器の大きな人がいます。この器というのは、何を器に載せるのかということでもあります。物理的に、巨大な器をつくってもそこに何を載せるかでまたその器の存在が変わってきます。つまり器というものは、その人そのものがもっている容量でもあります。
器の容量が物理的に小さければ載せることはできません。大は小を兼ねるものです。だからといって器が小さいことがよくないことはまったくありません。私の身近にある一輪挿しも、また小さなお皿もとても小さくて美しいものを載せることができます。
つまり言い換えるのなら、器の質そのものが器の本来の定義ということでしょう。
どんな人間であるかが、その器を示すということです。人間の器の大きい人というのは寛大であり人の善いところを観て、自分に責任を持ち、周囲を思いやることを忘れない人物ともいえます。
心が広い人、心が美しい人、心が綺麗な人、心が豊かな人には私はいつも器の質を感じます。人間は、器をどう磨いていくかでその載せれるものが変わってきます。載せようとしているものが神聖であればあるほどに、その器もまた深く透明に磨かれていくからです。
だからこそ器を磨くというのは、心を磨いていくことです。器が大きい人とは、心の大きい人ということです。
器とはつまり、心の器ということなのでしょう。
心を高めることで器を高め、心を磨くことで器を磨く。人は一生、この自分自身の器に責任をもって生きていく必要があります。それはこの一生に一度の人生に、自分が主人公として最期までやり遂げる存在でもあるからです。
器の大きな人とお会いするのは、仕合せです。
また再会を心から楽しみにしています。