英彦山の宿坊の甦生をはじめるにあたり、何を初心にするかということを再確認しています。もともと私は子どもたちの1000年後のことを憂い今、何をすべきかを考えてカグヤという会社を起業しました。そして、子どもの憧れる生き方と働き方を伝承していこうとし、暮らしフルネスというものを定め、その場を磨いています。
そもそも暮らしというものは何かといえば、人間の生き方を表現する場のことです。
例えば、僧侶が暮らせばお寺になるし、山伏が暮らせば宿坊となります。現在は、仏教が檀家制度をとって墓地や葬式などの形態がメインになって場のようにいいますが本来、仏陀がいた頃のお寺とは僧侶たちが住みそこで仏の生き方を実践した場がお寺のはじまりの姿だったといいます。
なので私の思う暮らしの甦生とは、どのような生き方をするのか、そしてどのような働きを実践するのかを日本人の先人先達たちの姿から学び直しその徳を現代につなぎ直そうとしているのです。
本来、暮らしそのものはその人の持つ人間性や精神性、魂が現れてくるものです。その人がどのような生き方をし実践するかが丸ごとすべて詰まっているものが暮らしです。何を大事にしているか、どのような想いを育てているか、そして何を実現しようとしているのか。その一つ一つが、暮らしを通して場に感化されていくのです。
だからこそその場には、その人の暮らしの真心が薫ります。
現代は場をすぐに環境というものの言い方で置き換え、最近では見た目が華やかであればその場がさも価値があるかのように広報したりします。これは営利のためです。しかし本当は、場には人が着いているのであり主人の生き方が中心になっているのですから自然に薫ってくるものなのです。
お寺であれば坊主、宿坊であれば坊主、庵には庵主がいるように、主人の生き方があっての場であるということです。その場があることで、私たちの風土や国土はさらに歴史を重ねて磨き上げられ国宝となっていきます。
残念なことに今の建築というものも専門家によって美術品のようなハコモノになってきていますが本来の建築は主人がいのちを吹き込んでいくものです。建物と主人は決して分業し切り離せるものではなく、主人が代わり続けても生き方が変わらないから建物としての場が甦生し続けているのです。やはり肝心なのは主人の存在であるのは間違いありません。これはすべてに言えるのです。
家であれば家主がどのような暮らしを実現するか。そこに場があります。むかしは修練する場を道場といいましたが、今は西洋文明が覆いかぶさりましたから場と道が逆転している時代です。だからこそ原点回帰し、場道と名付け私はその生き方を暮らしフルネス™と定義したのです。
子どもたちが1000年後も安心して立命できるよう、見守り続けられる場を醸成していきたいと思います。