歴史を創る

この世の中には、ずっと残るものと残らないものがあります。それは歴史を学べば気づけるものです。例えば、建築物であれば長いものでは1000年以上もありますがほとんどのものは100年持つことは現代ではあまりありません。記憶も同様に3代くらいは口伝などで引き継いでもその前の代のことを覚えている人はほとんどありません。こうやって時代には、残るものと残らないものが篩にかけられて選別されていきます。

私たちは今を生きていますが、前のことでは生きてはいけません。過去の栄耀栄華がしがみついて生きていくことはできず、常に今を刷新して前進し続けることでこの世に存続することができています。

一見、時代的に長いものを観たとしてもそれはずっと同じままでいたことはありません。つまり、その時代時代に変化し続けて手入れをしているから今も持つのです。

あの法隆寺は1300年建っていますが、これも何もしていないのではありません。それをずっと守るために信仰を絶やさずに手入れを怠らないから今でも建っています。つまりは、その時代時代にそれを守る人が出たからといことです。そして守るためには、単に維持していけばいいのではありません。

時としては攻めて変革をしたり、またある時は守りに徹して粛々と大勢の批判に耐えながらも本質を貫いたりと、真摯に手入れをし続けてきたのです。

この手入れが悪いと、そこまでで途絶えてしまいます。今でも甦生し続けているものの手入れはなんでもいいわけではなく、常に本質を守りながらその時代の価値観に対応し続けるという初心を忘れない温故知新の知恵を持つ人たちが挑戦が必要なのです。

それが歴史を創るということなのです。

歴史は残すだけのものではなく、創り続けるものなのです。だからこそ新しく創めることに挑戦していく必要があります。今までのものを創新するのです。

私が取り組んでいることは、なかなか理解されないことですがそのうち時代が変われば理解されると思います。それまでは挑戦を楽しみ味わい、新たな未来のために歴史を掘り起こし、甦生し、磨いて創り続けたいと思います。

徳循環の社会実験

今週末はいよいよ徳積堂のオープンです。徳循環の社会を創造すべく、念願が叶いいよいよ「徳」を甦生させる活動を本格化していきます。今の時代の徳とはどういうものか、それぞれの時代で徳の大切さは語られてきましたがこれから新しい時代の幕開けに際しここから新たな徳の真価を発信していきたいと思います。

「徳」においての私の先生といえば、二宮尊徳です。私は二宮尊徳を非常に尊敬していて、30代の10年間はずっと二宮尊徳の遺した言葉や遺跡を歩き、またその言葉の意味をなぞるように学んできました。どの遺した言葉も私の魂に深く響き、それを社業にも反映させていきました。

例えば、「一円対話」というのは二宮尊徳の一円観を参考にしたものです。聴福人は、桜町陣屋の近くの親鸞上人の高田山でのメモ帳にあった言葉で閃いたものです。また今の時代の人たちが捨てるものを拾い集めて甦生するようになったのも二宮尊徳の生きざまから学んだものです。実は他にもこれから私が取り組むもののほとんどは、似たようなことを実行していくかもしれません。

金融に取り組むのも、積小為大からでもあり、至誠、分度なども今の会社経営だけではなく、あらゆる私の取り組みの根底を支えています。それはこの世の自然の真理を活かしたというところに深い信頼があるからだろうと思います。

いよいよ徳積堂を始動するにあたり、既存の価値観との融和するためにその土を醸成していきます。そのためにまず取り組むのは、「推譲」の真価です。

二宮尊徳に「譲って損なく、奪って益なし」があります。

言い換えるのならこれは、みんなで譲っていくことは徳になり、奪うのをやめば徳になる。徳の循環を実現するために、ここから温故知新した社会実験をスタートさせていきたいと思います。

塞翁が馬の会

故郷の旧庄内町(飯塚市)に「塞翁が馬の会」というものを新たに立ち上げました。これは、「結」といった日本の伝統的な互助の知恵を現代に温故知新して甦生させるためにはじめたものです。

この「塞翁が馬」という言葉は中国の有名な故事の言葉で正確には「人間、万事塞翁が馬」といいます。この塞翁は、人の名前ではなく国境の塞(とりで)付近に住む老父という意味でその馬のことを指します。

この故事の内容を日本語に現代語訳すると、「辺境の砦の近くに、占いの術に長けた老父がいた。ある時その人の飼っていた馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子どもが乗馬を好むようになったが、馬から落ちて大腿骨の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。」とあります。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。つまり禍福の本体とは一つであり、自分のものの見方と心の持ち方でどうにでも観えているだけということです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきた半生でした。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。かつて二宮尊徳は、余話の中で「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」といいました。それをこういう話で例えます。

「包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるのだ」と。

結局は、ここでも禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第であるといいます。つまり禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているということです。

私は「活かす」というのは「禍いを転じて福にする」ことだと定義しています。そして禍福を一円のように丸く融合させるとき真の平和が人々に訪れます。

「塞翁が馬の会」と名付けたのは、物事に対してそういう初心を忘れないで取り組んでいこうという気持ちからです。偶然に発足した会ではありますが、この会の生き方や心の持ち方が故郷の人々、そして風土、暮らしを甦生して日本、世界を平和に導いていけるように禍福を豊かに味わっていきたいと思います。

甦生の目的

藁ぶきの古民家の甦生が中盤に入ってきました。傾きを直してからは床板から天井板の設置をはじめ梁の修復や柱の補強をしています。どれくらい前から傷んでいたのか、まさに満身創痍ですが一つ一つ丁寧に修繕されていくたびに家が喜び甦ってきているのを実感します。

一つの家を甦生するのには本当に多くの人たちの手が入ります。むかしは専門の業者さんたちだけが取り組むのではなく、近所の人たちや縁戚関係、他にも仕事仲間や地域の方々などが手伝ってくれて家が建っていたのだろうと推測できます。

棟上げの際の御餅まきも、直会も手伝ってくださる方が多かったから存在していた行事であったことがわかります。このプロセスそのものが家を建てる中に入っていたように思います。

一つの家を建てる、そして一つの家を直す。これは家を守ることを学ぶだけではなく、家族を守ること、地域やふるさとを守ること、そして国を守ることを学んでいた大切な教育と伝承だったのでしょう。

その教育や伝承の仕組みが失われれば、同時に守ることを学ぶ仕組みも消失したことになります。今の日本の問題はこの家をみんなで直すということがなくなったところから始まっているような気もしています。

これは単にリフォーム業者にリフォームを頼めばいいという話ではありません。それでは先ほどのお金で家を業者に建ててもらうだけの話と一緒になるからです。以前、ある古民家を甦生した際に、家主さんが近くに住んでいるのにほとんど一度も現場に見に来ることがないことがありました。

その際、日ごろあまりものを言わない大工棟梁が家主さんに自分の家に愛着がないのかとなぜ見に来ないのかと諭していたことがありました。家は単に物ではなく、深い愛情をかけてはじめて建つものです。愛情のないものを建てても、そんなものが大切な家族を守ってくれるはずはありません。

家は、大切なものを守ろうとします。その家を治すということは、その守りたいと強く願う家を守りたいというさらに強い思いによって甦生させていくのです。私の取り組む甦生は、単に家をリフォームするものではありません。

一体何を甦らせているのかということを感じてほしいのです。

今、私たち人類は大きな節目を迎えています。物に溢れて経済成長し続けて豊富な資源を使い切る寸前まで贅沢な生活をお金によって得ています。しかし自然界では、この人類のつくってきた幻想的な豊かさは本来の姿ではないものです。今は、まだギリギリでお金によって幻想を保つことができていますがそれもまもなく終焉を迎えるほどに資源が枯渇してきています。

私たちは何が本当の豊かさであるのか、そして何が仕合せであるのかを真に問われる時機に入っています。

私の甦生は、単に古民家再生して利活用するためにやっているのではないのはそもそもの初心や目的が異なっているからです。子どもたちのために、何を譲り遺してくのか。今の世代の責任をどう果たしていくのか、それをプロセスすべてて伝道し伝承していきたいと思っています。

新たな甦生が、世界を易えていけるように真心で取り組んでいきたいと思います。

仕事の本懐

グラハムベルという人物がいます。この方は、19世紀のイングランドの発明家で電話を発明し世の中に広めたことで有名です。同時にヘレンケラーの恩人でもあります。

「奇跡の人」と呼ばれることも多いヘレン・ケラーは1880年にアメリカ・アラバマ州で生まれたヘレンは1歳半のときに「しょう紅熱(子どもに多いとされる発疹性伝染病)」と考えられる病気で聴力と視覚を失いました。そのヘレンケラーの父親がグラハムベルに教育の相談をしこの時に紹介した人物が家庭教師のアニー・サリバン(サリバン先生)となります。

もともとグラハムベルは、母親が聴覚障碍者であり自身もその聴覚障碍の学校の先生を生涯務めながら数々の発明をしていきました。自分のやりたいことに実直で、一生をかけて自他を世界に貢献できるように福祉の本質を生きました。そもそもこの電話の発明も、聴覚障害の妻のために研究していた補聴器から発明されたものともいえます。

電話が遠隔地へのコミュニケーションをとるための道具ではなく、このころは耳の聴こえない人たちとのコミュニケーションをとり閉ざされた世界を広げるために開発されたと想像するととてもロマンがあります。

いくつかグラハムベルの言葉を紹介します。

「どんな仕事をやりたいか自分で見出して、ただ一心に打ち込むことだ。人より一歩先んじたければ、自分の将来の方針は自分で決めるべきだ」

「1つの目標達成は新たな目標の出発点だ」

「自分に本当に向いた、本当に心から打ち込める仕事から、働く意欲と励みを見出して、成功への道を踏み出すことだ」

「目の前の仕事に集中せよ。太陽光線も一点に集中しなければ、発火しないのだから」

「どんな仕事をやりたいか自分で見出して、ただ一心に打ち込むことだ。人より一歩先んじたければ、自分の将来の方針は自分で決めるべきだ」

ここから自分の役割を楽しみ取り組んだ人生の姿が見えてきます。特に仕事を通して、よりよい世の中を創ろうをした。その純粋な姿が見えてきます。本人は最期まで自分のことを、聾学校の先生ですと紹介していたそうです。

聞こえない世界を開き、聴こえるように導き、語ることがなくなった人たちに語ることの素晴らしさを教えた人物。まさに、発明は道具の方ではなくこの方の生き方だったように思います。

歴史の人物から学び直すのはその生き方です。今の時代にも変わらない大切なことを、時代を超えて吸収していきたいと思います。

 

やり遂げる力

運とは何かということを考えることがあります。幸運を持っている人と、不運を持っている人。どちらにしても運というものは誰にしろ存在するものです。ただし、その中に運を活かす人と活かさない人があるというのは現実としてあります。

この時の運とは何かを定義してみると、それは機会でありチャンスのことです。つまり運は別の言葉にすれば機会やチャンスのことでありそれを活かすか活かさないかというだけであることはわかります。ここからの文章は運をチャンスという言葉に置き換えて書いていきます。

チャンスというのは、そもそも挑戦する機会のことです。毎回、挑戦する機会がありますが今がその時かどうかをまずはよく観察して耐え忍ぶ必要があります。これは季節でいえば、今が蒔き時なのかもしくは収穫の時なのかを見極める目のことです。蒔き時に収穫しようとしてもその時は実がなく、収穫時に蒔いても実がなることはありません。

自然にリズムがあるように、私たちはその時を捉える力がなければチャンスを掴むことができません。これが一つの幸運というのは事実です。そしてもしも掴んだならば、それをやり遂げなければチャンスはものにすることはできません。掴んだら何が何でも話さずにやり遂げるといった強い思いが必要になってきます。簡単に手放してしまったら、チャンスは逃げていきます。

チャンスが逃げないようにするには、何が何でもやり遂げるといった強い思いと実現するための力が必要です。その力が発揮されてはじめて私たちは運を活かしたといえるのでしょう。

ゴッドファザーの映画で有名な小説家のマリオ・プーゾがこういう言葉を遺しています。

「運と力は、切っても切れない関係にある。運がめぐってきたら、やり遂げる力がいる。また、運がつくまで待つ力も必要だ。」

つまり運を掴んだなら、あとはやり遂げる力次第ということでしょう。

また熊沢蕃山の遺した歌にこうもあります。

「憂きことのなほこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」

今の私の心境は、これに近いように思います。チャンスはまるで絶望の中の希望のような明るさがあります。例えれば闇夜の中の星々のような存在です。その一つの星を掴み、それを光らせて輝かせるのが私たちの役割のようにも感じます。この存在が宇宙の大きな役割の一端を担います。

子どもたちのためにも運を活かしてやり遂げる力をつけていきたいと思います。

二つが一つ~聴福の境地~

聴福人というのは、造語ですが私たちが取り組んでいる一つの生き方のことです。これは文字の通り、聴くことが福であり、福こそが人の姿であるという言葉で成り立っています。人はもともと福が備わり、それは聴くことで実感できるというものです。

ここでの聴福というのは、ただ人の話だけを聴いて福にするのではありません。あらゆるご縁を聴くという意味でもあります。日々は小さな現象が集まっているものです、それは微細で気づかないような小さな変化から感情を揺さぶるような大きな変化まであります。

心を落ち着けて、そのものの現象の意味に耳を傾けていくことでこれは一体何が起きているのかということを直観するのです。その直観は、私心がないとき、我欲が洗い清められたときに全体が観えて現象の意味が顕現します。また素直になること、依り代や器になるときに現象そのものと一体になります。

自他一体の境地ともいうのかもしれませんが、あらゆるものと自分が今につながっていく感覚になるのです。これを瞑想で近づける人もいますが、一期一会の生き方をしている人は常に今にその感覚を持っているようにも思います。

しかしこれは持続するものではなく、常に自己対話を続けて私心を取り払い続ける必要があります。バランスを保つというのは、常に変化の中で中心を守り続けることに似ています。この中心とは「中の心」といいますが、心そのものの中心のことです。

外の現象と中の現象、世の中には二つの現象が同時発生していきますからその二つを一つにしていき続けてバランスを保つ必要があります。水も二つが一つ、火もまた二つが一つになって存在します。水を保つのもバランス、火を保つのもバランス、この世のすべは円環していて二つがご縁で結ばれて存在します。

聴福の真の境地は、この二つの声を聴き、二つのご縁を一円に結ぶということです。

自他の心を一つにすること、そのためには周知を集めて私心を取り続ける精進が必要です。日々の暮らしを整えていくことは、この二つを一円にすることです。

子どもたちの未来ために場を譲り遺していくためにも、心の修練を積んでいきたいと思います。

 

場を極める

先日から英彦山とのご縁があり宿坊のことを深めていると、かつての聖地ということの意味を再確認することがあります。

もともとこの宿坊とは、主に仏教寺院や神社などで僧侶や氏子、講、参拝者のために作られた宿泊施設のことです。この英彦山では盛時には僧坊3800余が建ち並んで門前の集落をつくっていたともいいます。山の中を歩いていると、宿坊跡だったような場所がなんとなく棚田のように残っています。

厳しい山間での暮らしが観えて、この神域でみんなで助け合い学び合い生きていたことを感じます。明治29年には126戸を記録した坊舎も、現在は顕揚坊、楞厳坊、増了坊など10数軒を残すだけになっています。かつての坊舎は、それぞれに工夫された庭園がついていたといいますがその形跡もあちこちに残っています。その跡地からは、その澄み切った精神性を感じることができます。

本来、聖域とは何かと定義するとそこには聖なる場があったということです。そして聖なる場があるということは、その場を整えていた人があったということです。人は自然の中である一定の精神性を磨き極め高めるとそこに場を創ります。その場に入ると、心の安堵や平安が訪れまるで仏教でいうところの極楽浄土が現れます。

その極楽浄土とは、心の澄み切ったところです。

かつての宿坊は、その心の澄み切った場所であったと私は思います。その場所を守り続けるというのは、その場を清め続けるということです。何が荒廃してなくなったのかといえば、そこに人物がいなくなったことです。

人物と書いて、人と物ですがそれが磨き清められた空間には場が誕生します。私が場道家を名乗るのは、その「場」を極めようとしているからです。場を極めるのは、聖地を甦生させることです。

子どもたちに心の楽土を感じてもらい、魂のふるさとに原点回帰して本来の自分を取り戻していけるように丁寧に甦生を続けていきたいと思います。

 

思考を止めない

久しぶりに東京入りして明治神宮をゆっくりと散策する機会がありました。コロナの緊急事態宣言が解除されてから街中は人があふれています。3密を避けてといっても、駅の周辺やデパートなどは行列ができています。変わったのは、すべての人がマスクをつけていることくらいな感じです。

人間は、他人の様子に合わせて多数派の意見や誰か専門家や権力者の発言に依存すると思考停止してしまうものです。簡単に言えば、自分で考えることを止めてしまうという具合です。

本来、現状はコロナの問題は何の解決もしたわけではなくワクチンも接種したわけでもなく、さらに状況は変異株や感染数は増えて悪くなる一方です。しかしみんなコロナ前の日常に戻ってきています。ひょっとしたら自粛して解除までは我慢したのだからとその反動が来ているのかもしれません。もしくは、マスコミの情報を頼りすぎて自分の感覚で判断するのをやめてしまったのかもしれません。

どちらにしても、思考停止してしまえば悪い方の状況がそのうち常識になってしまい何が最善で何が本質なのかもわからなくなってしまうようにも思います。

自分の感覚を信じるというのは、自分で考え続けるということとイコールです。誰かの意見は参考にしても、大切なのは自分の感覚を大切にするということです。

人間は一つの災害に対応するだけでも精いっぱいで、二つ以上の災害に対応するのはほぼ不可能です。感染症が流行しているときに、他の自然災害などが発生すれば悲惨な事態になります。これは歴史を観ればすぐに理解できますが、地震などのあとに死者が増えるのはそのあとに感染症や飢饉などが発生するからです。

連鎖的に何かが発生する前に、何かしらの対処を早急にして次の災害に備えるというのが大切なことだという教訓です。

リスク分散、これは危機回避をするためにみんなで力を合わせて支えあう仕組みでもあります。ブロックチェーンは、DAOといって自律分散の仕組みです。何かあった時のために、いかにそれぞれが自律して支えあうか。お互いの役割を信頼を築いて協力して助け合い生き残る智慧でもあります。

私はコロナだから今の判断をしたのではなく、自分の感覚を信じてずっと今までやってきました。自分の嗅覚、聴覚、触覚などの五感、そして手と足と運を信じて歩んできました。その中で、今はこうすると自分の信じる道を直観して決断をしてきました。それは思考を止めないための工夫だったように思います。

刷り込まれていく世の中で、刷り込まれないことこそが生きるための本当の知恵だと今、私は確信しています。子どもたちが、いつまでもこの地球で仕合せに暮らしていけるように刷り込みを少しでも取り払い、刷り込まれない環境を創るために思考停止する世の中に暮らしフルネスの楔を打ち込んでいきたいと思います。

歴史の教訓

何かのご縁から歴史の後を辿ってみると今まで知らなかったことがたくさん掘り起こされてきます。むかし何があったのか、そしてどうして今こうなったのか。そのプロセスを学ぶ中にこそ、今の世の中で何を大切に生きていけばいいかという教訓や智慧なども学び直すことができます。

先日、福岡県添田町の英彦山にある銅の鳥居にご縁がありその力強い文字に深く魅せられました。これを洪浩然(号は雲海)が書かれたものです。この人物は文禄の役の際の被虜朝鮮人として12才のとき、鍋島直茂により、慶尚道 晋州から佐賀まで連れてこられた方です。その後、京都五山で学問を修めたのち、初代佐賀藩主 鍋島勝茂に仕えました。

明暦3年(1657)3月24日、鍋島勝茂が江戸で没したその報を受けて4月8日、洪浩然は上今宿の自邸で「忍 忍則心之宝 不忍身之殃」と揮毫し、子孫への遺訓として子に与え、阿弥陀寺で追腹を切って亡くなったとあります。この追腹とは主君を追って切腹することです。今では考えられないことかもしれませんが、大義のために自分を盡し主従一体の忠を生きた時代の価値観がなしたことかもしれません。

この洪浩然は朝鮮から連れて来られはしたものの一生をかけて大変な人生を歩んでいくなかで、この不遇不運の人生の中でも何を大切に生きていけば仕合せであるかを子孫たちに生きていくための「書」として絶筆を遺します。力強い文字の中に、人生を翻弄されても大切なものは「忍ぶ心」によって活かされたというのです。思い通りにいかない人生の中で、最期までに忍耐を貫いた生き方が観えてきます。

もともとこういう生き方の方だからこそ、鳥居の境界の文に相応しいと感じます。もともと鳥居は、神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を顕すといいます。そして神域に不浄なものが入ることを防ぐ、結界としての役割もあるといわれます。

吉野山にも銅の鳥居がありそこの扁額には「発心門」と書かれ修験者は鳥居に手を触れ「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山するといいます。

きっと英彦山も銅の鳥居もまたここに手をかけて、弥陀の浄土に入るぞうれしきと唱えていたのでしょう。

歴史は、そのものが教訓であり智慧そのものです。子孫たちにどのような願いで文字を刻むのか、そして伝えていくのか、まだまだ学ぶことばかりです。