暮らしフルネスの実践

現在、気候変動をはじめ環境問題は待ったなしで人類に大きな影響を与えています。もともとこのままでは環境破壊が自然の回復スピードを超えてしまうということはずっといわれ続けてきたことです。

言われはじめてからも人類の多くは聴き入れず、今のような時代にまで入ってきました。環境問題は人間の問題であるとはわかっていながらも具体的な解決策を外へ外へと求めては自分自身を変えようとは人間はなかなかしないものです。

それは自分一人が変わっても世界が変わらないと思っているからかもしれません。しかしそれは現象や物体に対しての影響のところだけで、実際には人間の意識や価値観、一人一人の中の変化がなければ最終的に世界が変わることもないのです。

一人一人の変化というのは、話を聞いて頭で理解しただけでわかるわけではありません。それはわかったという気にはなりますが、具体的な暮らしや生き方が変わっていかなければ結局は真の意味でわかることはないのです。

真の意味で自分が変わることが世界が変わることなのかと気づき理解するとき、人は自分自身のそれまでの人生を向き合う必要がでてきます。それは今まで自分が何をやってきたのか、いったい何を学んできたのかという大きな労苦との矛盾に出会います。人間はそれだけしてきた苦労を簡単に捨てることはありません。今更手放すことはとても大変なことなのです。なので人間は理解を線引きしとどめ、そこからの深い学びを止めてしまうように思うのです。人間が学びを止めるから、世界の変化もそこまでで止まってしまいます。これはとても悲しく残念なことです。そしてこれが環境問題がいつまでも真の意味で解決に向かわない根本原因でもあるように私は思います。

人間がその問題に素直に対応するためには、具体的な生き方や実践をみんなで一緒に取り組んでいく必要があります。そうやって今度は、意識をみんなで変化させていくのです。そのためにも学びを止めるわけにはいきません。

私が暮らしフルネスを提唱したのは、足るを知る暮らし、心が満ち足りた生き方をすることの実践が環境問題も解決すると確信したからです。人間が真の意味で心豊かであるのなら、この世の環境問題は発生しないことに気づいたからです。

人間が変わるということ、これ以外に世界が変わることはありません。そしてそれは誰かのせいにしたら永遠に変わりません。すべての環境問題が一人一人の意識の改革にあると気づき、具体的な暮らしを変えたときだけこの人類の文明は真の意味で平和に向かって転換するのです。

子どもたちの平和な未来のために、諦めずに暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。

宿坊の生まれ変わり

昨日、加持祈祷のお話をお伺いする機会がありました。この加持祈祷は、私たちがイメージするのは仏教寺院で行われる護摩焚きなどが多いように思います。この加持は一説によれば空海が1200年前に実践伝道したものとも言われています。

ウィキペディアには「加持」とはadhisthanaの訳で手印・真言呪・観想などの方法で加護を衆生に与えること、「祈祷」とは呪文を唱えて神仏に祈ることを意味する。従って、本来は祈祷は加持を得るための手段の1つに過ぎないが、混同されて用いられることが多い。」

とあります。

空海の著書の中で「加持」についてこうあります。

「加持とは大日如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。すなわち、仏の慈悲の心は常に衆生に注がれているが、そのことを「加」と言い、信心深い人がその仏の慈悲の心をよく感じ取ることができることを「持」と言う。しかし私たちの心は、欲望・嫉妬心・間違った考え方(邪見)に覆われて、仏の慈悲心に気付かない。何も仏に限ったことではない。他人の優しい気持ちに気付かず、我儘な振る舞いをして、後で自分自身の至らなさに後悔する。」

これを「お加持」と呼ばれる人もいるそうですが、仏の心を感受するという意味でしょう。自分の心の中の様々な雑念や想念、穢れなどを取り払い、本来の仏の心に気づかせるというのがお加持ということかもしれません。

それに祈祷がついてきます。つまり加持=祈祷であり、空海のいう祈りとはまさに加持のことを言ったのでしょう。

私たちは如何に自分以外の存在を引き出していくか、観えない天地の力やカミガミと呼ばれる自然の偉大な影響力をお借りするか、そういうものに奇跡を見出してきました。

天地自然の災害も、祈祷によって治めることができたというのはそれだけ謙虚に人間のみの我欲を優先しないで共生しあって取り組めたということかもしれません。

例えば、待っていれば雨が降るといっても待てませんし晴れるとわかっていても曇っていたら文句を言う人もいます。人間は思い通りにならないことで苦しみますが、本来はそれは自然界ではすべて意味があるもので真心や至誠そのものの姿でもあります。

この加という字で似たものに「ご加護」という言葉もあります。

これは神の力添えというものです。

今、宿坊の甦生をしていますがいつも天候や人々に恵まれ、材料やタイミング、出会う人に恵まれ、恵みのシャワーが降り注いでています。まさに神様の力添えを感じることばかりです。

引き続き、この「お加持」を深めて宿坊の生まれ変わりを見届けたいと思います。

心の器

器の大きな人がいます。この器というのは、何を器に載せるのかということでもあります。物理的に、巨大な器をつくってもそこに何を載せるかでまたその器の存在が変わってきます。つまり器というものは、その人そのものがもっている容量でもあります。

器の容量が物理的に小さければ載せることはできません。大は小を兼ねるものです。だからといって器が小さいことがよくないことはまったくありません。私の身近にある一輪挿しも、また小さなお皿もとても小さくて美しいものを載せることができます。

つまり言い換えるのなら、器の質そのものが器の本来の定義ということでしょう。

どんな人間であるかが、その器を示すということです。人間の器の大きい人というのは寛大であり人の善いところを観て、自分に責任を持ち、周囲を思いやることを忘れない人物ともいえます。

心が広い人、心が美しい人、心が綺麗な人、心が豊かな人には私はいつも器の質を感じます。人間は、器をどう磨いていくかでその載せれるものが変わってきます。載せようとしているものが神聖であればあるほどに、その器もまた深く透明に磨かれていくからです。

だからこそ器を磨くというのは、心を磨いていくことです。器が大きい人とは、心の大きい人ということです。

器とはつまり、心の器ということなのでしょう。

心を高めることで器を高め、心を磨くことで器を磨く。人は一生、この自分自身の器に責任をもって生きていく必要があります。それはこの一生に一度の人生に、自分が主人公として最期までやり遂げる存在でもあるからです。

器の大きな人とお会いするのは、仕合せです。

また再会を心から楽しみにしています。

一期一会の味わい

聴福庵で秋から冬の風情を楽しんでいると、色々な発見があります。もう5年目になりますが、毎年、味わい方が変化し豊かさが増していきます。暮らしが豊かになっていくというのは、当たり前の日々が味わい深いものになっていくということです。

遠方より朋来るまた楽しからずやという論語の言葉もあります。

コロナで出張もほとんどできず、家で過ごすことが増えましたがその分、たくさんの友人や同志たちが集まってきました。あらゆるジャンルのお仕事をしている人たちが来ては、あらゆるお話をしてくれます。

その中でもお酒を酌み交わし、石風呂を共にし、共に就寝し、共に暮らしを磨き合う関係はとてもかけがえのないものです。

素のままの姿で接していると、その人の本当の人柄が観えてきます。子どもに戻った時のように、みんな素直でいい人ばかりです。人間は、色々な立場や肩書などを背負って社会では頑張っている人が多いのですが素で人間同士で語り合う場があることは豊かな人生にとっても重要なことだと私は感じます。

そしてその豊かさは、豊かさに生きる人たちの傍にこそ存在するものです。

本当は何のために生きるのか、自分の存在とはどういうものかを日々に確かめてゆとりや余裕をもって確認していくことで仕合せを感じて暮らしを紡いでいくのが人間の素晴らしさでもあります。

忙しすぎる日々というのは、如何にもったいないことをしているのだろうかとも感じます。どんな瞬間瞬間であっても、人が人と結ばれ何かを分かち合えるというのは一期一会の味わいです。

子どもたちに真の豊かさをつないでいくためにも一期一会を楽しみながら、出会いと暮らしを結んでいきたいと思います。

 

薬草の原点回帰

日本の神話には、大国主が薬草を用いて病や怪我を治癒するという話が出てきます。縄文時代の遺跡からも薬草が出てきますから、太古のむかしから私たちは植物を用いて治療をしてきた歴史があることがわかります。

歴史の中で特に私が印象に残っているのは鑑真和上です。

この鑑真和上は688年に中国の唐で生まれ763年に日本で亡くなりました。

そもそもこの鑑真和上が日本に来ることになった理由は、その当時の日本では修行もせず戒律も守らない名ばかり僧侶が増え社会秩序が乱れていたといいます。それに困っていた朝廷は、仏教制度を本来のあるべき姿に整備しようと日本人僧侶(栄叡、普照)を唐に派遣して日本の仏教を正しい道へ導いてくれる人材を探しにいかせました。そして授戒制度を伝えることで日本の仏教の発展に大切な役割を果たしたのです。

この授戒制度は、今でいう資格や免許のことです。

話を薬草に戻しますが、この鑑真和上は平安貴族の文化になった香合というお香を調合する技術を伝え、漢方薬を伝えたのも鑑真です。鑑真が日本へ渡航してきた際の積荷リストには複数のお香や漢方薬などの記載があります。

鑑真は薬にとても詳しい医僧で仏教だけでなく日本の医療進歩に大きく貢献したといいます。目は失明していましたがあらゆる薬を嗅ぎ分けて鑑別することができました。聖武天皇の夫人であった光明皇后の病気を治したこともあり、大僧正の位を授けられました。奈良の正倉院には、その当時の薬の一部が、いまも大切に保管されているといいます。

以前、ある方にその唐招提寺を建立する際、どの場所にするかで土を食べて判断していたということを聴いたことがあります。土の状態でいい土地かどうかを判断する。 目が観えなくてもあらゆる五感を活かして情報を得ていることにも感銘を受けました。

有名な鑑真和上像というものがあります。

もう1300年も前のものでも、今でも生きているかのような木造です。仏教の理想の生き方をした人、仏教の生き様の理想像を持っていた立派な人物であったから人々が慕ったのでしょう。単なる資格や免許を発行する人ではなく、本来の在り方、どうあることが仏教の本義であるかをその人の生き方や実践で当時の日本人を導いたのでしょう。

医療もまた、原点回帰するときが近づいているように私は感じます。対処療法だけを進歩させて最新医療だとしそれに頼るのは本末転倒だと感じています。子どもたちのためにも暮らしフルネスの中で、本物の医療をこれから極めていきたいと思います。

未病の智慧

英彦山の宿坊の甦生に取り組む中で、英彦山への理解が深まってきて仕合せな時間を過ごしています。特に夕暮れ時の英彦山から眺める美しい山々の端や山際にうっとりします。

一人、沈む太陽に法螺貝を立てていたらそれに呼応してどこからか応答の法螺貝が聴こえてきます。一つ、二つと、まだ英彦山には法螺貝を立てる方々が棲んでおられ共に山や谷にその音を響かせています。

懐かしい時間が穏やかに過ぎていく瞬間です。

静かな山では、法螺貝を吹くと谷間の方に音が引き寄せられそこから音が重なりあって呼応してきます。その音の響き方で、谷があることがわかります。むかしの山伏たちは、法螺貝で山の立体まで捉えていたという話もあります。山で研ぎ澄まされた生活をしていると、人間の感覚が開いていくのかもしれません。自然や山を深く愛し、そして尊敬していたからこそ自然の智慧を授かったのでしょう。英彦山に佇むと、その懐かしい暮らしや山伏たちの澄んだ真心を直観します。

そして修験者の先達の数々の神通力や護摩祈祷によって、自然回帰し心身が回復した人が多かったことが歴史からも証明されていてこれは現代人の未病にはとても重要な意味を持っているように思います。

そもそもこの英彦山は、仙人の仙道が栄えた場所で不老不死の伝説がたくさん残っています。その証拠に、不老園という秘薬が伝承されていたりもします。

現代は、西洋の科学的に薬草から抽出された白い薬がほとんで治療薬にしていますが副作用も強く、耐性ができたりと、根源的な治療にはならないことで薬も見直されつつもあります。根本や根源の病気の原因が取り除かれないのに薬だけを投与していても回復しません。

そういう意味では、未病といって病気にならない生き方や暮らし方を教え、そして薬草や護摩祈祷や、独特な気脈を整えるよう術などで治癒した方が人間は真の意味で恢復していったのでしょう。

改めて、その伝統的な医療を見直し、温故知新していく必要性も最近は感じています。心と体のバランスをどう整えていくか、それは末永く健康で生きていくための人間の大切な智慧です。

子どもたちにもこの智慧が伝承できるように、色々と挑戦していきたいと思います。

暮らしフルネスの夢

言葉というのはその物事を分析するのにはとても便利な道具です。それが何と何でできているのかということを科学的に証明するのも言葉で分析します。しかし言葉で分析できるものというのは、分析できるものだけです。分析できないものは、そのものを直接見せるしかありません。それが言葉の限界でもあります。

私は聴福庵の主人ですが、聴福庵のことを伝えるときはもちろん文章や言葉を用います。しかし説明したとしても、言葉で分析したとしても実際には現地に来て直接見せて感じてもらわないと理解することができません。つまり分析できる範囲ではない何かがあるのです。

それは例えば、偉大すぎるものだからというものがあります。あまりにも大きいものは言葉で説明できません。宇宙が説明できないのと同じです。もう一つは、一体になっているものも説明できません。この地球という存在そのものがなぜ存在するのかが証明できないのと同じです。

つまりあまりにも偉大なもの、あまりにも一体になっているものには言葉は通じないということです。

このブログは、私は自己整理と自己内省で綴っています。何か日々に気づいたこと、地を低く歩んでいくなかで観えてくる天の高さを知ろうと学問を実践しています。しかし、いつも文章では説明できないところを実感し、そのギリギリのところを書いています。

それに今ある言葉、私が習ってきた言葉でしか解釈できずどうしても抽象的になるのです。それでも書き続けるのは、それを伝えよう、道を歩もうとするからであろうとも思います。

私は炭が好きで、よく炭を使い何かをしますが水と火とが一体になったところの不思議さや好奇心はいつまでもなくなることがありません。それは火が水でもあり、水が火になるからです。こんな具合に文字で書くと意味不明です。しかし、それを私が取り組んでいる道具や場で感じてもらうとその意味が伝わります。

私はどうやら、そもそもが分かれていないものばかりが実感できるようでそれが今の変な取り組みのように思われてしまう由縁であろうと思います。わからないものがあると信じる世界というのは、実はとても豊かなものです。それに今まで知らなかった世界が急に広がりまだ私たちが知っている世界があまりにも小さいことを理解するのです。

子どもたちはひょっとすると、生まれながらにこの私が観えているような世界を知っているしそこに生きています。言葉の教育によって、人間の加工した社会に閉じ込めていきますが言語を習得するまえにこそ本来は原理原則は伝道する必要があると思っています。

暮らしフルネスはそういう思いから誕生したものです。

子どもたちの未来が、より豊かに幸福になるように挑戦していきたいと思います。

楽観性の意味

人は楽観的な方が物事がスムーズに進むことが多いように思います。なんとかなると思って人は、いいアイデアもうまく繋がり思った以上の成果が入ってくるからです。なんとかなるというものではなく、なんとかしなければでは心のゆとりや余裕も異なります。

この楽観性というものの中には、信じるという側面があることに気づきます。つまり信じている状態で行動するのと、不信で行動するのでは視野の広さも変わってくるように思います。

そもそも考えてみると、人間には現実としてどうにかなることとどうにかならないことがあります。小さな自分の能力ではどうにも解決できないことがほとんどで、例えば仕事であってもその大部分は周囲の御蔭様や力を貸してくださった方々によって実現します。

自分がやったように見えていても実際は、多くの人々の力をお借りしてやらせてもらっただけです。それは歌手であろうがスポーツ選手であろうが、有名人であろうがその周囲の裏方や大勢の方々の力が合わさって実現したものです。

そう考えれば、自分だけではできないと諦めてしまえばかえって多くの方々への信頼や尊敬、また感謝も生まれるのです。そこまでのことが観えているのかというところに、人間の楽観性があるように思います。

私も自分の能力を超えたことをさせていただくことが多々あります。つい周囲は私がやったかのように評価しますし、周囲の依頼から私が一人でなんとかしなければならないような環境に引き込まれたりもします。もちろん、真摯に真心を持って取り組みますがそれは決して一人でできることではありません。

現在、世界のことや日本のこと、未来から逆算して子どもたちに譲りたい社会、そして信仰や伝統文化の甦生などに取り組みますがそれは私は尽力しますがあくまで天にお任せして進めているものです。何か偉大な存在、見守ってくださっているすべて、また神さまのような繋がり続けているものの遺志や祈りの力にお任せする。自分自身は、その力が発揮されるような環境をととのえていくだけです。

天にお任せというのは、運任せでもあり何か投げ出しているようにもみえるものです。しかしそうではなく、全体の大きな流れに身をゆだねながらも自分の分は誠心誠意に取り組むという覚悟でもあります。

そういう生き方をしている人は、全託している楽観性があり信じながら取り組んでいるから偉大な力を引き出したりお借りすることができるように私は思います。今の時代の教育は、なんでも一人で背負い、自分の力だけで頑張るようなことばかりをさせられてきます。それに能力を発揮して、役に立てば評価され褒められています。自分のあるがままの存在を受け容れられないでいるとこの楽観性は育たないようにも感じます。

子どもたちが安心して天命や立命を生きられるように、私自身の取り組みのプロセスで勇気になっていきたいと思います。

自分への御褒美

生きていると小さな頑張りというものがたくさんあります。何かをしようとしようがしていまいがこの世に生きているというのはそれだけで頑張っているともいえます。

肉体であれば心臓が活動し、体温をあげ呼吸をし、血液を循環させています。毎日、老化していきますがそれは頑張った歴史ともいえます。皺が増え、色々な機能が減退していきます。それも一つ一つ、知らず知らずに頑張ってきたからでしょう。

この当たり前ではないことを忘れるほどに私たちは日常を酷使していくものです。これでもかと足りない方をみては、何かと比べられ自分らしくいることができなくなったりもします。これは幼い頃から教育の影響が大きいと思っています。人は自分というものを労われないと他の人を労わることができません。

そういう私も、つい忙しくなると労わることを忘れてしまいます。すると身体を壊したり、周囲への思いやりが出て来なかったり、物を粗末にしたりと疲れてしまいます。疲れは労いのメッセージでもあり、お疲れ様というのは頑張っている自分自身へのご褒美でもあります。

この褒美の字を調べてみるとこの「褒める(ほめる・ホウ)」という字は、「衣」という字を上下に分けてその間に「保つ」という字を書きます。この「保つ」という字は、大人と子どもが寄り添う様をあらわします。保育の字も、子どもに寄り添い見守る姿がそのまま感じになったものです。つまりにんべんが大人の姿で、「口」の下に「木」と書く部分は赤子がおむつをする様。それに「衣」で包み込みふくらんでいる様子が褒めるです。抱きしめたり、おんぶしたりする様子が想像できます。

そこからこの褒めるという字が「ゆるやか、広い」となり、「素晴らしいことや、よいことを賞賛しほめる」という意味をもつようになったといいます。そこに美しいがついて「褒美」になります。さらに有難いものとして「ご」が入り、ご褒美になるのです。

私は子どもに関わる仕事をしていますが、今更ながらご褒美にこういう意味があることをあまり関心を持っていませんでした。しかしよく考えてみると、子どもが素直に育つのにこのご褒美はとても大切なことだと感じます。現在、問題になっている自己肯定感が持てない問題もまたこの褒美や労うことがなくなってきたからでしょう。

見返りを求めることはよくないと教え込まれてきましたが、報いることは大切なことだと感じるのです。今の私たちの暮らしも、多くの労苦があって存在しています。それを労い、労わり、お互いに報い合うことは自分の存在そのものへの感謝の時間でもあります。

今は、頑張りすぎている人が多く、周囲の評価やスピードで疲れている人が増えています。疲れることがよくないのではなく、疲れるほどに頑張っている人たちを労わらないことが問題だと感じるのです。

これは日本の社会全体で発生している閉塞感の根本的な原因だとも感じています。報恩や報徳というのは、一方的に自己犠牲をすることではなく自己感謝をすることではないかと感じます。

自分という存在に感謝する、自分を褒めること。つまり自分への御褒美を与えることは、見返りではなく恩送りであり恩返しでもあり徳積みそのものです。

色々と学び直して、同じように頑張りすぎている人が疲れすぎて孤独にならないように労いと褒美と感謝を実践していきたいと思います。

体験の質

人はどのような体験をしてきたかで、その人生の質が変化するものです。また同時にその体験をどの意識でしてきたかでさらにその深みも変化します。そして振り返りがどれだけ濃かったかでその体験の意味付けや価値も変化してきます。

つまり同じ人で同じ体験をしても、その体験の質は全く異なるということです。

問題意識や危機感、そして志が高い人や死生観を持っている人ほどにその体験の質は異なるということです。

求道者という人がいます。

これは一般的には真理や悟りを求めて修行をする人のことをいいます。またこの修行は、宗教のような修行だけでなくその道の一流を目指す人にもいわれる言葉です。

この求道者は、常に体験を磨き上げてさらなる高みや深みへと邁進していきます。勉強するなといっても勉強しますし、四六時中同じことだけを考え続けています。そして体験をしたらその体験から何かを感得するのです。

場数が増えればふれるほどに前回よりも何かを掴んでいく。それはまるでただの暗記ではなく、記憶に刻むような作業です。

改善というものもこれに似ています。前回はこうだったから今回はこうするというように、常によく観察をし、物事の流れや意味からさらに善いご縁を紡いでいくのです。何かに繋がっているから、その人には常に点から線になり、その先の面を捉えていくともいえます。

畢竟、御縁というものは求道者の体験そのものともいえます。

日々は体験をするための大切な機会です。

なぜこの体験をするのか、なぜ今なのか、理由などないと思われることであってもそこに必ず学ぶものがあるのが求道者です。体験の喜びや仕合せはこの世に生きていることの証でもあり、この世で生まれてきたことへの感謝そのものでもあります。

時に大変な体験をすることもあり、心が打ちひしがれてしまうときや歓喜に満ちて涙することもありますがその一つ一つの体験こそ質を磨いてくれる砥石です。

子どもたちに今と未来をつないでいきたいと思います。