御伽噺の創造

人はわかりやすいもの、自分が理解できるものに共感するものです。特に見たことがあるもの、経験したものがあるものに対して考えるものです。しかしもしも見たことがないもの、体験したものがないものの場合は脳は処理することができません。するとわからないから混乱していくものです。

人は未知との遭遇をするときやっぱり混乱します。理解できないものに接するというはそれだけ不思議なことです。幼いころ、読んで聞かせてもらったり祖父母から聞いたお伽話なども今思えばワクワクしました。どれも伝説だったり、口伝で伝承されてきたものですがどれも未知との出会いでした。

私たちは大きく分類わけすると、知っていることと知らないことに分かれます。何か知らないことがあっても、知れば知らないことではなくなります。こうやって知識を得ては、知っていることを増やしている人生だともいえます。

知りたいという欲求は、人間の欲求の中でも特に大きなものです。情報を持つということで、危険を回避できたり自分にとって有益なものになり、また自分の領域や境界が広がっているのもあります。

しかし同時に、知っていることが増えたということはそれだけ知らないことを減らしたということであり、そのうち新しいことを知る機会が減っていくものです。人間はある程度の知っている中でとどまっていると、知っていることの中で生活ができるようになりますから新しいことを知らなくてもよくなるのです。そのうち未知であることがなくなってくるのです。

本当に知るということは、実はなくなることはありません。なぜなら自分が知っていることが増えたとき、その反対側に同時に知らないことの大きさに気づくからです。実は知るということは、一端を知っただけで知らなかったものの存在が出てきます。

1を知れば、無限を知るという具合で実は知らないことの中で私たちは生きていることを知るのです。まさに未知との遭遇とは、知らない世界の大きさに触れたということのようなものです。未知なるものとして謙虚に、知ろうとしていく姿勢は偉大な何かとつながるためには必要です。これをサムシンググレートと呼ぶこともあり、また奇跡や伝説とも呼びます。

未知を創造するというのは、それだけ知ることの意味に出会うことになります。

歴史を創る事業とはそういうものかもしれません。子どもたちのためにも、御伽噺をつくるような未知なる世界を広げていきたいと思います。