先日、藁ぶき古民家で祈祷をした際、大祓祝詞を宮司さんと一緒にそらんじていた方がいました。もともと宮司さんだったのかとお聴きすると、そうではなく幼いころに身近で祖父母や両親が祈祷していた中で育ったので身体が覚えていたということでした。
幼少期、また子ども時代に暮らしの中で身についたことが何十年もなくならずに染みこんでいるのを実感しました。
薫習(くんじゅう)という言葉があります。ウィキペディアにはこう書かれています。
「熏習(くんじゅう、梵: vāsanā、abhyāsa、bhāvanā、 वासना)とは、身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う。薫習が身口意に現れたのを「現行法」(げんぎょうほう)といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気」(じっけ)という。このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という」
この阿頼耶識とは「阿頼耶識 (あらやしき、 梵: ālaya-vijñāna、आलयविज्ञान )は、 大乗仏教 の 瑜伽行派 独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない 識 のこと 。. アーラヤ識 。. 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・ 末那識 ・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するとされる 。」ともあります。
つまりシンプルに言えば、潜在意識ともいわれるような通常は意識に出てこない深いところ、深層の意識のところにいつまでも留まっている記憶のようなものです。
現在の教育は、この薫習ではなく暗記を中心に表層の意識に詰め込むものばかりを行います。いつもすぐに表層意識に出てこないといけないので、物覚えが悪い人には大変です。
本来は、私たちの文化や伝統はこの薫習によって染みこんでいくものです。それは、暮らしを通して場で行われてきました。伝統的な暮らしには、あらゆる先人たちの智慧の宝庫です。
そこに触れることで自然に薫習されて、次世代へとその智慧が受け継がれていく。そうやって私たちは人格を形成し、生きるための指針や根からの養分を吸い上げていくことができるようになります。
子どもに与える環境というのは、本来はこういうものに触れる機会を醸成していくことです。私の取り組みは、この薫習をハイブリッドに実践して体得していくことによります。
子どもに懐かしい未来を譲り遺していきたいと思います。