現在、何か精神的なものや目に見えない世界のことを語ると宗教といわれます。特にこの時に言われる宗教という言われ方は、オウム真理教の事件があってから余計に怪しいものとして扱われていくものです。
本来、宗教とはどういうものか。キリストや仏陀、そのほかの教祖が存在するものを広義では言います。しかし日本には、もともと宗教ではなく神道というものがありました。これは「自然の道」のことです。私はそれを古来の呼び方で「かんながらの道」とも呼んでいます。
自然はどのようなものが本体であるか。そして私たちは自然とどのように共生し、徳循環の世界の中で貢献しあうのか。もしもそれを話しても怪しいといわれるのであれば、この今の時代の世の中の一般常識と価値観の方がよほど怪しいと思えてしまいます。
人間が謙虚になってみれば、自然が何かということ、道が何かということは自明します。しかし人間が傲慢になればなるほどに自然というものを遠ざけ、人間中心の世界だけを切り取っていくのでしょう。その中で出てくるものが宗教であり、教祖ということでしょう。人間がまるで悟ったかのように分かった気になっていることこそが何よりも怪しい。(笑)この辺で私たちは先祖から信じてきたものの存在をちゃんと定義し直す必要があるように思います。
私たちの先祖は、創始以来ずっと自然と共生して暮らしを営んできました。太陽が昇れば拝み、月が昇れば拝む。海に拝み、山に拝み、そして川や滝にも拝む。さらには石に拝み、木に拝み、火に拝み、あらゆる自然を拝んできました。これが自然崇拝です。
神という文字も、怪しまれる一端になっていますが本来はこの神は日本では「カミ」と呼び、自然現象のことを言いました。つまり西洋や中国の一神教での人間由来のGODや神仏ではなく「自然そのもの(カミあるがまま)」で私たちが自然で拝んできた存在をカミと呼んだのです。別の言い方では、八百万のカミガミとも言いました。これは全体の自然現状とも定義してもいいと思います。
つまりずっと私たちは自然を拝み、自然とともに共生してきたということです。
私はかんながらの道というブログを書いていますし、よく徳のことや道ののこと、もしくは魂やいのちのことなどを説きますからあやしい宗教といわれるのかもしれません。しかし怪しいのは、今の世の中のカミへの認識の方ではないかと私は思います。私は人間中心の神を信じているのではなく、自然や天然に存在するカミを信じているものです。それを表現するのに、いろいろな言葉を使いますが前提がずれているのなら伝わるはずもありません。
例えば私の日々の暮らしの中では、竈には火のカミサマがいます。そして井戸には水のカミサマがいます。田んぼには田のカミサマがいます。それを拝み、共生と貢献、自然循環のことを暮らしの中で一緒に説いていきます。これが新興宗教や怪しいオカルトとなるのなら、日本人は先祖代々やってきたことは一体どこにいったのかということになります。
別の価値観に塗り替えられ、日本人が生来ずっと大切にしてきた「拝む心」もまた消失することになります。これは教育でも宗教でもなく、伝統であり歴史であり、生活習慣であり、暮らしであり、風土の文化です。
時折、当たり前のようにカミを拝んでいたら怪しい宗教だといわれると寂しい思いをすることがあります。古民家を甦生し、伝統的な暮らしを甦生し、行事を甦生し、かつての結を甦生する。それすらも新興宗教といわれるというのは、同じ民族として本当に残念なことです。
暮らしフルネス™という言葉も、今の時代にわかるようにと名付けたものですが書いていることはほとんど自然の道のことだけです。自然というものがどうなっているのか、何が天然であり何が養殖であるのか、私たちは何を優先して生きるべきか。コロナの今この時だからこそ、どう学び直すべきかということを説いています。
なんだか説明がましいブログになってしまいましたが、大切なのは自然の道を先祖と同じように歩んでいくことを伝承していくことが未来の子どもたちのためになると私は信じています。そうあって今の私たちがあるように、これからもそうありたいと願う心の中に先人の思いやりが生きています。
自然を大切にしながら、拝み、道を実践していきたいと思います。