日本人には長い年月で醸成されてきた美意識というものがあります。これはその国々の風土と歴史によって美醜の別が顕現してくるものです。それを別の言い方では美学とも言います。
私は古い懐かしいものに触れる機会が多くあるからか、侘びや寂びのようなものに触れるご縁も多くあります。これは一つの日本の美意識ですが、それが何かというものを一言で言うことはできません。
美意識に触れることで自分の中にあるものと触れ合っていく、まさに記憶との連結であり、懐かしい何かがそれを美しいと感じさせるのです。それは例えば、ものの形状や書、詩や風景、音律、もしくは生き方にまで至ります。
どの切り口からも侘びや寂びを語ることができ、その時、私たちは自分の深淵にある民族の感性や感覚、魂がその美意識と語り合っているということです。
鈴木大拙氏がこのように侘び寂びを表現しています。
「わびの真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物(冨・力・名)に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、これがわびを本質的に組成するものである。」
「美とはかならずしも形の完全を指していうのではない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技の一つである。この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところのさびがあらわれる。古色と原始性とは現実味ではないかも知れぬ。美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこにさびが存する。さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、豊富な歴史的な連想(かならずしも現存しなくてもよい)に存する、そして最後にそれはくだんの事物を芸術的作品の程度に引き上げるところの説明しがたき要素を含んでいる。」
侘びや寂びとは、本来の洗練された価値のままであることだと私は思います。自然のもつ素朴さの中にこそ真実の美がある。つまり自然の美こそが美の至宝であると実感していると思うのです。
自然は葉っぱ一枚、生物の姿かたち一つがまさに芸術そのものです。複雑にみえてその実は大変に洗練されたシンプルさがあります。素朴にシンプルが観えるということは、この侘びや寂びもまた観えているということだと私は思います。
私のブログの文章は思いつきで書いていますから長いしシンプルではありません。しかし何度も何度も真理を見つめ心と対話し磨き続けていけばいつの日か大変シンプルなものになる日も来るかもしれません。そんな侘美や寂美を楽しみ味わいながら歩む人生もまた美意識の一つかもしれません。
子どもたちに譲り遺していきたい生き方を実践していきたいと思います。