人の一生には自然と同様に四季があるといいます。これは吉田松陰の遺書「留魂録」の中であり大河ドラマでも現代語で分かりやすいようにして紹介されました。そこにはこうあります。

「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄える。ひとにも同じように四季があります。ひとの命とは歳月の長さではない。それぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。私は30歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。どうか一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」

これは人の寿命のことです。50歳で亡くなる人、10歳で亡くなる人、90歳で亡くなる人、20歳で亡くなる人がいます。そのどの人にも寿命があり、そこには春夏秋冬という人生のめぐりがあるというのです。

そして松陰は、人生で大切なの寿命の長さでないというのです。例えば、100歳まで生きている人がよくて10歳で亡くなる人はよくないではないというのです。通常は短い人生でと嘆きたくなります。吉田松陰も数え30歳で亡くなっています。しかしその中でも人生の循環があったといい、魂は春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄えることをやったというのです。そして収穫をして次の春の種となったというのです。

これはどういう意味か、それぞれに解釈はあると思います。

私は、もともと魂というものはこの世に身体を借りて顕現しているという見方を持っています。私たちは身体を借りて生活することで様々な体験を通して魂を磨いて光らせていきます。目的があるのではなく、まさにこの四時ノ循環をしている途上ということです。

その中で、一つの実をつけては次の種になっていく。繰り返し何千年も何万年も前から私たちはそのいのちのめぐりの繰り返しを続けて今に存在しています。これは普遍的な事実であり、農に関わる人なら種まきをして収穫をしまた種まきをすることを毎年繰り返しているのがわかります。

この世に生まれ出でてもっとも重要なのはそれを体験して全うすることだと私は思うのです。

しかしその周囲に生きる人は、その人ともっと長く過ごしたかったし別れがとても辛く寂しく感じます。その人が種として未来にまた次の場所で収穫をするのがわかっていても、目の前からいなくなる喪失感は大きいからです。

残されたものはその人の分まで、その人がやりたかったことを継いでいくことでその人と一緒にこの世にいる感覚を得られます。自分自身の与えられた天命や物語が続いているならまだ私たちも四時ノ循環の最中であり途上です。

その種を蒔くのは私たち残されたものです。

その人の分までよりよく生きて、自分も次の種になれますようにと祈りながら歩んでいきたいと思います。心からご冥福をお祈りしています。