暮らしフルネスの夢

言葉というのはその物事を分析するのにはとても便利な道具です。それが何と何でできているのかということを科学的に証明するのも言葉で分析します。しかし言葉で分析できるものというのは、分析できるものだけです。分析できないものは、そのものを直接見せるしかありません。それが言葉の限界でもあります。

私は聴福庵の主人ですが、聴福庵のことを伝えるときはもちろん文章や言葉を用います。しかし説明したとしても、言葉で分析したとしても実際には現地に来て直接見せて感じてもらわないと理解することができません。つまり分析できる範囲ではない何かがあるのです。

それは例えば、偉大すぎるものだからというものがあります。あまりにも大きいものは言葉で説明できません。宇宙が説明できないのと同じです。もう一つは、一体になっているものも説明できません。この地球という存在そのものがなぜ存在するのかが証明できないのと同じです。

つまりあまりにも偉大なもの、あまりにも一体になっているものには言葉は通じないということです。

このブログは、私は自己整理と自己内省で綴っています。何か日々に気づいたこと、地を低く歩んでいくなかで観えてくる天の高さを知ろうと学問を実践しています。しかし、いつも文章では説明できないところを実感し、そのギリギリのところを書いています。

それに今ある言葉、私が習ってきた言葉でしか解釈できずどうしても抽象的になるのです。それでも書き続けるのは、それを伝えよう、道を歩もうとするからであろうとも思います。

私は炭が好きで、よく炭を使い何かをしますが水と火とが一体になったところの不思議さや好奇心はいつまでもなくなることがありません。それは火が水でもあり、水が火になるからです。こんな具合に文字で書くと意味不明です。しかし、それを私が取り組んでいる道具や場で感じてもらうとその意味が伝わります。

私はどうやら、そもそもが分かれていないものばかりが実感できるようでそれが今の変な取り組みのように思われてしまう由縁であろうと思います。わからないものがあると信じる世界というのは、実はとても豊かなものです。それに今まで知らなかった世界が急に広がりまだ私たちが知っている世界があまりにも小さいことを理解するのです。

子どもたちはひょっとすると、生まれながらにこの私が観えているような世界を知っているしそこに生きています。言葉の教育によって、人間の加工した社会に閉じ込めていきますが言語を習得するまえにこそ本来は原理原則は伝道する必要があると思っています。

暮らしフルネスはそういう思いから誕生したものです。

子どもたちの未来が、より豊かに幸福になるように挑戦していきたいと思います。