全体最適の治癒

漢方には生薬というものがあります。この生薬とは、植物や動物、鉱物などの天然産物由来の薬物のことをいいます。乾燥・切断などの簡単な加工をして用いられています。

ウィキペディアにはこう書かれます。

「有効成分を多く含んだ生の薬用植物や動物、鉱物を、いつでも用いることができるように、保存ができる形に加工したものを生薬とよんでいる。人が生薬を使い始めたときは1種類(いわゆる単味)の生薬を用いていた。これらは例えば柴胡は熱を下げる、杏仁は咳を止めるといった簡単な知識の集積となった。しかし、漢書『芸文志』ですでに指摘されているように、病気は、季節、気候、風土、体質などの遺伝的要因の影響を受け、他の病と併発するなど複雑化することもある。そこで2種類以上の生薬を組み合わせて用いられるようになった。日本における生薬は、漢方処方や民間伝承の和薬などの東洋医療で用いられる天然由来の医薬品すべてであるが、漢方医学の影響が大きいため、生薬と漢方薬が同一視される場合も多く、混乱を招いている。生薬は漢方医学以外にも、民間薬として単独で使用する機会もあるが、漢方薬は複数の生薬を漢方医学の理論に基づいて組み合わせた処方で配合比率も厳格に決められており決して同一ではない。漢方生薬は、慣習上漢字名で生薬名を呼んでいるため、薬用植物の標準和名とは異なる名前で呼ぶことが多い。一方で民間薬では、植物和名で呼ぶことがふつうである。江戸時代に、生薬は漢方薬の原料という意味で薬種(やくしゅ)とも呼ばれており、鎖国下においても、長崎貿易や対馬藩を通じた李氏朝鮮との関係が維持された背景には、山帰来・大楓子・檳榔子・朝鮮人参などの貴重な薬種の輸入の確保という側面もあった。輸入された薬種は薬種問屋・薬種商を通じて日本全国に流通した。」

生薬はとても長い歴史があります。伝来したのは仏教と共に朝鮮半島を経由して日本に中国医学や生薬が伝来したのは6世紀頃だそうです。『日本書紀』には飛鳥時代の女帝、推古天皇が我が国初の「薬狩り」を宮廷行事として実施したことが記されています。そして寺院での治療薬の施しや、薬草園での生薬栽培も行っていました。

英彦山でも様々な生薬が栽培され山伏たちがそれを各地へと運んでいたともいいます。生薬は組み合わせ次第では、相乗効果を発揮する仕組みです、それに分量や、種類でありとあらゆる体質改善に活用できます。

現在、不老園を甦生していますが合わせて薬研をつかい色々と研究してみたいと思います。子どもたちのためにも先人の智慧や叡智で、本来の全体最適の治癒を伝承していきたいと思います。