来年の歳神様をお待ちする室礼も無事に終え、聴福庵も場もすべて整って鎮まっています。あとは、後回しになっていた自分の書斎だけですがこの場もここ数日で清浄にしていくのがとても楽しみです。
今年は、場づくりに真摯に取り組んだ一年になりました。場づくりは土づくりと同じで、作物があろうがなかろうが、収穫があろうがなかろうが、丁寧に丹誠を籠めて整え続けていかなければなりません。
庭の草取りや、古い物の手入れのように、すぐに効果が出ないようなことであっても根気強く真心で取り組んでいく必要があります。それは心や気持ちの整理でもあり、そういう暮らしを通して人ははじめて人として落ち着いてくるものです。
この落ち着いた暮らしというものは、心の静寂と共にあります。聴福庵は私の人生の実践道場ですから特に凛とした空気がいつも流れていてそこには永遠の時が沈んでいます。この時の沈みとは、常に静寂を保っている時が場に深く鎮まっているということです。イメージでわかりやすくいえば、海の深いところに沈殿している動かない闇のようなものです。
先日、先祖が代々霊感の強い家系に生まれて貢献されてこられた方が來庵され「ここはまるで神社そのものであり神々が鎮座している場所でずっと鳥肌がおさまらない」と仰っておられました。そう考えてみると、今年は霊感の強い方がたくさん來庵され皆さんが一様に神々が鎮座されていると仰っていただいた一年でした。
私は特別何かのスピリチュアル的な活動をしているだけではなく、新興宗教をしているわけではありません。会社に神家総本家と和名をつけていることと、私に固定概念が少ないことから一部の人たちからは変人や狂人、怪しい教祖ではないかと言われたこともあります。
しかし、この神々の鎮座においては私が言っているわけではなく周囲が言っているだけで私本人は暮らしフルネスの実践を淡滔滔と続けているだけです。それが結果として心の静寂を場に投影させ、それが何かしらの存在や気配を感じさせその鎮まった場所で心が落ち着いて何かを感じられているように思います。
この「心の鎮座」というのは、本来は日々の暮らしの中でととのえていくものです。
心が荒廃し、乱雑になっていけば静寂はありません。静寂は、清浄と共にあり、場を清め続けることで鎮座します。人間は精神性を研ぎ澄ませていけば自ずからその真っ白で純粋な境地、また透明なセンスを身に着けることができるように思います。
冬の澄み切った夜空の月の光のように、私たちはその心を内面に持っています。その月を曇らせているものを取り払うことが私たちの暮らしの原点であり、暮らしを充実させていく原理原則なのです。
来年は、暮らしフルネスを知ってくださる方が増えていくように思います。どのように伝わり弘がっていくのか、日々に法螺貝を立てながらじっくりと静かに出る月を待ってみたいと思います。