月の導き

今年の十五夜の月の光は今までになくとてもうっとりします。黎明の頃の清々しい空気と八龍権現池の水面にゆらゆらと映りこむ月光は透き通り冴えわたる静けさを呑み込んでいるようです。

もともと私たちは月を眺め、月を信仰してきた民族です。月には美しい日本語が多く、月の名称を一つずつみても心にその情景が月光のように映りこんでいきます。

例えば、和風月名にあるような睦月、如月などの読み方。もう一つは、四季の呼び名で秋月や朧月、寒月など、そして気象を現わす雨月、無月、薄月、さらには月の見え方でも呼び名が変わり孤月、淡月、青月、明月、朗月m皓月、素月などもあります。

時間帯でも呼び名があり夕月、黄昏月、残月、有明の月などもあります。他にも十六夜(いざよい)をはじめ、立待月、居待月、有明月など、月を眺めながらその情景を名前にして読んでいる呼び名もあります。

まさに風流や風情の最たるものがこの「月」であることは間違いありません。

月が入った美しい言葉では「鏡花水月 雪月花 花鳥風月」などがあります。どれも月の美しさ、清廉さ、透明感、陰徳を示す言葉です。風雅の道に入る人は、月を眺めて月を愛でたのでしょう。どうしても月夜を見ていたら、太陽と対になっている月の深い真心を感じます。

そして月を使った諺、「水清ければ月宿る」(みずきよければつきやどる)などもあります。禅語には「掬水月在手」(水掬すれば手に月あり)というものもあります。

真理を悟るために月の存在からその深淵に近づいていく、まさに月夜が照らしているものが何かということをむかしの人たちは体験を通して学んでいたのでしょう。

現在では、太陽の眩い光に目が眩み、夜も電気を明々を照らしては一日中太陽の光中にいるかのようです。その疲れが、心も蝕んでいき静けさや安らぎが遠ざかっているようにも思います。

私たちはもう一度、月を眺める必要を私は感じます。

月を眺め、日々の暮らしを豊かにしていく。

子どもたちに遺して譲りたい未来のためにも、自然も月も味方にして暮らしフルネスで人類を導いていきたいと思います。