生き方の伝承~名前の変化~

現在の日本では名前を変えるということはありません。親が名付けた名前をそのまま一生名乗ります。しかしこれは明治以降になってからで日本の文化では一生のうちに何度も名前を変えたことがわかっています。

例えば、有名なものに戦国武将や貴族などがあります。豊臣秀吉などは、日吉丸⇒木下藤吉郎⇒羽柴秀吉⇒藤原秀吉⇒豊臣秀吉な具合に名前を変えています。厳密にはもっと細かく改名したそうですが出世魚のように自分の成長に合わせて変化しています。

伊達政宗などは中興の祖の名を名乗ったりしていますし、武田信玄などは法名(戒名)です。上杉謙信なども、苗字も変われば下の名前も生き方を定めたときに変化させています。

落語や歌舞伎などは襲名といって、名前を変えます。うちの先祖も、お寺に遺っている過去帳をみたら長男は代々、みんな大人になってから同じ名前を名乗っていました。本来は、親がつけた名前でしたが家督を継いだときに名前を同じ名にして家を守ってきたのでしょう。

この名前を変えるというのは実は大きな意味があるように思います。

そもそも、言葉は形を変えていくものにその時々に名前を変えていくというものがあります。例えば、水などはわかりやすく、形態が変われば雨となり霧となり川となり海となります。

それだけ呼び名が変わります。神道でも、瀬織津姫、タギリヒメ、祓戸大神、水神、竜神、おかみのかみなどと変化しているともいわれます。この辺は同一神かどうかの真実はわかりませんが、名前を変えているというのは真実です。

その日本の文化を前提として私たちは名前は変わり続けてきたのだから変化しない名前はないという事実があるのです。言葉というものは普遍ではありません。なので文字に頼らずに口伝にした山伏たちもいました。

このブログもまた同様に文字は普遍ではなく変化していくものとしていけば、真実かどうかは別として変化していくということは真実なのです。

代わり続けていく世の中で、名前を変えるというのはとてもいい文化のように感じます。私も親が名付けてくれた有難い名前がありますが、いつの日か自分自身に真に納得の往く人生を歩みはじめたその時は名前を変えてみたいと思います。

先人たちの智慧にならい、子どもたちに生き方を伝承していきたいと思います。

種蒔きの実践~暮らしフルネス~

昨日、自然農の畑の種まきをすべて終わらせました。最近は古民家甦生で運用する畑も増えていますから同時期に4か所の畑の種まきをするから少し大変です。春から育てた野菜は夏を通して実をつけこの秋のはじめにほぼ収穫します。種まきには旬がありますからこのタイミングを外さずに蒔いていく必要があります。

いつ蒔き時なのかと聞かれることがありますが、これは野菜や植物、自然を観察すれば道理がわかるものです。

もともと野菜や植物の一生を例えればシンプルで、種から芽が出てぐんぐんと育ち、花を咲かせ実をつけそして最後は種になります。これが一般的な一生の流れですが、これを季節ごとに繰り返しています。

大きくわけで気候は冬から夏にかけての巡り。そして秋から春にかけての巡りがあります。つまり①「寒い時から暖かい時を経てまた寒い時」への巡り。そして②「暖かい時から寒い時を経て暖かい時」への巡りです。

自然界の植物や野菜のシステムは、大きくはこの①②の二種類に分かれ一生を巡ります。基本的なサイクルは種から種へと同じですが、この二種類の季節を隔てて一生を送るのです。

そしてこの①②の始まりと終わりの頃が種まきの旬になります。つまり①が実から種になり始めるころにそれまで眠っていた②の種を蒔いていくという具合です。季節の入れ替わりの頃というのは、車のハンドルの遊びのような時間があります。この間に種まきをするのです。実際にはお店で購入した種には何月ころというようにスケジュールが入っていますが、土地の性質や気温も異なりますから場所場所で蒔き時の旬は異なります。

自然をじっくりと観察すると今、ほとんどの①の草たちは季節の入れ替わりの時期で種をつけ始めています。この種は来年の春先までには時には風で飛び、或いはほかの生き物たちに運んでもらいじっとそのまま自分の季節の来る時機を待ちます。そして今まで眠って待っていた②の種がその辺の土の表面の枯草を取り除けば新芽が出てきています。

自然界は季節をよく感知し、変わり目が分かっています。その合図は、根から養分を吸い上げるのをやめ太陽や水から得たエネルギーを次の野菜たちに託して自ら枯れていきます。これを繰り返すことで、土はいつまでも元氣を醸成され、土中環境にいる微生物をはじめあらゆる生き物たちの循環を促して永遠のサイクルを創り出しているのです。

環境というのは一言でいえばこの「永続する循環サイクルシステム」のことをいいます。

これを邪魔しないようにするには、私たちの人間都合のみで農業をするのではなく自然の巡りに沿って、素直に環境の道理に従って他のいのちと一緒に永続する循環サイクルシステムを活性化するように時機を間違えずにちゃんと種蒔きを実践していくことであろうと私は思います。これは人間が子孫繁栄のために徳を積んでいくことと似ています。

時代が変わっても、今までどうやって生きてきたかの真理や道理は普遍です。子どもたちにも何が普遍で何が道理かを実践を通して伝承していきたいと思います。

新しい時代の生き方

生態系というものを守るというのは、その場所を穏やかに保つための手入れが必要になります。そのままにしておけば荒れていくのが野生ですから人工的に手入れをすることで人間にとって相応しい環境や場が誕生していくからです。

これは自然界だけに限らず、人間界においても同様です。お互いに最適な距離感で見守りあうというのが人間での場所を穏やかに保つための条件なのでしょう。それぞれに自律して協力をしながら生きているのが人間社会ですからこれもまた手入れが必要です。

この手入れで今、もっとも必要だと私が感じるものが鎮守の杜の手入れです。神社というところは、お社がありその周囲を森が包み込んでいます。神社の構造はシンプルで、まずご神木がありそれが社を守ります。そしてその社を包むように森がありその森が手入れされることによって神の社として荒れないように鎮め守るのです。これが鎮守の杜になっている具合です。

そしてこの鎮守の杜がなぜ重要なのか。

この神様とお社と森が混然一体になりそこに人間の手入れが保たれることで荒れない場所になり穏やかな環境が整います。この穏やかな環境が整うというのは、言い換えれば周囲の自然環境や生態系が豊かになり人間にとって非常に有益な状態を保ち続けることができるということです。

私は場の道場を運営し、場について考えて実践をする場道家を勝手に名乗っています。その基本はこの鎮守の杜の先人の智慧を参考にしていることがほとんどです。なぜ神社ではお掃除を大切にするのか、常に枯れ葉を集めては森に還しその森の土を育て続けていくのか。そこには、水を清らかに保つ工夫と智慧があり、涼やかな風が通ることで人々の心に澱む穢れをも祓うのです。

場が清浄であるというのは、手入れがあってこそです。

それは清浄さが人間の本来の徳であり、その清浄さを保つところに和もまたあるからです。子どもたちのためにも、環境を通して価値観を転換し新しい時代の生き方を示していきたいと思います。

耕さないことと耕すこと

自然農を実践していますが耕すという意味がまた少しずつ変化していくのがわかります。もともと自然農では耕さない、虫も草も敵にしないという一つの概念がありますが実際には土の表面を削り草を取りますし、野菜の種類によっては耕すことがあります。そして虫も大量発生すれば、手で取り除いていきます。

つまりこれは形式的な概念ではなく、その背景があるということを意味します。例えば、虫や草を敵にすると農薬で全滅させようとします。自然界には当然、分解者がいたり、共生者がいたりして全体を循環させていますから何かだけを取り除くとすぐに別の問題が出てきます。つまり、「敵」にするのか、「和」にするのかではその取り組み方が異なってくるということです。

自然農では、敵ではなくどう調和していくのかを重要視します。言い換えれば、他の生き物たちへの配慮や思いやりを忘れないということです。つまり敵ではないというのは「優しくある」という姿勢です。自然に対して相手を敵にするのは視野が狭く、相手も生きていくために理由があり生きています。自然界では取り過ぎないのはそういう道理を知り分を弁えているからでもあります。人間界はそれを無視してでも取りすぎますから道理から外れてしまいます。すると自然農では具合が悪いことが次々と発生し健康な畑や農作物が育たなくなるのです。

もう一つ耕さないというのは、農業で耕すのは土を拡販して肥料を足して収量をあげていくためです。一つの土地で収穫できるようを増やそうとすればそこに肥料を足す必要があります。そしてその肥料を土の中に攪拌すれば栄養過多になり作物が大きくなり実をたくさんつけます。栄養過多ですから病気にたくさんかかりますし、その栄養を分解するために虫たちがたくさん発生します。それを防ぐために抗生物質や農薬を散布して対応するのです。また耕すと土中環境が乱れます。具体的には、土の中や野菜の周囲で育っている菌類や虫たちの住まいを崩してしまいます。土の中に住んでいる生き物たちの生態系が豊富で循環がめぐっていたらその代謝物そのものが肥料になります。つまり生き物たちの生きている日々のプロセスが他の生き物たちを活かす肥料になっていくのです。

耕さない方がいいというのは、土の中の生態系まで配慮していこうとする生き方の表現でもあります。環境問題が色々といわれますが、作る段階から環境に配慮していこうとするのが耕さないということもあると私は思います。

ではむかしの人たちは耕すことで畑が醸成され豊かになるといったのは何かということです。これは畑を攪拌すればいいという意味ではなく、その畑でたくさんの野菜を育てて活かし続けるという意味だったと感じます。つまり「耕す=活かす」ということです。

二宮尊徳にも心田開発がありますが、これは心を耕すという言い方もしますがこれは真心を活かし続けるという意味でもあると思います。つまり活かし続ける、使い続けることこそが耕しているのだということ。

自然農の耕さないというのは、言い換えればむかしの人たちは耕すということ。時代が変われば、その言葉の表現も変わっていきますからむかしの言葉を言葉通りだけで認識するのではなくその言葉の本質や本意が何か、それを理解していることが重要なのです。教科書に書いている通りを額面通りに理解するのは、本質を理解したのとは異なるのです。

子どもたちには、本質や本物の体験を幼児期からしてもらう機会や場があることを望みます。実践を磨いていきたいと思います。

自分の答えを生きていく

現在、世界の富の半分は人口の1パーセントが持つようになっているといわれます。少しイメージをしやすくしたとして別の見方では、地球の半分の土地は1パーセントが持っていてそれ以外を99パーセントで分けているという具合です。

むかし子どもの頃に場所取り合戦のようなものをしましたが、敷地のほとんどを先に取ってしまえばあとはそれ以外を取り合うという具合です。最近では、運動会などで保護者達が場所取り合戦をしてたくさん取っている人もいますがそんなに使ってどうするのかという広さを確保しています。

その広さの中でテントをたくさん建てたり、物置にしたり、知り合いを呼んだりして実際は運動会を見ずに飲み食いして盛り上がっています。

これが土地となると、広大な土地をいくらもってもその手入れが大変です。お金になるところは人に貸したりするのでしょうがそこで入った富を使ってまた富を増やすことばかりに余念がなければ地球の土地は富を増やすためだけの富の惑星になっていきます。

この富が本当の意味で、すべてのいのちが豊かになるような富であればいいのですが実際には先ほどの1パーセントの人たちが持っているのですから歪さは否めません。これがいつまで続くのか、その1パーセントの富の比率がこれからどうなっていくのか。それがこの先の未来です。

またよく考えてみると不思議なことですが、人口が80億人もこの地球にいてそれを統治するというのは如何に大変なことか。中国だけでも、約14億人くらいいるといわれますがそれを統治しているトップは今は習近平さんです。人間は100人くらいでも大人数、学校や会社にいけば500人くらいでも大変なのにそれが14億人もです。

人類はどうやってこの地球で共生し合っていくのか。場所取り合戦ばかりして富ばかり追い求める前に、そういう基本的な事実に向き合いこの地球で末永くみんなで豊かに生きていくための方法を議論する必要があるのではないかとも感じます。

1パーセントといえば、先日ある歴史家が記事で「歴史とは人口の1パーセントがしてきたことであり、残りの99パーセントは畑で働いていたのだ」という文章を発見しました。

世の中で起きている様々な歴史や富は、地球での生命を維持できる環境があってはじめて成り立つものです。現に、滅びている文明はそれが維持できなくなったから滅びたのです。どんなに富を持っていても、地球で人類が生きていけない状況になればそんな1パーセントの富では何の解決にもならないのです。

だからこそ、人類は何が原点であるのか、それをまず議論をするところから始める必要があると私は思います。こんなことを言うと、また現実逃避といわれそうなものですが現実逃避しているのは本当は誰だろうかというものです。

この先、もしも地球環境の変化が人類の生存を脅かすようなほどに荒れたとしてその時、私たち人類はどう乗り切るのか。80億人を統治するリーダーが出てくるのか、それとも本能に従って生き延びる道をみんなで模索して決断するのか。極端かもしれませんが、極端なことがたくさん発生してきたのがこの地球史です。

それでもこの地球に存在する意味は何か、なぜ魂を磨いていく必要があるのか。本当は学校の勉強や富ばかり増やすことに躍起になる前に、人類は今こそ向き合う時間を持つ機会をいただいているように思います。

子どもたちの未来のためにも、自分の答えを生きていきたいと思います。

生き方の選択

環境問題というのは人間の問題であることは以前このブログでも書いています。そもそも温暖化の原因は人間の影響を受けてのことであり、理由はわかっていても変えることができないでいることでより問題は深刻化してきました。

よく考えてみると、私の幼い時から環境問題のことは言われ続けてきました。レーチェル・カーソンの沈黙の春で農薬や化学物質のことが記され日本でもこれらの問題に気づいて行動していく人も増えていきました。

実際には、ゴミ問題と同じで明らかにゴミの増える量がゴミを出さない量を凌駕しているため問題が深刻化します。ゴミになるものを作るところから解決しないといけないのですが、大量生産大量消費という前提を変えるわけではありませんから問題の原因そのものの根本を解決していないのにいつまでも対処療法ばかりしていてもキリがありません。

そしてこの原因そのものを突き詰めていくと、人間そのものの問題であることにたどり着くのです。それをロボットなどで解決しようとしても、そのロボットをつくっているのも人間であり、人間が関わるから原因はやはりなくなりません。なのでこれは持病がある人間のように病気とうまく付き合っていくしかないように思うのです。

人間は病気を持っています。病気があるからこそ、気を付けることで健康を維持していくこともできるものです。若い時は何をやっても元氣で病気など気になりませんが、歳を経ていくとあらゆる病気にかかっていきます。免疫も下がっていきますから、健康的な食生活、運動、睡眠、心の状態、感情を整えていくような暮らしが必要になっていきます。

私たちの先祖たちは、人間の持っている病気、言い換えれば欲などにも向き合って調整してきました。何でも思い通りにはならない自然の中で謙虚さを学び、生死を尊び、素直さを学び、教えといった智慧をみんなで分かち合って助け合い暮らしてきました。

日本の伝統工芸や伝統文化の中でもその智慧の仕組みが入っているものを感じます。今の時代はスピードが急速にあがり、10年後の未来には何が起きているのかということがあまり予測できません。子どもたちの時代ではさらにスピードは加速していくはずです。

だからこそ、子どもたちのために何を選択するかは私たちの世代の責任でもあります。日々の暮らしの小さな決断が未来を易えていくことを知り、その生き方の選択をしていきたいと思います。

銀杏の効能

今が食べごろで旬の味覚に銀杏があります。拾いたての銀杏の味は格別で、ついつい食べ過ぎてしまうものです。しかしこの銀杏は、中国では漢方で使われるように薬です。薬は、効果もありますが副作用もあります。良薬苦しで効果がある分、毒になるところもあります。

例えば、銀杏の生の実にはメチルピリドキシンという毒性があります。よく銀杏の実を食べすぎると、嘔吐、下痢、呼吸困難、けいれんなどを起こすことがあるといわれます。これは一般的には「銀杏中毒」と呼ばれているものです。これはメチルピリドキシン自体がこのような症状を引き起こすのではなくこの成分がビタミンB6とよく似た構造のためビタミンB6の働きを阻害してしまうことがわかっています。そこから「ビタミンB6欠乏症」を起こして中毒になるといわれているのです。

大人でもいくら美味しいといっても一日、10粒以内にしておいた方がよいそうです。しかしついつい食べてしまいますが。。

それでは効果の方はといえば、かなりの凄さです。具体的には・エネルギー・水分
・タンパク質・脂質・βーカロテン・ビタミンB1・ビタミンB2・ナイアシン・ビタミンC・炭水化物・カルシウム・リン・鉄・カリウムと、これらが豊富に入っています。もはや健康サプリの代表のような栄養価です。

有名な効果には高血圧と動脈硬化予防があります。これはカリウムが血中内のナトリウムのバランスを整えるからです。またナトリウムを水分とともに排出し高血圧や動脈硬化の予防と改善も行います。ナトリウムは水分を引き寄せる効果がありむくみの原因にもなりますがこれもカリウムの効果でむくみを改善するといいます。

そしてビタミンB群やナイアシン・パントテン酸には疲労回復効果が有名です。ビタミンEは血行促進効果もあり疲労回復と栄養補給もできます。そして女性に嬉しい効能は美容効果があることです。この銀杏のビタミンCにはメラニンの生成を抑える効果やお肌を美しく保つ効果があります。血流もよくし冷え性改善にもなり、タンパク質は健康的な髪や爪、お肌を作るといいます。抗酸酸化作用もあるので肌荒れやニキビの予防になるといいます。そしてβーカロテンは、ターンオーバーの促進や皮膚粘膜の保護もします。

またコロナのこともあり、これからは風邪の予防にもなります。銀杏に含まれるパントテン酸は、免疫抗体を合成する効果があります。そしてこのビタミンCが免疫機能に関係する白血球の働きを活発にすることで免疫力がアップするのです。いざ風邪をひいても喉の痛みを抑えて、咳を鎮める効能もあります。

あとは、ボケ防止が有名です。銀杏の実だけでなくイチョウ葉茶は、痴呆症・認知症・記憶力低下・アルツハイマーなどに効果があるといわれます。お茶にして煎じています。ヨーロッパでは、イチョウ葉エキスが脳血管障害に著しい効果を発揮するとされていて、研究が進んでいるといいます。この成分ギンコライドは、他の植物には含まれていない、イチョウ葉特有の成分で血管拡張作用や血栓溶解作用があり、脳の血流を良くすることが確認されています。脳障害が起きる前に、イチョウ葉茶を継続的に飲むことが、認知症やボケ防止につながるといわれています。

他にもあるのですが、少し深めただけでもこの効能です。それはむかしの人たちはこの樹を大切にしたのがよくわかります。寺院にも多いのもまた、薬として人々を治癒していたからでしょう。むかしの山伏をはじめ僧侶は、医者としても人々を救ったとあります。納得するものばかりです。

今週末は銀杏拾いをしますが、その効果効能もお伝えしながら皆さんと懐かしい時間を過ごしていきたいと思います。

仙人と智慧

今朝から心地よい秋風が吹いています。今が、冬野菜の種まきの蒔き時ということになります。次第に虫の鳴き声が小さくなり、秋ナスも種をつけていきます。夏から秋に本格的に入ったという合図でもあります。

自然は素直で純粋で嘘がありません。人間と違ってそのままの表情でありのままに心を伝えてきます。私たち人間にとっては大変自然災害も、自然界では起きるべくして発生したことであり、特別なことはありません。

しかし人間は、もはや何が本当で何が本当でないかもわからないほどに刷り込まれてしまっていて素直に自然を感受することが難しくなってきています。

これからあらゆる自然災害が発生してきますし、人類の社会も先送りにしてきたあらゆる問題が噴出してきます。その一つ一つを素直に反省し、改善していくことがこれから先を生きる人間たちの生き延びる力、つまり智慧が試されていきます。

智慧は、人類が生き延びるための仕組みであり先人たちが磨き上げてきたテクノロジーとマインド、そしてフォースのようなものです。智慧を使ってここまで生き延びてきて、これからも智慧が必要になります。

自然とどう調和して生きていくか、技術をどの方向に進歩させていくか、どこまでを使いどこまでを使わないかといった分を弁える謙虚さなども必要です。しかしそれはすべて「素直」からスタートするものであり素直でなければ智慧は使えないのです。

私たちが素直を磨くためには、素直を磨くための暮らしが必要になります。何でも人間の思い通りにはならないことを学び、足るを知り自然から学び直してあらゆる直観を高めていくのです。

むかしはこのような人物を「仙人」と呼んだのかもしれません。仙人は不思議なフォースを宿していたといいます。自然に精通し、智慧を使いこなす。まさに素直さの権化ということでしょう。

私はこの年で山伏の生き方にご縁があり、聖地を甦生するご縁をいただきました。なぜ自分がこんなことに携わることになったのかを想うと、その意味の深さを実感するばかりです。

世界はこれから数十年、智慧を学び直す期間に入ります。

智慧を学び直すために志のある人々が世界中から智慧を求めて世界を巡ります。聖地巡礼です。その一つの聖地に仙人を集め、場を磨き、智慧の活用を伝道していきたいと感じています。

まだ周囲は何が起きているのか、何をやっているのかを知る由もないはずですが遠い未来を見据えて粛々と準備を進めていきたいと思います。

文化の正体

日本の現在の文化は、他国から流入してきた文化を日本で作り替えてきたものです。例えば七夕、節分、お月見にからバレンタイン、クリスマスなどもあらゆる年中行事がむかしからあるものと最近できたものも混在しているほどです。

お月見でいえば、最初のルーツはどこだったのかわかっていません。わかっているところでは縄文時代に里芋など秋の収穫として神様に感謝を籠めてお祀りしたところからではないかといわれますがその後は中国からの文化が入ってきて月餅が月見団子になり、十三夜といって2回お月見をするようになりと変化していきます。

日本人はそう考えてみると、他国の文化を融和して取り入れるということができる文化を持っているということです。それは八百万の神々の思想にあるように、私たちはすべてのいのちや文化を尊重し合うという前提の意識があるからにほかなりません。

聖徳太子の時に、和をもって貴しとすると定めてからずっと私たちの先祖たちは尊重し合うにはどうすればいいかを突き詰めてきました。本質さえ一致するのならば寛容さや許しによって認め合っていこうとしたのです。

海外にいくと、それぞれが自己主張して批判し、戦いますが日本人はディベートなどもあまり得意ではないように思います。その分、助け合いや協力などは得意な民族です。

文化というのは、その国の人たちの生き様であり生き方ですから日本という文化をよく観察するとき私たちは仲良くしていくにはどうすればいいかと突き詰めてきた文化を持っているということになります。

現在、世界は身近になり国同士の関わりもとても密接になってきています。権力闘争も、今までのアメリカ一強の状態が崩れ、中国の台頭と共にそれぞれの国々が新しい時代の経済、軍事、政治に入れ替わり新旧が入れ替わってもきています。

そんな中、気候変動をはじめ地球規模の災害が増えてきてますます人類はどのように同じ地球で暮らしを営んでいくのかを考える時機が近づいてきています。そんなに先の未来ではなく、間もなくそれも訪れます。

だからこそ私たちはどのような文化をもっている民族であるか、何が得意でどのような役割を担っていくのかを見つめ直す必要があるようにも思います。私たちの会社では一円対話を実践していますがこれもまた私たちの文化が創造した実践の一つです。

子どもたちに、日本人としての得意が世界に貢献できるように着実に実践を磨いていきたいと思います。

心の月

今日は、中秋の名月です。8年ぶりに満月と日付が一致するそうです。昨夜も深夜に窓から差し込んでくる澄み渡る光で目が覚めました。この時期の月は特に明るく感じ、夜の存在を有難く思える季節です。

稲穂の波と月明りの美しさ、またそれを見守ってきた夜の姿には懐かしさと共に神秘的な見守りを感じるからです。

もともとこの中秋の名月が美しく感じるのは秋の空気と月の適度な高さが関係しているといいます。秋は、空気が乾燥しているため澄んだ月をよりはっきりと映します。それに冬になるほどに月は空の高い位置にいます。大気の空気の塵や水蒸気も少なく、雲一つない夜空に月が一点だけあるというのもまた月を引き立たせているのでしょう。

むかしから私たちは豊穣の秋に安堵する気持ちがありました。この収穫の時に、悲喜こもごもに苦楽を味わいお祭りもありました。食べるものをみんなで協力して収穫するのに、朝早くから夜も眠れずに田畑の世話をしてきたのでしょう。

また来年も食べるものがあるという安心感が月への感謝の想いとなり、もしも食べるものがなくひもじい想いをするときにも闇夜を照らす一筋の光明とも観えたかもしれません。

この時期は、私たちの一年を振り返る大切な時機でありここから冬になり一年がまたリスタートしていきます。どのような収穫があった一年であったか、月と共にそれを感じ、また新たに澄んだ月のような心で精進していこうと発心する。

これを何百年、何千年と繰り返したのでしょう。

私の好きな言葉に「心月」があります。これは悟りを開いた心を、明月の清く澄むさまにたとえです。この秋の月を静かに眺めていると、心の中が見透かされたような心持になります。

子どもたちの心に、この清く澄む月の明かりが燈されていくように暮らしを実践していきたいと思います。