子どもが憧れる社会

人は信頼する仲間がいることで強くなれるものです。一昔前の教育では、強くなることは誰にも頼らずに自分で全部できる人になることでした。一人でなんでもできるようにならないといけないと、学校では指導されたものです。

実際には、今でも宿題は自分一人、学校でも教え合わないでと指導している教育をしているところばかりです。先生が一方的に一人で教壇にたって生徒に指導する。生徒は自分で正解を探して答えを出す。この正解があるところでの勉強というものは、一人で全部できないといけないのでしょう。

しかし世の中に出てみたら、ほとんどのすべてが正解などありません。正解があるような勉強もありません、なので正解を持っている人ばかりを探している人は裏切られる毎日を送るものです。正解などはないと開き直っている人から、試行錯誤することや意味を深め学べるということをはじめていくものです。

そこで正解がないとわかってしまうと、一人でできないことがわかってきます。言い換えれば正解がないというのは、やっていくことがすべて答えになるということです。その答えを生きるなかで協力し改善し、よりよくしていくことが人生ということになってきます。

その時、信頼できる仲間がいるかどうかは何よりも重要になってきます。そして信頼というのは、頼れる人がいるかということです。心を開いて素のままで弱音が話せ、助けてもらえる人がいるということは信じる姿の一つです。

信念でやり遂げようと必死に取り組んでいるからこそ弱音が出せない人もいるでしょう。それを共感し察知し理解して手を指しのべる人もまた信頼し合っているともいえます。お互いの弱音や本音を言いえるほどの信頼関係があるというのは、心を安んじることができるものです。

安心できる関係があること、それが信頼関係です。お互いが安心して本音本気で一緒に取り組める場には、居心地のよさと共に不思議な力が宿るものです。

これからも未来のふるさとの甦生のために子どもたちの憧れるような社会づくりをしていきたいと思います。

変化は生き方

人はそれぞれ何のためにそれをやるのかという初心をたずねていくと自ずから生き方に出会います。その生き方を知れば、その人の目的を確認することができます。一般的に人は人を理解するのにその人の目的への手段ばかりを見ては、「きっとこんなことをやりたいのだろう」と勝手に推察されますがその途中がどうなっているのかはその目的が非常に困難で偉大なものであれば目先に出ている手段だけをみてもその全体もしくは初心を把握することはほとんど不可能です。

例えば、エベレストに登頂するという目標を掲げているからとその人が単に山が好きなんだろうとだけ思ってもそうとは限りません。その人の目的を知ってはじめて、その手段に何を選択したのかの意味を理解することができるのです。

人は手段を目的だと勘違いして、手段をしたいのだろうと親切にお世話してくれますが本来はその人の生き方を観てその目的を共有することの方が真の意味で親切になることもあるように私は思います。

老子に、魚を与えずに釣り方を教えよという言葉があります。これも手段に対して与えるのではなくまさに生き方を与えよという意味でも受け取れます。

私は釣り方が今でいう、「暮らし方」であり、それが根本的に変化しなければ実際には何も変わっていないということにもなると思っています。なぜなら現代人は真の暮らしというものが喪失してしまっているからです。

特に今はコロナ禍で一時的に困ったからと補助金や助成金を出しては食べれないからと魚を与えているのでしょうが果たしてこれがいつまで続くのか、そしてそれでこの先に訪れる世界の困難や災難に対して一緒に乗り越える力を与えられたのか。少し先の未来が予想できて心配になります。

私が言うのは、このコロナ禍を福に転じてこの目先のことだけ乗り切ればいいという場当たり的な対処ではなく根源的にどうあらなければならないのかを学び直す必要があるのではないかと提言しているということです。

どのみち人類は今の方向のままでは、確実に資源が枯渇し競争原理の中で心の貧困はますます進み、愛に飢えた人たちが増えていくのは見てのとおりです。戦争もまた近づいてきています。本来、地球には真の豊かさがあり十分に足りている暮らしがすべての生きものに行き届くほどの無尽蔵を持っています。それをまだ足りぬとこれでもかと消費して成長ばかりを追い求めている方向を転換できるチャンスが今であるのは歴史をみればすぐにわかります。

このチャンスを活かして変化するのか、それともこのチャンスを逃してまた元に戻すのか。一人ひとり選択が与えられています。その時、中心になる大切なものは「生き方」であるのは明白です。

生き方は、現代では暮らし方に出てきます。働き方というのは本来は生き方であり暮らし方ですが、現在は単なる働く手段の一つにしかなっていません。テレワークも時短も、複業も手段の一つにすぎません。しかしそれでもそれが働き方改革と言ってしまえるのは、生き方を変えてまでやろうとはみんな思ってはいないからでしょう。それは大変なことだからです。全体の空気に任せていた方が楽だからでもあります。

実際に生き方を変えるというのは、日々の覚悟が迫られます。覚悟はいいのかと常に自分に問い続けることでもあります。そこまでするほど切羽詰まっていないというのが事実なのでしょう。

しかしこの先、コロナに加えてもしも未曽有の災害や危機が訪れたとき外圧によって本当の試練がきたら耐えられるのでしょうか。私は臆病で小心者だからそれが来てから選択というのが怖いからか、その前に変化したいと思うタイプのようです。大切なものを守りたいのです。

子どもたちを愛するがゆえに、暮らしフルネス™に取り組み葛藤の日々ですがこの取り組みが子どものためとは思われないことの方が多いです。何のためにこれをやるのか、それが多くの人に理解されるには真の暮らしの実践を共にし続けるしかないのかもしれません。

引き続き、子どもたちのために日々の暮らしを味わい楽しんでいきたいと思います。

風土甦生とひとづくり

私は故郷に戻ってきて色々と実践が増えてきていますが、よく地方創生をやっているということを言われることがあります。私はこの地方創生という言葉が実は好きではありません。それにまちづくりをしているともいわれますが、またこれも好きではない言葉です。

なぜだろうかと少し考えてみると、色々と思い当たるところが出てきます。例えば、地方という言い方も私は東京に19年住んで2拠点生活をしてきましたから、東京でいうところの東京以外を、特に大都市以外のところをみんな地方と呼んでいました。私は、日本という国でしかもふるさとには両親や家族がいて、東京も一緒に目的を共有している社員たち(私たちはカグヤ一家と呼ぶ)がいてそこを行き来していただけで東京か福岡かということを意識したことはほとんどありませんでした。なので、地方創生という言い方に違和感を覚えたままなのです。せめて、地元創生ならなんとなく理解できますがさらに踏み込めば私がしていることは「風土甦生」の方が近いのです。

もう一つのまちづくりにおいては、さらに違和感があります。そもそも何をもってまちづくりというのか。誰かが箱ものをたくさん建てたり、経済が活性化できるような商売をはじめたり、衰退したものをまた興隆させたりする人たちがまちづくりをした人といわれます。つまり極端な言い方をしたら、田舎を都会にした人たちがまちづくりの第一人者のように呼ばれているのです。動物たちや虫たち、自然がイキイキとして風土が輝いているような場所をわざわざ人工的に整備して都会のようにして、さらに大都会の人と経済がつながり田舎が活性化したことを評価されてまちづくりをしたと呼ばれる喜ばれることが好ましくないのです。せめて、風土を磨いて魅力を引き出したとか、徳を積んで本来の地域の人々を薫育した「ひとづくり」に取り組んでいる方が近いのです。

私は日本の美しい風土をこよなく愛しており、その風土が永遠にこのままであってほしいと願うばかりです。だからこそ、風土を壊さずに美しいままであるために風土の甦生をしながらひとづくりをしていきたいと思っているのです。

本来、その地域にはその地域にしかない風土があります。それはその地域の徳のことです。それはその地域の歴史であったり、文化であったり、暮らしであったりするものです。それを大切にする人たちを醸成しながら、その中でその地域独特の生き方を通して日本全体の風土の一部として力を発揮していくこと。まるでどこにいっても金太郎飴のようになってしまった地方も人もそんなものは日本の未来にほとんど役に立ちません。ながらく保育や教育の世界を観てきても、十把ひとからげに同じようになるように型に嵌められた人を増やしてもそれは本質的にまちづくりの人を育てるはずはないのです。それにどこかで見た風景ばかりで同じ道路と同じチェーン店ばかりが連なっていてどこも同じ配置・配列になっているものが地方創生とかいっていたら田舎に出てきて東京が理想という状態をみんなで目指すだけになるのです。

なんだか長くなってしまいましたが(笑)、ミニ東京に憧れるのをやめ本質的に日本全体のために「風土甦生とひとづくり」をすることに原点回帰していくことが未来の子どもたちのために徳を譲り渡していくことになると思います。

引き続き、我が道をいきながら楽しく豊かに醸成を積み発酵していきたいと思います。

人類の失敗

先日、ある実験がアメリカで行われていることを知り自然の道理についてまた考える機会がありました。その実験は、蚊を遺伝子操作し子孫が生まれなくなるようにするものです。具体的には、遺伝子操作した雄の蚊を何千万匹と野に放ちその蚊が雌と交配することで子孫が生まれなくなり全滅させるというものです。

実験は1週間ごとに45万匹の遺伝子組み換えの蚊が放たれ27か月間行われました。結論としては失敗に終わったようで、雌の蚊が子孫を残せない雄を見分けて交配するようになったのではないかといわれています。当初は減少傾向があったそうですが、18か月後には元の数に戻ったそうです。

人間でもわかりますが、子孫を残せないとなると選択して子孫が残せるようなものを選ぶのはわかります。蚊はそうしないと思ったことがまず不思議ですが、自然の道理としては当然のことです。

問題はここからです。

本来、子孫を残せない蚊を放ったから遺伝子組み換えの蚊は同時にいなくなると仮定していましたが実際には交配するなかで野生の蚊から遺伝子組み換えられた蚊の遺伝子を受け継いだ個体が多数発見されたのです。その遺伝子組み換えられた蚊から同じ組み替えられた蚊が3~4パーセント誕生するようです。つまり人為的に遺伝子を改造された子孫がその後も引き継がれて野生に誕生しているということです。

この遺伝子を組み換えられた蚊のグループは、従来の蚊よりもさらに強い抵抗力や強毒性のようなものを持つことが考えられるそうです。

遺伝子を組み換えて操作するはずが、かえって手が付けられないものを作ってしまうという事実。これはコロナウイルスにも似たようなことが起きているのではないかと私は感じます。

人類は、この遺伝子組み換えという技術の危険性をよく理解せずに使いますが自然のバランスを壊せばどうなることがあるのかを必ず知る日が来るはずです。この遺伝子というものは、何億年も何千万年も前からある私たちの姿を創造するいのちの根源です。それを操作すれば、奇形をはじめあらゆる問題が発生します。

遺伝子を傷つけるようなもの、それを組み換えるようなものをすればこの世に本来存在するはずもなかったような不自然な存在が現れます。人工的に人為的につくられたものは、自然のバランスを崩すだけでなくかえってそれを今度また元に戻すために膨大な量のエネルギーや犠牲を払うことになります。

本来、自然を無視した人工物や人為的なものを取り払って自然に沿ったものにしていこうとなれば自然はバランスがととのいやすくなります。しかしその逆をやればどうなるかといえば、かえって人間にとって不都合なことばかりが発生するのです。

このまま、学び直すことなく人類が突き進めばそのうち「人類の失敗」という歴史が本に掲載される日も来るように思います。その失敗は、すべて以上のように自然界のバランスを崩した出来事や内容で埋め尽くされるはずです。

日本人の先人たちは、それをよく学んでいました。それによって山や川を大切にし、生き物たちや自然を深く崇拝し、自然と共生しながら永続し循環できるバランスの中心を持てる生き方、つまり伝統的な「暮らし」を実現させました。

最近、コロナウイルスは台湾モデルが世界に賞賛されていると聞きます。なぜ、日本がそうならないのか。残念に思います。どちらにしても、人類は失敗から学び改善するところに成長もあります。現実や事実を直視し、暮らしフルネス™が世界を導けるように実践を続けていきたいと思います。

運と縁と素直

この世の中には、徳という言葉があるように運という言葉もあります。最初にこの現象を発見し言葉を決めた人は、どのような人だったのでしょうか。言葉はいつはじまり、いつ終わるのかを誰も知りません。しかしその言葉が何百年、もしくは数千年の月日を超えて存在するというのはこの世にその現象が存在しているという証明でもあります。

最近は、徳とか魂とかいのちとかをいうとすぐに怪しい宗教などと言われます。そもそも宗教が怪しいのではなく、教祖にしている人間たちが怪しいのであって現象は自然そのものですから現実です。

その現実を言葉にしてこういうものだと決めたのが言葉のはじまりだったようにも思います。つまり言葉は現実と現象を証明するものでもあったのです。

そこで「運」というものを考えてみると私たちはいつ生まれてくるのかはタイミングがあります。またどの場所に現れるのかも同様です。これも現実と現象であり、それは事実ですからそこには運があります。この運をよく観察するとそこには縁があります。つまり縁によって運が導かれていくということです。人の言う幸運というものは、幸縁ということでもあるのでしょう。

運と縁を持つ人は、縁をちゃんと見極めている人です。縁を見極められる人は、素直な人なのがわかります。なぜなら、素直な人は縁そのものがありのままに観えるからです。

通常人は、様々な我執や我欲がありますから縁そのものが曇った歪んだ眼鏡をかけていてよくわかりません。それが澄みきったものになるのならよく縁そのものが観えているという具合です。縁がありのままに観えるのなら、その縁を活かすことができます。しかし縁を活かすにはやはり素直でなければなりません。自分の都合で縁を利用しようとしたら縁は離れていきます。ここでも素直さが運を決めることがわかります。

纏めてみると運は縁であり、それは素直であるときに観えるもの。そう考えてみたらすべての言葉は、素直であるときににしか本当の意味は理解できないということがわかります。この素直は、自然のことです。自然はあるがままに素直ですから、自然体で自然に近づいているときこそ素直さが研ぎ澄まされているということになります。

一種の矛盾でもありますが、知識としての言葉を得た人類はその言葉によって素直さを失っていったともいえます。しかし運というものがこの世に存在しているということを深めるとき私たちはその運が確かにこの世に存在してそれがとても偉大な意味や影響を持っていることはわかるのです。

運を善くするということはどういうことか。それは縁を活かすことです。縁を活かすためには素直であり続けることです。人は目的をもって歩んでいくとき、不思議な幸運を得るものです。それは自然の力の本体でもあります。子どもたちのために引き続き、清き直き明き心で自然の道、かんながらの道を実践していきたいと思います。

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

愛の鞭

現在、コロナウイルスの出現によって人類は今までの生き方を見直す機会に差し掛かっています。もともとコロナウイルスが出る前から、環境問題のことでこのままでは地球の資源が持たないということは騒がれていました。SGDsを含め、なんとか延命措置をしてそのうちになんとか対策を立てようと識者たちも必死に訴えかけてきました。

しかし人間の欲望や欲求は、現代の競争原理に飲み込まれ誰もが損をしたくないと抜け駆けする状態であり止まる気配もありません。コロナウイルスにおいても、ワクチン合戦や経済戦争は白熱するばかりでもはや打つ手がないほどです。

本来、ウイルスは自然界のもので時間が経てば必ず収束するものです。これは自然農をしているからわかるのですが、天敵というものはバランスを保つために現れ、バランスが整ったらまた元の状態に戻っていきます。

地球は常に全体快適になるように、あらゆるものに対して平等な環境を提供します。言い換えれば、「自然と共生する仕組み」で動いています。自然と共生することを拒み、対立して今の価値観を世界に広げてきてここで竟に自然の許容量の限界値に達しているのでしょう。

それでもこのまま突き進むのかということを問われているのがこのコロナウイルスの出来事だと私は感じます。現状では、人類はよほどのことがない限りは抜け駆け競争をやめてまで自然と共生する気配はありません。早々にワクチンを打って経済活動を復活させて何もなかったことのようにしてしまいたいのかもしれません。

しかしそこまでして戻ってきた世界は、また以前と同様に環境破壊を続けて資源を使い尽くすまで消費を繰り返し最後は人間だけ残ってしまうという状態に戻ります。

果たして本当にこれでいいのか、根源的な問題を未解決のままにコロナウイルスをもしも排除できたとしても第二第三の天敵の矢が人類に降り注いでくるのは火を見るよりも明らかです。

だからこそ、私は自然との共生をしながら生きていく道を子どもたちに遺していこうと挑戦をしています。一見そこまで極端にしなくてもと思われるかもしれませんが、極端に見えるのは今の価値観から見たら極端に見えるだけで実際には当たり前のことをやっているだけです。

古いものを手入れしながら修繕し、長持ちして資源を保存しつつ、あらゆる暮らしを都市化されたものに依存せずに足るを知る風土とのつながりの豊かさで味わえるようにする。そして文明の最先端技術を学び、取り入れながら文化とのバランスを保ちながら心穏やかに場を磨いて地球を美してしていく努力を怠らない。

あくまで仮定ですが、もしも聖徳太子がこの時代に生きていたらどうしただろうか。きっと日本の文化、歴史からの知恵、そして自然との共生をしながら適切に文明の恩恵を取り入れ人類の精神性を磨いたように思うのです。自然との共生とは、自然の道であり、かむながらの道のことです。

これを実践し続けることで、地球はより美しい自然を保ち、人類もまたその地球において豊かさの一端を担います。この世の楽園を実現させたはずなのです。

私の直観ですが、コロナウイルスでもここまでということになればこのあとに備える必要を感じます。さらなる天敵が現れ、人類は滅亡の危機を迎えるかもしれません。しかしこれは人類にとっては非常な災難ですが、地球にとってはバランスを保ち、人類が仕合せになるための愛の鞭のようなものなのでしょう。

私は一つのリーダーとして、人と異なる道を往くつもりです。

すべての人類は実験のようなものです。私の一生もまた一つの実験ですから、我が道を切り拓いて子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

自然の道

現在、何か精神的なものや目に見えない世界のことを語ると宗教といわれます。特にこの時に言われる宗教という言われ方は、オウム真理教の事件があってから余計に怪しいものとして扱われていくものです。

本来、宗教とはどういうものか。キリストや仏陀、そのほかの教祖が存在するものを広義では言います。しかし日本には、もともと宗教ではなく神道というものがありました。これは「自然の道」のことです。私はそれを古来の呼び方で「かんながらの道」とも呼んでいます。

自然はどのようなものが本体であるか。そして私たちは自然とどのように共生し、徳循環の世界の中で貢献しあうのか。もしもそれを話しても怪しいといわれるのであれば、この今の時代の世の中の一般常識と価値観の方がよほど怪しいと思えてしまいます。

人間が謙虚になってみれば、自然が何かということ、道が何かということは自明します。しかし人間が傲慢になればなるほどに自然というものを遠ざけ、人間中心の世界だけを切り取っていくのでしょう。その中で出てくるものが宗教であり、教祖ということでしょう。人間がまるで悟ったかのように分かった気になっていることこそが何よりも怪しい。(笑)この辺で私たちは先祖から信じてきたものの存在をちゃんと定義し直す必要があるように思います。

私たちの先祖は、創始以来ずっと自然と共生して暮らしを営んできました。太陽が昇れば拝み、月が昇れば拝む。海に拝み、山に拝み、そして川や滝にも拝む。さらには石に拝み、木に拝み、火に拝み、あらゆる自然を拝んできました。これが自然崇拝です。

神という文字も、怪しまれる一端になっていますが本来はこの神は日本では「カミ」と呼び、自然現象のことを言いました。つまり西洋や中国の一神教での人間由来のGODや神仏ではなく「自然そのもの(カミあるがまま)」で私たちが自然で拝んできた存在をカミと呼んだのです。別の言い方では、八百万のカミガミとも言いました。これは全体の自然現状とも定義してもいいと思います。

つまりずっと私たちは自然を拝み、自然とともに共生してきたということです。

私はかんながらの道というブログを書いていますし、よく徳のことや道ののこと、もしくは魂やいのちのことなどを説きますからあやしい宗教といわれるのかもしれません。しかし怪しいのは、今の世の中のカミへの認識の方ではないかと私は思います。私は人間中心の神を信じているのではなく、自然や天然に存在するカミを信じているものです。それを表現するのに、いろいろな言葉を使いますが前提がずれているのなら伝わるはずもありません。

例えば私の日々の暮らしの中では、竈には火のカミサマがいます。そして井戸には水のカミサマがいます。田んぼには田のカミサマがいます。それを拝み、共生と貢献、自然循環のことを暮らしの中で一緒に説いていきます。これが新興宗教や怪しいオカルトとなるのなら、日本人は先祖代々やってきたことは一体どこにいったのかということになります。

別の価値観に塗り替えられ、日本人が生来ずっと大切にしてきた「拝む心」もまた消失することになります。これは教育でも宗教でもなく、伝統であり歴史であり、生活習慣であり、暮らしであり、風土の文化です。

時折、当たり前のようにカミを拝んでいたら怪しい宗教だといわれると寂しい思いをすることがあります。古民家を甦生し、伝統的な暮らしを甦生し、行事を甦生し、かつての結を甦生する。それすらも新興宗教といわれるというのは、同じ民族として本当に残念なことです。

暮らしフルネス™という言葉も、今の時代にわかるようにと名付けたものですが書いていることはほとんど自然の道のことだけです。自然というものがどうなっているのか、何が天然であり何が養殖であるのか、私たちは何を優先して生きるべきか。コロナの今この時だからこそ、どう学び直すべきかということを説いています。

なんだか説明がましいブログになってしまいましたが、大切なのは自然の道を先祖と同じように歩んでいくことを伝承していくことが未来の子どもたちのためになると私は信じています。そうあって今の私たちがあるように、これからもそうありたいと願う心の中に先人の思いやりが生きています。

自然を大切にしながら、拝み、道を実践していきたいと思います。

自分で考える

人は自立していく上で大切なのは「自分で考える」ということです。この自分で考えるというのは言い換えれば「自分で気づく」という力のことです。人生はあらゆることが自分の中での気づきや発見で彩られていきますから誰かの人生を代わることはできません。

常に自分が自分の人生の主人公になって生きていく必要があるのです。その時、大切なのがこの自分を生きるために、自分で気づく人になるということです。

自分で気づく人というのは、説明が要りません。よく私は変わったことばかりをしているように周囲が見えるようで、またとても遠くのことのために歴史を遡り、損得を度外視して行動していきますから意味不明のことをやっているようにしか感じられないのかもしれません。

その時、説明をするようにいろいろと聞かれますが説明はしても全体のことが伝わるというのはほんのごく一部だけです。その時に、説明がわかりにくいという人もいます。説明ができないからよくないというのです。

確かに人に伝える技術というものを持つことで、わかりやすく誰にでもわかるようにすることは大切です。しかし、それはテレビや報道、記事など、もしくは広告宣伝をする時などにはいいかもしれませんが志や実践、もしくは学ぶということにおいては説明よりも気づくことの方が大切なのです。

気づくというのは、説明は要りません。自分の中で、その実践に近づいていき自らがその本質を掴むために気づくのです。気づくことで、人は真に成長しますし、気づきによって本当のことを掴むことができます。

つまりどんなに説明しても理解できないのは、説明する側の問題ではなく気づく側の問題だということなのです。私は今までの人生で、人生の達人といわれるような一道を究めた人たちに何人かお会いして学びをいただく機会がありました。

その人の説明の仕方がわかるかどうかではなく、どうやって近づこうか、どうしたらこの人の学びの深淵に触れることができるのかと謙虚に気づこうと真摯に取り組んできました。

その人の存在から醸し出される片鱗を感じ取り、言葉にならない実践や生き方などを直観して気づきで近づいてはじめて少しだけ悟りに触れるという具合です。それでも実践してまたお会いすると、気づきの差が観えてさらに学びを深めようとする意欲が高まります。

これを説明してくださいとは言いませんし、わからないのは相手の説明が悪いなどとは決して思うこ思うことはありません。最初から説明してもらおうという学びもないし、そんなに甘えていたら自分で考える力が失われてしまうのです。

今の教育は、なんでも先生や上の人が下の人に教えることが当たり前だということになっています。そして気づくことよりも、教え方がいいとか悪いとか相手のせいにばかりしては自分で気づくことの大切さが伝わっていません。自分の問題だと気づかないくらい、気づくことが失われているともいえます。

畢竟、人生は「気づく」ことができるかどうかで意味が変わります。そして自分で考える喜びや気づくことの仕合せが人生を真に豊かにするのです。

子どもたちのためにも、自ら気づける生き方を伝道していきたいと思います。

持たない豊かさと、磨ける喜び

現在、家に住むのに持ち家とするのか賃貸とするのか、そしてシェアするのかと選択肢が増えてきています。バブル時機から持ち家信仰が広がり、家をもって一人前とされてきましたが実際には家を持つのにローンを組んでそれを支払うために働くという人も多いように思います。

先祖は、家を建てるというのは大変費用も労力もかかりましたから子孫へと家を譲渡していく過程で負担を減らす工夫をしてきました。和の建築が、間取りを自由に換えれるのはその時々で家族構成が変わっていくからでもあります。

現代は住宅事情がかわり、新築を建て続ける仕組みが動いていますから持ち家にせよ賃貸にせよ、すぐに手が出せる仕組みになっています。ただ、簡単に買えるからと買っても家は単なる物の売り買いのようにはいかず、手入れや修繕も必要になります。

車でもそうですが、買って終わりではなく車検をはじめガソリン代、整備代、そのほか、事故に遭遇したときの修理代などを考えると総額は大きくなります。家となると、もっと手間暇も修繕費もかかり維持するのは大変なことです。

住んでいれば、日々に小さな手入れをしますが空き家になってしまえばあっという間に朽ちていきます。人工的に人間が何かをしてつくったものは、どんなものでも必ず手入れしないと朽ちていくのがこの世の道理です。

だから本当は、自分が「持つ」のなら手入れができるかどうかを先に考えなければならないのです。そうでなければ持たない方がまだ手入れが行き届きます。ある一定上の物が増えてしまえば人は手入れすることができなくなり荒廃していきます。

増えないようにすることと、手入れできる範囲で足るを知り持たないようにすることが物を大切にするための心得の一つになるのかもしれません。しかし、持つことは同時に磨いていくことでもあります。いろいろなものが増えて磨けることは仕合せなことでもあります。

掃除ばかりしているように思われますが、手入れの豊かさ、修繕の美しさ、そして大切に甦生させる喜びは寿命が伸びる思いがして格別でもあります。

人類が物を増やさず、分相応の中でも最高の幸福が得られるように暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。