンプルなものですが現代では徳の意味がわからなくなってきています。以前は当たり前であったことを忘れてしまって、当たり前がわからなくなっていますから徳もまた同様にその時代の人たちが磨き伝承しなければ現代人のようにわからなくなってしまうのは自明の理です。

だからこそこの時代でも、先人たちと同様に先人たちが磨いてきたように徳を積むことで子孫たちはその日本の和の心や生き様や生き方を理解し、この日本人の根底にある養分を吸い上げて本物の日本人になっていきます。

私のやっていることは、とても小さなことですが同時に命を懸ける価値のあるものだと信じています。子どもたちが懐かしい未来を生き、これからも永遠に日本人の徳を持ち続けられるように真心と勇気と慈愛で甦生に取り組んでいきたいと思います。

いのちは囲炉裏に宿る

本日は、宗像環境会議の「徳が循環される共生圏へ ポストコロナの真の豊かさへの日本からの提言」ということで聴福庵で座談会が事前収録されることになりその座長をつとめることになりました。

実はとてもシンプルなことで私たちは自然に素直に耳を傾け、感覚を研ぎ澄ませば徳の偉大な共生圏に存在していることに気づきます。何もしなくても空気があり水があり、太陽があり、いきているいのちがある。

もうそれだけで私たちは真の豊かさの中にあります。こういう当たり前のことをわかることは足るを知る人であり、あるものをちゃんと観て生きる人たちは真の豊かさをもち仕合せを歩んでいます。

人生の喜びや味わいは、私たち人間だけが求めているのではなくこの世のすべてのいのちが平等に与えられているものです。人間はなんでも思い通りになっている気がしていますが、山川草木、そして動物や昆虫までみんないのちの仕合せを謳歌しています。

徳とは何か、きっとお気づきになると思います。

本日は、囲炉裏を囲んでみんなで聴き合います。この囲炉裏というのは、炉を囲んでと書きますがなぜ「裏」と書くのか。内裏などという言葉もあるようにこれは奥深さ、奥ゆかしさに通じているように私は思います。民俗学者の柳田国男は「いろり」は「座る」を意味する「いる(居る)」と、「座る場所」を意味する「い(居)」が合わさった「いるい」といいます。そこに裏が入るのは、その奥に神様が座しているという意味であろうと私は思います。

囲炉裏を囲んで座り、みんなで語り合えばその中に神が宿るということです。

日本人は古来から、大切なことを語り合う時、火(ヒ)に尋ねました。そうやっていのちの仕組みに則り原点回帰したから大切なことを忘れなかったのでしょう。

自然環境は終わりなく変わり続けます、人間はもっと謙虚になって自然から学び直す必要があるように思います。自分を活かしてくださっている存在を忘れずに、子どもたちの懐かしい未来に徳を譲り渡していきたいと思います。

初心の伝承

人は頭で考えてばかりでは正しいか正しくないかという正解ばかりを探していくものです。最初から頭で考えてしまっていたら、頭で考えないことがわからなくなるものです。

例えば、ある人を理解するのに立場や肩書で入ってしまうとその人の初心や目的を理解するよりも手段や方法ばかりに囚われてしまいます。

人は本来、目的があるからそれをやるのであり、その初心が何かがわからなければ本当の意味で頭で考えずに深く味わい理解することができません。何のためにやるのかということを確認せずにいくら頭で考えて予測推察しても本当の理由はわからないことが多いのです。

私は目的を確認するタイプですから、なぜそれを聞くのかと驚かれることがあります。しかし本質を知らなければ、話が進まず、目的や方向性を確かめなければその人が本心から思っていることがわかりません。

常にその人の本質や本心を確認しておけば、相手がもしもブレていても私が話をする中で原点回帰することもできます。お互いにそうやって自分たちがなぜご縁があったのか、ここで一緒にいるのかを確認することは仕合せなことであり、共に助け合い仲間として協力し合う喜びもまた感じ合えるように思います。

現代はスピード社會で、いちいちそんなことを確認する暇などもないのかもしれません。しかし、それは敢えて時間をとってでも確認しないとその目的のずれが時に大きな勘違いをつくり周囲に迷惑をかけてしまうこともあります。まず自分自身が何のために何を信じて取り組んでいるのか、それをブレないこと、そしてともに出会った人とその目的を分かち合うこと、ここからはじめて人と人の深い絆がはじまります。

私はモノに接するときもまた、そのものの徳というか目的に触れて敢えて手間暇をかけて取り組むようにしています。それがその人の初心を思い出し、いつまでもその人のままで本音本心を呼び覚ます切っ掛けにもなるからです。

目指している世の中や、それぞれのご縁の仕合せのために、初心を伝承していきたいと思います。

二つで一つ

この世のあらゆるものは二つが一つになって存在しています。これは対立という意味ではなく、そもそも二つで一つの存在だということです。例えば、「ひかり」であれば光と影によってひかりが出ます。一般的に太陽から放たれている光ではなく、それを透かしてみたり反射したりすれば「ひかり」の存在がわかります。月のひかりは、光ではなく「ひかり」です。

まさにあの二つが一つになっているとき私たちは「ひかり」の方を観ているのです。

これは「いのち」も同じです。

よく顕在意識とか潜在意識とかいいますが、あれも本当は二つが一つになって顕れる「自己意識」というものがあります。半分寝ていて半分起きているような、二人が同時に存在していてそれが一体になって今に生きているという感覚。つまり中今ともいいますが、あるがままの自然体になっているとき無我のときに自己意識となります。

これもまた二つが一つになっているのです。

このようにすべてのものは二つが一つです。火も同様に、燃えている火と、消えていく火があり遠赤外線が放たれ続けるとき「ヒ」が出ます。私たちはその「ヒ」にぬくもりを感じて、「自己意識」や先ほどの「ひかり」を感じます。

むかしの道具を私はよく使いますが、それはみんな同様に二つのものが一つになっているものばかりを使います。つまり、かつての先人たちは常にその本質や本物を観て暮らしを営んでいたのであり、現代のように分析してバラバラにして、知識として分けられたものを本質や本物とは思っていなかったのです。

真実というものは、これも二つが一つになったものです。それを対立構造で分けたことにより、私たちは本質や本当のことがわからなくなりました。発展というのも多様性というのもまた、本来の真実とはかけ離れてきています。

洗練されていくいのちや、シンプルに甦るいのちは、どこか過去の産物や遺跡のようになっています。

子どもたちに、教え込む偏った知識ではなくあるがままの本物や自然の姿、つまりは二つが一つになって存在しているいのちの正体を身近に感じられるような環境を用意して、自然回帰する行く末を見守っていきたいと思います。

徳積茶堂の場

現在、徳積茶堂を建築していますが場と間の調和を念頭において居心地の善い配置を組み立てています。私は設計士でも建築士でもなく、専門家でもありませんからそのまま物や人、あらゆる自然と対話しながら初心に照らし目的に向かって純粋に取り組んでいくだけです。

その中で、あらゆるものが集まっていき一つの思想が練り上げられそぎ落とされ最終的な姿が現れます。家が喜ぶか、場が喜ぶか、みんなが喜ぶか、徳が喜ぶかと一つひとつ丁寧に対話しながら進めていきます。

今回は、古来からの茶堂や御堂を温故知新していきますからそのむかしのイメージに照らしながら現代では何がその役割を果たすのかと変換し翻訳していきます。私はそれを甦生と呼びますが、神道では常若ともいい、儒教では温故知新ともいいます。

結局、何のためにその「場」にその建物を建てるのかというのが原点でありそれはその場と共に暮らしを営む人の生き方や暮らし方までが混然一体と一如になるのです。私は炭を愛し、炭によって茶を点てます。私は茶の方法などはあまり詳しくありませんが、自然のままの火や水や風、光や木や鉄などのいのちそのものを味わい楽しむタイプなので炭は最高のパートナーです。

そのパートナーと一体になって茶を入れる仕合せは格別です。それを共に味わい、共に感じるなかでお互いのいのちを喜ばせるようにしています。そこに上下関係もなく、裏表もなく、ただお互いにいのちを尊重し合う関係であり続けるのです。

茶室研究の第一人者中村昌生氏が「茶の湯の機能を持ちあわせていればそれだけで茶室であるとはいえない。茶の湯に使えるという機能を充たしていることに加え、茶の湯の雰囲気を感じさせる空間でなければならない」(『図説 茶室の歴史』淡交社、1998年)と書かれます。

機能や手段ばかりが先行してしまっている現在の建物に対して、私はまさに目的や場を優先して空間を配置していくタイプです。「徳積」がテーマですから、それに相応しいものに近づいている実感があります。

みんながこの場で、古き新しいものに出会い、伝統や文化の持つ徳に目覚め共に懐かしい未来を一緒に創造していければと祈ります。いのちの存在がいつも徳を助けてくれます。ありがとうございます。

鶴と亀

「鶴は千年、亀は万年」という言葉がります。鶴は千年亀は万年とは、長寿や縁起を祝うときの言葉です。この鶴と亀は、日本の古道具や着物、風呂敷などの染め物によく見かけます。むかしから縁起のよいものとして重宝されてきました。最近は、あまりこの鶴と亀を見かけることは減ってきました。改めてこの鶴と亀の由来などを深めてみようと思います。

この鶴は千年、亀は万年の由来は、古代中国の百科事典「説林訓」において「鶴歳千歳、亀歳三千歳」といわれています。

まず鶴は、死別しない限り相手と一生を添い遂げる鳥だといわれ夫婦鶴とも言われます。子育も一生涯、協力し合い一つひとつ子どもたちが生きていく力を丁寧に教えることでよく知られています。その姿は理想の夫婦像のモデルとされているともいいます。

実際に生きている期間は、20年から30年、動物園では50年ほど生きたとも言われています。その言葉が日本に伝来したころの当時の人たちの平均寿命は33歳くらいでしたから人間よりも長生きする鶴に長寿を肖ったのかもしれません。鶴のように夫婦で添い遂げて子どもをしっかり撫育して天寿を全うしたいと願った人たちの祈りや想いを鶴に見立てていたのかもしれません。

鶴という生きものの生き方に憧れた人たちの美しい心も感じます。

また亀の方は、古代の中国より蓬莱山に住む仙人の使いであると信じられてきました。亀は本当に長生きで、100年くらいは生きて250年を超えるものもあるそうです。実際に、ずっと前の先祖が観たときからずっと生きている亀をみたら如何にそれが神がかっているのかを感じたはずです。長寿の象徴、長生きの神様として崇めてその力に肖ろうとしたように思います。

現代は、平均寿命も80歳を超え、鶴が長生きとは思わなくなったものです。それに鶴もほぼ絶滅してしまい、身近に見かけることもありません。亀も田んぼにいなくなってきていますから身近な存在でもなくなってきています。

人間だけが何よりも長寿になった現代、いのちを持続し続けることができなくなって果たして本当にめでたいと言えるのでしょうか。みんなが長寿を祝うというように、それぞれが持続可能な世の中にしていくことで私たちは本来の長寿の仕合せを感じられるように私は思います。

「鶴は千年亀は万年、我は天年」とは、仙厓義梵(せんがいぎぼん)の言葉があります。千年、あるいは万年生きられるかわからないが、天から授かった寿命を全うしようという意味ですが長寿の本質はここにあるように私は思います。

天寿を全うするために長壽を祈る。

子どもたちが安心して健やかに暮らしていける懐かしい未来のために、鶴と亀に祈りつつかんながらの道を進んでいきたいと思います。

プログラミングのはじまり

プログラミングやモノづくりで自動化のことを思い返していると、日本にも古来から自動化されてきた道具や仕組みがたくさんあったことに気づきます。例えば、少し前に見たものでは水車を改造し脱穀・精米・籾摺(もみすり)農作業の動力源がセットになったものがありました。

水のチカラを借りて自動化するシステムです。他にも風力や火力など、あらゆるものを用いて自動化する仕組みをエンジニアたちは考案していきます。コンピューターは電力で自動化できるものです。

人間が人間以外のチカラを上手く活用して、人間の代わりに働くように活用していくという概念。歴史を省みれば、それを発展させていくことで便利な世の中にしていったように思うのです。

私は分散型のブロックチェーンに関わる人間ですから、エネルギーを分散することも工夫しています。一つだけのエネルギーの活用だけでスマートだとはまったく思ってはおらず、ここでは水、ここでは火、ここでは風、ここでは土、ここでは木、ここでは菌、ここでは光など、ありとあらゆるものを効果的に活用しています。

まさにモノづくりの原点や根源のような暮らしを営んでいて、その中で電気はどう活かすのかということを考え続けています。

本来、私たちは便利さということにおいて自動化をしてきましたがそもそもこの地球のエコシステムほど自動化されたものはありません。みんなで共存共栄しながら発展し続けて調和する仕組みの中で働いているのです。

ここには一切の無駄もなく、最高の便利と共生しています。

便利の定義が、人間の狭い個人の世界だけで語られればその便利は地球や全体にとっての不便です。そして個人的な不便さは、実は全体に対しての最大の便利になることもあります。

私たちは何を中心に自動化するか、それをまずよく思案し思想を持ち、そういう人物が本物というモノづくりをするのだと私は信じています。

この「場」の学校において、和と場をつかったモノづくりの粋を楽しみ味わっていきたいと思います。