徳積堂カフェの理念

人道という言葉があります。今はあまり何が人道なのかということを今は議論されることがなくなっています。なので人道の定義も人それぞれで曖昧です。逆に、外道という言葉もあります。人として道を外れることをいいますが、一般的に法律に逆らうことや罪を犯したときに使われます。

しかし人間が法律をつくっている場合、それを破るから人道に反したとは言えないこともあるように思います。歴史を省みればすぐに自明しますが人間は多数派や権力者によって法を操作することができるからです。人間の都合で法と言ってしまっても、それは自然界では通用しないものがほとんどです。

ここで「自然」という一つの真理と基準を設けてみて考えてみるとどうでしょうか。すると一つの境地が観えてみます。その境地を会得し自然に精通しながら人の道を説いた日本の偉人に二宮尊徳がいます。

二宮尊徳は、天道と人道はここで別ものであるとはっきりとこう説きました。

「天の理とは、たとえば春は生じ、秋は枯れ、火は乾いたところにつき、水は低いところに流れる、というように毎日常に変わらないことだが、それに対して、人の道とは、毎日人の力を尽し、保護して出来上がる。従って、人の道は、天道の自然に任せておけば、たちまち廃れてしまって行われなくなってしまう。だから人道というのは、情欲に心が支配されるときは成り立たないものである。」

自然は自然で道理があり、道理そのもので道理に反することがない。しかし人はそこに逆らっているのだから自然に従ってしまえばたちまち人道はなくなってしまうのだと。

つまり人の道とは、この天道といわれる自然の中でいかに人間の世界が安心して暮らしていけるように日々「修繕」(手入れ)を続けるかだということを言うのです。例えば、そのまま何もせずに自然にしていたら天の道によって建物も作物もみんな自然淘汰されてそのうちもとの土に還っていくのでしょう。そうならないのは、人間がそこに修繕や手入れをしていくからいつまでもその建物も作物もなくならずに徳が循環されその恩恵享受され維持されるというのです。

さらにこうも言います。

「人道は物を修繕するの途(みち)なり。之を怠れば法の無き昔に帰る。是即ち禽獣なり。」

つまり真の法とは人間が自然の中で生きていくための人道であるのです。そしてその方法は「修繕」にこそあると何度もいいます。確かに人間が何の修繕もしなくなり人間が好き勝手に情欲にまかせてやりたい放題に生きていたらそのうちすべては土に還っていき人間もまたそのうちいなくなっていきます。

人類は「人としてのお手入れ」をし続けることで、この世をいつまでも美しく平和に保ちこの世で自由な存在として許されていきます。利他であることも、幸福であることも原点はすべてこの「修繕」からはじまります。修繕はまさに徳の循環そのものになるのです。

徳積堂カフェがまもなくオープンしますが、この場は人道を尊び、徳循環をするための社会実験場として挑戦をはじめます。その理念のシンボルとして、手入れ修繕したものに囲まれ、徳を実感できる仕組みが体験できるようになっています。

子どもたちのためにも、徳を循環させ人がいつまでもこの世で平和に仕合せに生き続けることができるようにこの場所から世界を易えていきたいと思います。