お手入れの思想

現実というものを直視できるというのは素直であることでより磨かれていくように思います。きっとこうだろうと決めつけるのではなく、きっと自分に何かわからないことがあったのだろうと聴く心を持っている方が素直になっていくからです。

この素直の力というものは、思い込みを外す力であるように私は思います。

人は何かの考えに縛られ執着をすると、その考えに固執してしまいます。すると、この固執した考えが邪魔をして現実を隠したい歪めたりしていくものです。これを価値観という言い方もしますが、その価値観を転換する方法は私は「聴く」ことであると信じています。

少し詳しく説明すると、人間は素直に聴くことができるのなら物事はすべて福に転じていくことができます。古い諺にある「禍転じて福になる」のです。

つまり聴くことで福になる、そして本来、人とはそういう存在である。

これを私は「聴福人」(ききふくじん)と名付けています。これは七福神(しちふくじん)に因んでそう呼んでいます。私は人生でこの聴福人の誓いを立てて、その人物を育てるために一円対話(いちえんたいわ)という方法を編み出しました。これは、二宮尊徳の一円観(いちえんかん)から命名したものです。

一円観は、善や悪など世の中のありとあらゆる対立するものをひとつの円の中に入れて観るというものの見方です。シンプルに言えば、もともとこの世は表裏一体。自分の思い込みが相手をそうさせ、自分の決めつけがその反対を生み出すということです。そもそもが混然一体になった丸ごと一つの団子のようなものだと思えば対比することもなく、素直に物事を観ることができるということです。

つまり許すとか許さないとか、正しいとか間違っているとか、いちいち対比して比較して物事を観るのではなくあるがままで丸ごと観るということ。素直に現実を観るということです。

人は何かを考えるとき、自分にとってどうか、相手にとってどうかと縛られます。これが価値観を持っているということです。その価値観を転換するというのは、その自他を最初から一体にしてしまうこと。しかしこれを文字で書いても、やっぱりまた我が入り対比してしまうでしょう。だからみんなわからないで苦しむのです。

なので実践してみて私が気づいた境地は「聴く」ことが解決するうえで王道であり智慧だと私は思うのです。この聴くは、頭で聞くのとは違います。耳に徳の字が合わさった文字です。つまり心の耳、心のすべてで傾聴するということです。

例えば実践となると、「きっと何か自分にもわからないような重要な理由があるのだろうやきっと何か大事な意味があるのだろう」と自分から決めつけないための努力をしているのに似ています。刷り込まれないように眼鏡を吹き続けたり、心を清めつづけていくのです。

日々の塵や埃のように、何もしなければそれは溜まっていきます。掃除をして綺麗にして磨いていないとすぐに汚れていきます。汚れたままでは、元の状態もわかりません。なので、暮らしをととのえて磨く必要があると私は思うのです。

私が暮らしだというのは、これは日々の実践でしか解決するしかないと確信しているからです。いくらいい人や聖人、周囲から偉人と呼ばれている人であってもそんな称号があっても何の解決もしません。どんな人でも、それば仏陀でも孔子でもキリストでも地球に住んで肉体を持っている以上、お手入れし続けているのです。

それが修行ということでしょう。

この世に生まれてきて最期の日を迎えるその日まで、私たちは自分で穢れを祓い清めて洗い流してお手入れしていくのが生きる醍醐味です。私が取り組むお手入れの思想、暮らしフルネスの実践を皆さんにお話しする機会に恵まれたことに感謝しています。