微生物を尊重する

私たちの身体は微生物に覆われています。これは言い換えれば、私たちは微生物と共生し合っている微生物の一つともいえます。不思議な話ですが、この肉体を形成している私たちの身体は微生物抜きでは生きていくこともできませんから微生物でできているのです。

地球の生命にとってこの微生物は非常に重要な役割を果たしています。

私たち人類も、ここまで生き延びてくる過程で微生物も一緒に生きてきました。体内にも古くから受け継がれてきた微生物が大量に生存していますし皮膚などにもあらゆる種類の微生物が共生しています。常在菌、顔ダニなども常に体の油脂や様々な外敵から守るために掃除をしてくれています。

そしてこの微生物は人が人と接することで交換したり、増やしたり広げたりを繰り返しているのです。まさに人類と共に歩んだグレートジャーニーです。

最近は、殺菌や除菌、滅菌とアルコール消毒ばかりをしていますがこの身体のすべてを殺菌したら人間も死んでしまいます。それに人間に善い影響を与えている微生物を取り除いてしまったら病気になったりもします。

では何もしないでは感染症はどうするのかと考えますが、極端ではなく微生物を尊重して暮らしていけばいいと思うのです。コロナウイルスの特効薬として注目されているイベルメクチンも土壌の中の微生物の働きから発見されたものです。

微生物によって感染も置きますが、微生物によって治癒しているというのは古来からの原理です。この原理に立ち返って、如何に人体にとって共生しあっている微生物たちに任せていくか、その恩恵に感謝して力を借りていくかというところに未来もまたあるように思います。

過去から今までずっと私たちを守ってきたのは微生物です。

だからこそこれからも未来に向けて一緒に共生しあっていこうとするのが子どもたちのためにも必要だと私は思います。引き続き、微生物と対話して尊重しながらともにこの時代を生き延びていきたいと思います。

文化の甦生

最近、文化財のことについて考える機会が増えてきました。ウィキペディアには「広義では、人類の文化的活動によって生み出された有形・無形の文化的所産のこと 。「文化遺産」とほぼ同義である。」、「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約 、 文化財不法輸出入等禁止条約 、文化財の不法な輸出入等の規制等に関する法律などの条約および法令において規定されている「文化財」のこと。」、「日本の文化財保護法 第2条および日本の地方公共団体の文化財保護条例において規定されている「文化財」のこと」とあります。

シンプルに言えば、人類の伝統や歴史において政治的にも学術的も希少なもので価値があり文化財と判断されるものが文化財ということになりますが文化財は見方を変えればこの世のすべてが文化財ということになります。

特に希少になってくればほぼ文化財のように扱われていくものです。大量に生産できて大量に余っているものはいくら文化財でも価値があまりないように扱われます。もしくはお金にならないもの、復元できないものもまた一つの文化財です。

この文化の「財」とは、貴重なものや価値のあるものを指します。貴重であると思えるものや価値のあるものだけが財とつきますが本当に貴重なもの、価値のあるものが何かと定義するものの違いではまったく文化財の内容も変わってくるのです。特に時代が異なれば、文化財の価値も変わっていくでしょう。それだけ変わり続けているものが文化財ということになります。

例えば、何百年も前からの古民家で歴史的な何かがあった建物であっても時代が異なれば無価値になるものもあります。平和な時代の建物と戦乱の時の建物でも価値は異なります。その時代時代に変化していくものだから、その時代に相応しい活かし方があります。その活かし方もまた文化財になる日もくるでしょう。つまり、ただ保存し、ただ時を止めてその建物を守ってもそれが文化財ではないということです。

私たちはどのようなものであっても、その時代に生き、その時代を舞台に活躍していくものです。活躍するための場としての文化があるのであり、文化が先ではありません。

何をどうするかは、その時代の価値観や人の存在、そして時の持つ出来事に左右されていきます。本質をよく観て何がもっとも大事なことなのか、そして今をどうするのかからよく議論していく必要があるのです。

子どもたちのためにも、新しい文化の甦生を取り組んでいきたいと思います。

治癒の有難さ

私は大人になってもよく怪我をするタイプで、痛い思いをすることが多いように思います。何かに没頭したり集中していると、注意力が散漫になってしまっているのかもしれません。動作の激しさなどもあり、小さい頃から落ち着きがないといわれましたがスピードが速い分、色々と雑なところもあるのかもしれません。

ただ怪我をすると痛いので「またやったか」と反省しつつも、懲りずにまた怪我をします。過ぎてしまえばまた忘れるので痛みに懲りないタイプなのかもしれません。しかしその分、自然治癒力のことなどに感謝する機会もまた多いように思います。

少し怪我のことを深めてみます。

怪我でも軽いものは時間が経つと自然に治っていきます。今月は打撲に切り傷に色々と怪我をしましたが、今ではだいぶ回復して打撲も治まり、切り傷もきれいに治ってきています。私たちは何か怪我をすると自然治癒によって身体が回復させていきます。

例えば、皮膚の損傷であれば血管が断裂するので出血をします。その損傷に反応して血液を固め止血をするために血小板が働きます。そして血小板は最近よくコロナで聞く機会が多くなったサイトカインという物資を出します。このサイトカインが、血管から白血球やマクロファージといった貪食細胞を含んだ滲出液を分泌させ傷口の細菌や汚染物質を除去してくれます。このサイトカインは主にインターロイキン類、インターフェロン類、ケモカイン、造血因子、細胞増殖因子、腫瘍壊死因子に分類され人間の体内には約800種類存在していて今でも新たな発見が続いているといいます。そして最後に皮膚はマクロファージからの細胞成長因子により線維芽細胞や表皮細胞などの組織細胞が増殖して傷を修復するのです。

こうやって私たちが気づかないうちに、身体の細胞が怪我を修復させていくのです。もちろん大怪我になると治癒が追いつかず外科手術や薬が必要になります。ただ小さな傷や打撲、病気は自然に治癒してくれるのです。

そう考えてみると、自然に体に感謝の気持ちが湧いてきます。毎日、何かしらの怪我や病気、炎症を起こしているものをきちんと修復してくれます。今の私たちが大人になってこうやって活動できるのも体の御蔭です。自然治癒は、いつも私たちを守ってくれているのです。

これは自然界でも同じで、小さな傷や怪我は治癒をしてくれています。そのことに気づき、私たちは治癒を邪魔しないような環境を創っていく必要があります。なぜなら治癒してくれるのは当たり前のことではないからです。

この有難い機会から学び、子どもたちに安心できる未来を体験から伝承していきたいと思います。

楽しい企画

納経というものがあります。これを世界大百科事典第2版によれば「書写した経巻を寺社に奉納して信仰の深さをしめし,神仏の加護や故人の冥福を祈ること。巡礼者がおこなう場合は,たとえば日本回国六十六部聖(ひじり)ならば,《法華経》六十六部(1部は8巻)を写経し,これを諸国一宮(いちのみや)に奉納して歩く。したがってこれを経聖(きようひじり)という。しかしのちにはこれを忘れて,西国三十三所観音霊場巡礼や四国八十八ヵ所観音霊場遍路のように,仏前で経巻を読誦することを納経というようになった。」とあります。

その納経の仕組みが江戸時代後半頃になって寺社に参拝をしたら納経帳に記帳押印してもらうという習慣になり、それが今の御朱印になったということです。

もともとハンコや印鑑の歴史はブログでも書きましたが、個人や組織がその当事者であることを証明する印(しるし)です。代筆などで本物かどうか見分けがつかないものも、実印であればそれが誤魔化せないということで印鑑は重宝されました。

今でも実印は非常に重要な役割を果たしていて、銀行などでもお金を管理するための手段です。納経するというのは、納経する側のことですがその納経が無事に行われたという印として御朱印が押印されたということかと思います。証明書というのは、確かにここに本人が納経したという証です。江戸時代は年に一度の旅に出て、伊勢講や冨士講などといって藩を越えての移動が許されました。本当に伊勢にいって参拝したのかという証を示すことが必要だったのかもしれません。

今の時代は、いつでもどこでも国内であれば個人の自由で旅行もできます。御朱印は、一部はスタンプラリーのように収集するのが好きな人もいますがどちらかといえばその土地の神様たちとご縁を結んだ証として使っている人も多いように思います。

真を証明するという功徳を実現できるように、ブロックチェーンを活用した仕組みを考えているとことです。コロナで閉塞感が出てきていますが心は明るく笑顔が増えるようにと願い、楽しい企画に取り組んでいきたいと思います。

徳を歓ぶ

私は以前、九州西国三十三箇所を巡ったことがあります。この「九州西国霊場」は、1280年前の和銅6年(713)に宇佐の仁聞菩薩と法蓮上人により開創されたといわれます。これは延べ1100キロの九州西国の巡礼です。

もともと第一番の札所が英彦山の霊泉寺だったこともあり、33歳の時に巡ることにしました。この霊泉寺は江戸時代中期には800の坊舎と、山伏ら僧衆3000を擁したといわれ盛んに「彦山まいり」をしたといわれます。明治の山伏禁止令で荒廃したのち、英彦山修験道の法灯を再興するために巡礼を企画されたとお聞きしています。

思い返せば、今になって英彦山にご縁が深くなっていますが名前をこの先代の住職につけていただいてから何度も英彦山の麓で遊び、学び、年数を経てご縁を段々と深くしていき今に至っていることを感じます。

まさか自分がなぜと思っていましたが、他に誰もいなことを実感するとやはり自分だったなとも思います。

徳は、自分が積ませてもらえることを謙虚に感謝していく中で磨かれていきます。つい今の時代、やることばかりでスピード社会ですから仕事のように休暇を取りたいという気持ちもつい増えていきますが本来はメリハリであり、どちらも感謝と幸福を実感できる真に豊かな時間です。

巡礼というのは、札所があります。つまり巡礼者がいて、その巡礼者の参拝 のしるしとして、 札を納め たり受け取 ったりする所のことです。

札所巡りということは、道を歩んでいく中で何度も感謝と幸福を味わえる旅をするということです。これはまさに人生の豊かな歩み方であることに気づきます。今の時代は、あっという間のスピードで味わう時間もないくらいの速度で感謝や幸福を一瞬で楽しみます。余韻もないというのは、歩くスピードも速くなっているからです。

本当は、むかしの人たちが歩んできた速度でじっくりと人生を折り重ねながら心の平安を保ち、先人たちと同じように繋がって結んでいる神々との邂逅を歓んでいくことが祈りの醍醐味なのでしょう。

子どもたちにも、その徳を味わう歓びを伝承していきたいと思います。

信仰の原点

現在、英彦山の裏街道にあたる筒野権現の甦生に取り組んでいます。私の幼い頃に探検をしに来てからのご縁でその後はちょくちょくと何かがあれば来て参拝していましたがまさかここで深いかかわりになるとは思ってもいませんでした。

もともとこの筒野権現は、五智如来碑といって寿永2年(1182)勘進僧・円朝が建立した板碑があります。ここにある三基の板碑はそれぞれに梵字が刻まれ、一番大きな碑には5体の仏像が彫られています。平安時代のころには、全国に知れ渡るほどの英彦山に次ぐ一大修験場になり多くの山伏たちがここで修行をしていたといわれます。

この板碑の五智如来は、胎蔵界大日如来を中尊とし、無量寿、天鼓雷音、宝幢、開敷華王の五仏が列坐しています。そして五智如来の上方、円形の穴は金属製の鏡がはめ込まれていたといわれています。

今度、英彦山の守静坊の甦生をしますがそこでも祭壇には必ず上部に鏡を設置すると坊主の長野覚さんにお聞きしました。むかしからの信仰のかたちが、900年以上経ってもこうやって守られていることに信仰の神髄を感じます。

そもそもこの五智如来とは何かといえば、悟りの境地を示したものです。

具体的には、「宝幢如来」は東方(胎蔵界曼荼羅画面では上方 金剛界では西方が上方)に位置し「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を顕すといいます。「開敷華王如来」は南方(画面では右方)に位置し「修行」(悟りへ向かって努力を積むこと)を顕します。「無量寿如来」は西方(画面では下方)に位置し「菩提」(悟りの実感を得ること)を顕します。そして「天鼓雷音如来」は北方(画面では左方)に位置し「涅槃」(悟りが完成すること)を顕します。中央の大日如来は「虚空」(永遠の真理)を顕します。まさに宇宙の真理、万物の慈母ともいわれあらゆるものの原点を顕します。

これは私の解釈ですが、インドにはこれらの徳のあった人物が存在していてその人徳は5つの徳で顕すことができたということです。具体的な人物像として、この如来と呼ばれる人物たちがどのような境地を会得したかということを示すように思います。

大日如来はその四徳を兼ね備えたものであり、この五徳を会得してこそ真に魂が磨け、永遠という虚空の境地に入ることができるとしたのです。修行者は、その人徳を慕い、自らの心魂を錬磨し様々な行を実践して研ぎ澄ませていったのでしょう。その信仰の中心として行場があり、多くの導師や弟子たちがともに学び合ったように思います。

そしてその五徳の境地に入るためには、その心境の反対側の深い智慧を維持している必要があります。つまりは、空の境地に海の境地の和合のように相反するものを合一し一体化する智慧が守られている状態ということです。

徳の顕現した先ほどの五智如来には、同様に五大明王といって不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王があります。不動明王こそ、大日如来の化身といわれます。

不思議なことのように思いますが、その人物に徳が顕現するいうのはその根底には畏れや信心があるということです。これは地球の内部にマグマの躍動があって、私たちはこの地上の楽園を謳歌しています。そして大海原の潮流があってこそ、空の静けさと風があります。

このように私たちは森羅万象を通してこの世に徳を顕現する姿として人体もまた存在しているのです。徳を磨き、徳を顕現させていくことは、人類数千年の悲願でもあり、理想郷の一つです。

子どもたちのためにも、かつての信仰の原点を甦生させ未来へと結んでいきたいと思います。

健康で長生きするための智慧

先日から酪酸菌のことを書いていますが、この酪酸菌はウィズコロナには欠かせない微生物であるのは間違いありません。戦前に日本人にはほとんどアレルギーがなかったといいます。それは食物繊維をたくさん摂取していたからだともいわれます。

つまり酪酸菌の餌は、その食物繊維であり食物繊維を多く食べていればそれだけ酪酸菌も元氣になるというものです。日本人の伝統的な食事の智慧にぬか漬けがあります。このぬか漬けこそ、酪酸菌を元気に増やし代謝を高める効果があります。私たちが腸から大事な栄養素を取り込むのにこの酪酸菌が多くの役目を果たしています。

具体的には(鶴見隆史著「酵素」の謎)にこうあります。

酢酸、プロピオン酸、酪酸の短鎖脂肪酸は水溶性の食物繊維や糖質の発酵で生じる物質で、その働きが人間の免疫力を上昇させたり、健康を向上・維持させるうえでたいへん重要ということで、最近大きな注目を集めてきています。酢酸は、脂肪合成材料です。プロピオン酸は、肝臓における糖新生の材料として使われています。酪酸は、大腸の主要部分の栄養素となります。これらは、95パーセントは大腸粘膜から吸収され、すべての消化管と全身の臓器の粘膜上皮細胞の形成と増殖を担い、粘液を分泌させる働きをしています。 胃液も腸液も膵液も胆汁もすべて短鎖脂肪酸がつくっており、大腸粘膜など100パーセント、短鎖脂肪酸をエネルギー源としています。 この短鎖脂肪酸の一番の材料は、熟した果物、わかめ、昆布などに含まれる水溶性食物繊維です。 穀物、大豆、きのこに含まれる不溶性の食物繊維も材料になります。 ほかには黒酢、酢、梅干し、ピクルス、酢の物、ラッキョウ、漬物、キムチなどの発酵食品も短鎖脂肪酸の材料になります。」

つまり私たちの腸ではこの食物繊維を分解するという機能が備わっていて、長い年月をかけて食べてきた食生活に対して微生物と共生する関係を結んできたともいえます。その長い関係を結んできた微生物が私たちの身体を病気から守り健康にしていますから、いくら時代が変わってもその微生物たちがいつまでも共生してくれるように食生活を保つ必要があります。

例えば、もしも宇宙に人間がいってどこかの星で生活したとしても腸内の微生物たちは今までと同じような食事が必要になります。食物繊維のないものばかりを食べてしまえば腸内環境が崩れてしまい共生が維持できず健康が維持できません。

私たちは人間だけで生きているわけではなく、様々なものに「生かされている」のですから微生物に生かされている私たちは微生物を生かす役割を持っているのです。そうやって全体循環の中でいのちはめぐりますから、好循環を維持するためにも何が好循環を保つのかを私たちは知っている必要があるのです。

子どもたちのためにも、健康で長生きできる智慧を伝承しつつ古来からの体内の微生物たちがいつまでも一緒に健康で長生きできるように暮らしフルネスの中で実践していきたいと思います。

本物の科学

私たちは今あるものをもう一度、科学で突き詰めていますが本来はそれは発見であって発明ではありません。私たちが発明したと思っているものは、すべてが既存にあるものの発見であって発明ではないのです。その証拠に私たちはいのちは科学でつくれませんが、いのちがどのように成り立つのかは発見することができます。

自然界、いや宇宙の真理というものを理解しても宇宙を創り出すことはできないということです。この道理に従っていえば、果たして今の科学的な進化は本当の進化であるのかと疑問を感じます。

道理から少し発見したものを、それをいじっては利用することでその部分は抜き出しても全体としては効果が失われていくものがあります。例えば、栄養なども同じですが一物全体で本来は過不足なくバランスよく心身の滋養になるものを一部だけ抜きっとサプリにしたらかえって全体の滋養が崩れてしまうという具合です。

私たちのわからない範囲にまで影響のあるものを、その一部だけを切り取って完璧であると思い込むところに人類の大きなミスが発生しているように感じます。本当の化学は、解明するよりも発見してその偉大さをそのまま活かすことではないかと思います。

むかしの人たちが、自然をそのまま活かすことを選択したように私たちも本当の意味で科学の真理に達して本来の活用へと原点回帰する必要があるように思います。例えばその活用の例は、漬物、天日干し、自然循環などの智慧も同様です。

これらの仕組みはまさに自然や宇宙の仕組みを活かしています。他にも、祈りの力や徳を積むことなども同様にこれは智慧の活用です。

自然に調和するようにと自然界は働きますからそれを邪魔しない、もしくはその循環を促進するようなものが活用であり本物の科学なのです。今の時代は、科学はわかる範囲だけを科学にしてしまい、活用も全体快適の方法ではなく部分最適ばかりで使われます。

人類がアップデートするというのは、原点回帰するということです。地球環境の変化が著しい今だからこそ、子どもたちのために勇気をもって舵取りをしていきたいと思います。

根源は免疫、原点回帰

私たちの身体には、免疫というものがあります。これは病原体・ウイルス・細菌などの異物が体に入り込んだ時にそれを発見し体から取り除いてくれるという仕組みのことです。そしてこの免疫には自然免疫と獲得免疫というものがあります。

まず自然免疫は、生まれつき体内に備わっている免疫の仕組みで元々古来から存在する機能です。これは発見した異物を排除する仕組みです。有名なものに好中球と、NK細胞、マクロファージがあります。このどれも、外部からのものをキャッチして食べて無効化していきます。

そしてもう一つの獲得免疫は、人生で病原体と接触した際に再び感染しても発病しないようにする仕組みのことです。この獲得免疫は、侵入した異物を排除するだけでなく記憶細胞という特殊な機能をもつ細胞に変化し記憶しています。そうすることで、いち早く発見し感染が進む前にキャッチして食べてしまうのです。T細胞とB細胞が有名です。

インフルエンザで例えると、ウイルスが口や鼻、喉、気管支、肺などに感染した場合はまず自然免疫のNK細胞とマクロファージ、樹状細胞などがウイルスをキャッチして食べて駆除しはじめます。そしてそれでも駆除できない場合は、B細胞、キラーT細胞という獲得免疫が今度は活動を始めます。具体的にはB細胞は抗体を作り、その抗体はウイルスにくっついて他の細胞に感染できなくなるといいます。

そうやって私たちの身体は自然免疫と獲得免疫の合わせ技で撃退してくれていたのです。無症状の人がいるというのは、この免疫系が働き無害化させているからということになります。免疫がきちんと働いているのなら、外部からの異物は正しくキャッチされ、駆除され記憶され、ずっと身体を守り続けてくれるのです。

これからコロナウイルスも様々な変異株が誕生してきますし、その都度、ワクチンを開発して対応ではいたちごっこです。私たちの身体は大量のウイルスに日々に晒されていますからやはり今まで生き残ってきた力を磨いていくのが一番です。

その方法は、食生活、運動、睡眠、精神や心の安静、という基本、また体質改善、生活習慣の見直しでできるはずです。つまり暮らしを整えていくのです。暮らしフルネス™は、これらのことを実践するためにも欠かせない智慧の仕組みです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしを見直して伝承していきたいと思います。

天の蔵に徳を積む

むかしから「天の蔵に徳を積む」という考え方が日本にはあります。これは善行をして見返りを求めず、与えたものを後悔せず、自分が徳を積む機会をいただいたことに感謝をするという生き方でもあります。キリスト教にも、同様に「天に宝を積む」という考え方があるといいます。

古今、真理というものは経験を通して永遠の智慧として子孫に伝承しています。現代は、通常の銀行の貯金や金銭的な貯蓄の方は目に見えてわかりますが天の蔵といった天の銀行に徳が貯蓄されていくことはなかなか考えないものです。

本来、私たちが今幸福を味わえるのは天の蔵に貯蓄されたものが引き出されているという考え方もできます。例えば、短期的に積んだ善行ですぐに幸福を引き出すということもできますが長期的であればあるほどにその積んだ善行は利子がついて大きくなってきます。これは「積まれる」という性質の本体、別の表現では「磨かれて光る」という道理があるからです。つまり幸福を味わい引き出していくというのは、積むことで引き出すという喜びに出会うということです。

いのちが光り輝くというものもまた、いのちを使って自分を磨いていくことで得られます。研磨していくなかで次第にその本体が透明で光っていくことで、私たちは偉大な幸福感を味わっていくことができます。金銭で形だけ光らせたのと、自らが光ってくるのでは世界の観え方が変わっていきます。自分のいのちの磨き方一つで、この世は美しい楽園にもなり地獄にもなるからです。

先人たちは、徳を積むということを何よりも大切に生きてきました。今の私たちの、また日本の幸福はその徳を積んできた貯金を引き出してこれだけの物質的な豊かさを得たのです。しかしその天の蔵の徳は、いつまでもあるわけではなく減るのです。それは古いものを磨かなければくすんでくるように、鏡や窓が汚れて向こうが見えなくなるように穢れていくのです。それを取り払い続ける、洗い清め続けるような気持で私たちは徳を積み続けなければなりません。

陰徳は、徳を積む機会をいただけたことだけで感謝するものです。人はなかなか探しても身近にそんな徳を積む機会を得られるご縁は滅多にありません。特に陰徳ほどのものになれば誰にも見つからずに評価されないところでできるものなどさらに機会は得難いものです。誰かの目に見えた時にはすでにそれ以前の長い時間の陰徳が貯まり引き出されている最中だからです。

先祖が長い時間をかけて天の蔵に貯蓄したものは、子孫が長い時間をかけて幸福として引き出されていきます。自分の代で使い切ってしまわないように、子どもたちのためにまた徳を積み続けていくことが幸福が長続きしていく人類の叡智だと思います。

天の蔵に徳を積む実践を、真摯に取り組んでいきたいと思います。