目利きを磨く

「目利き」という言葉があります。これは辞書を調べると、器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。また、その能力があることや、その能力を備えた人。人の才能・性格などを見分けることにも使われるとあります。

この目利きがいい人というのは、本物を見極める力がある人のことをいいます。では何が本物で何が偽物なのかがわかるというのは何かということです。それは真実や本当の価値を見極めることができるということです。

現在は、この目利きが非常に失われている気がしています。テレビやマスコミ、そしてあらゆる情報をインターネットで配信されていますがそのどれもが本当の情報を伝えていることはありません。つまり目利きがよくないということです。どれも、人気が出そうに加工したり、さも手間暇がかかっているかのよう表現したりと、そもそも大量生産大量消費、経済拡大を優先した市場原理を優先していますが無理やりにそれに合わせているうちに目利きを間違うような価値や表現ばかりが磨かれていきました。

広告や宣伝もまた、本当にいいものの配信ではなく目的は商売や人気取りのためのようになっていきました。消費者たちがすぐに飛びつくような情報操作を繰り返しているうちに消費者が目利きがなくなってきました。そうなってくると、みんなが使っているものがいい、テレビでよく出てくるものがいい、大きなディスプレイに陳列しているものがいい、ブランド品であればいいというようによく調べもせず、目利きもせずに安易に購入して消費するようになりました。それが今の社会通念としての「いいもの」になってしまい本物や真実を目利きする力が削がれたようにも思います。

もともと本物というものや真実というものはとても地味なものです。じっくりと観察して、その膨大な手間暇、自然の深い関わり方や造形してきたものに近いものです。

昔の人は、自然の経過や自然が造形したものを深く尊敬しその持っている徳を引き出し、その徳に見習い近づけようと調和を意識してモノづくりをはじめ生き方を磨き続けていきました。むかしの洗練されたものは、現代では実現できないほどです。それは刀剣然り、陶器然りです。

そういうものが分かる人たちが増えていけば、この世の中で何がもっとも真実でいいものかがわかるようになっていきます。目利きをする人たちがこの世の中に、本当に素晴らしいものを増やし、目利きできる人になるようにと暮らしを磨いていくことで私たちの社会も本質的で自然美に近づいていくように思うのです。

世の中が本物や真実になったなら、正直者が馬鹿をみないような豊かな社会が顕現します。地球がととのっていくというのは、こういうところから始まっていくと私は思います。素直であること、謙虚であること、明るくいることは真心を磨いていくことです。真心と目利きは表裏一体なのかもしれません。

子どもたちに真実や本物が譲り遺せるように、これからも目利きを磨いていきたいと思います。

常識見直す

世の中には、長い時間をかけてつくってきた常識という価値観があります。その中に浸っていると次第に本当のことがわからなくなったりするものです。如何に常識に浸らないようにするのかというのが、本質を見極めるためには必要ですがそのためには本当は何かということを考え続けなければなりません。

考えるのが面倒だからと価値観に迎合したら、その常識の一員になってしまいます。もしその常識が、自然界のように普遍的なものであるのなら感じる、近づく、寄り添うだけでもよかったのでしょうが人間界では不自然に常識を構成していきますから自分が不自然になっていることすら気づかなくなります。

一般常識というものは多数派が持っています。少数派というのはいつも非常識です。また社会通念でこうだと教え込まれたものや、そうなってしまっているものに逆らうのもまた非常識です。しかし、歴史をみたら今までの常識が実は間違っていたという出来事がたくさん発生していることも気づきます。それまで信じられていたものが、ある時にガラリと変わってしまうのです。

今では地球は丸いというのは誰もが知っていましたが、かつては平面だと信じられた時代がありました。地動説や天動説なども、何度も宗教裁判がかけられたともいわれます。聖書に書いているものと違うというのは非常識であったという社会通念があったということです。

これは今では教科書やマスコミ、有識者がいったことや最初からそうだったと思い込んでいる多数派がいても同じように常識はつくられ続けています。時代時代で変わっていくような常識を、真実だと信じてみんなで押し付け守らせていくと常識はより強固になります。

しかし時代が変わったのなら、原点回帰しもう一度常識を見直し、本当は何かということをみんなで歴史的な認識をもとに語り合う必要性を感じています。

子どもたちのためにも常識に捉われず、本当の姿、本質は何かを見極め、温故知新と原点回帰を楽しんでいきたいと思います。

湯たんぽとぬくもり

最近は、毎晩、寝床に湯たんぽ(行火)をいれて就寝しています。色々と使ってみたのですが、今は銅製の孟宗竹を縦に割ったような形のものを使っています。この上に足を置いているとすぐに眠くなり、朝方は足元が暖かくて心地よく心身が癒されます。

私は寒いのはあまり得意ではないのですが、冬は私の大好きな炭が使えるのと温熱をつかったおもてなしができるので仕合せです。仕事が忙しくなると、すぐに空調に頼りますが本当は冬の楽しみはこの自然の熱源を楽しむことだと私は感じています。

そもそも行火というのは、日本を代表する歴史の暖房器具の一つです。はじまりは、古代の焚火からです。以前、むかしのアイヌの暮らしを再現している施設にいったら家の中心には必ず焚火をする場所がありました。それが縄文時代からの囲炉裏になり、奈良時代に入ると火鉢というものが登場します。そして行火が平安時代に入り出てきて、室町時代には炬燵が登場してきます。行火というのは、火を運ぶという字から出てきます。つまり、本来は中心に置いていたものを色々な場所に移動して使うということで行火になったということです。

これはなんとなくの想像ですが、火を囲んだ暮らしの中でみんなが集まりその火を分け合います。また残ったぬくもりに布をかぶせてその中でみんなで温まろうとします。それで今の行火や炬燵が登場したということです。

ちなみに行火(湯たんぽ)の名前の由来ですが、「湯婆」の唐音読みといわれます。中国から渡来してきたものが「湯婆子(tangpozi)」「湯婆(tangpo)」という名前だからです。

この婆は「妻」や「母親」の意味で、妻や母親の温かい体温を感じることからその字をあてられたといいます。お湯を入れた容器を抱いているということからもこの字になりました。日本では、何の「たんぽ」なのかということで、お湯を温めるたんぽということで「湯」が付け加えられ「湯湯婆(湯たんぽ)」になっています。

湯たんぽには、お湯を入れるものと豆炭という石炭などを団子状にしたものを使うものがありますが私には豆炭は暖かすぎてお湯の方が相性がいいです。

私たちが感じているぬくもりは、決してただの物質的な熱ではなくそこには心があります。人のぬくもりややさしさ、そして自然の恵みなど、そこに慈愛のようなものを実感して安らかになるのでしょう。

身体が冷えても心までは冷えないように、思いやりとやさしさ、豊かな真心で大切な時間を過ごしていきたいと思います。

地球との共生

トンガの近くで火山が大噴火をして地球全体にこれから大きな影響を与えます。地球は丸くなっていますし、回転し循環しますからこの火山灰や二酸化炭素がこれから地球を冷やしていくだろう問い事が予想されます。これは太陽の光が入りにくくなってくるからです。

よく考えてみると、気候変動による温暖化で地球が急激に温められていましたがここに来て噴火により今度は冷えていくということが発生します。地球も一つの生命体ですから、バランスをとって自浄作用が働くというのは人間の身体と同じことです。

私たちは人間の身体でいえば、皮膚の繊毛のような状態かもしれません。身体にひっついて身体の変化の影響を受けていきます。何かが身体で起きれば、その状態に応じて変化して生息し続けます。いくら人間が、自分たちのものかのように地球上で振る舞っていても実際には繊毛が何か騒いでいるだけの状態です、身体が本体ですから、如何に本体とうまく共生し穏やかに生存していくかを選択していくかということです。

平和が長く続き、地球の変動が少なかったからこそ私たちは今の生活を享受されました。しかしひとたび、地球に大きな変動が発生したら今の仮初の物質的豊かな生活はあっという間に破綻してしまいます。

かつて地球には、氷河期というものが何度もありました。ある意味、今も歴史から振り返ると氷河期のままという考え方もあります。問題は、私たちが食べるものがなくなってしまうような氷河期に突入することです。

土も凍れば作物は育ちません。太陽光が弱くなれば、それだけ光合成ができなくなり森林をはじめ植物たちは弱っていきます。海面も下がり、地上や地中の水も減ります。もしも火山の噴火が、さらにいくつも同時に噴火したとしたらその急激な変化に今の人類がどれだけ対応できていくか。今はある程度のテクノロジーを持っていますから、ある程度は対応できますが人類全体となると80億人いるからよく考えないといけません。

私たちはいつの時代も、本当はサバイバル状態で子孫がどう続いていくかを常に向き合っていかないといけない存在です。先人たちは長い間の地球との共生の中で、生き延びる方法を智慧として伝承してきました。もしも現代のような化学的なテクノジーで生き残ったのなら、そんな智慧は必要ないはずです。

文明は何度も発展し、崩壊し、消失してきました。その中のいくつかの文明では、今と同じくらいのテクノロジーをもった時代もあったそうです。しかしそれがすべて失われている。ここに何かのヒントを感じます。

日本人は極東の島国で、もっとも遠くまで旅をした民族だといわれます。つまりそれだけ絶滅の危機を体験して乗り越えてきた民族ともいえます。その民族が、先人の智慧として遺して繋いできたものこそが生き残るための方法であり、歴史であるということは間違いありません。

状況が一変し、環境も社会情勢も変わる瞬間があります。野生の感覚を失わないまま、本来のあるべきようをよく観て、子どもたちのためにどうすべきか、挑戦していきたいと思います。

暮らしと先人の智慧

今、私がブログを書いている目の前のお庭に南天があります。朝陽をあびて神々しく輝く様子に心が洗われる思いがします。特に、鮮明な赤い実は冬枯れした景色を明るくし瑞々しくします。

この南天というのは、もともとは中国原産で平安時代に日本へ入ってきた植物です。もともとこの南天の名前の由来は、中国では「南天燭」「南天竹」「南天竺」などの名前で呼ばれたものが簡略化して南天となりました。南天燭の「燭」は、南天の実が「燭(ともし火)」のように赤いこと。そして南天竹の「竹」は株立ちが竹に似ているからこう呼ばれるようになったといいます。英語では「Sacred bamboo」「Heavenly bamboo」と竹が入っています。

この南天は、観賞用だけではなく実際に効能の高い生薬としても利用されてきました。有名なのは、南天のど飴にもあるように咳止めです。南天の果実、葉、茎、根がはどれも生薬になり、果実を乾燥させたものは南天実は「o-メチルドメスチシン」が含まれておりに咳やのどあれに効能があるそうです。

よく私も、南天の葉をおもてなしで使いますがもともとこの南天の葉は縁起物で美しいからだけでなく葉に解毒作用や殺菌・防腐作用があるからです。赤飯などにもよく添えられますがこれはカビ予防としても活用しています。そして南天手水というものもあり、この葉が殺菌効果があることから手の洗浄や浄化などにも使われたそうです。先人たちはこの効能を知って智慧として取り入れていたことがわかります。

そしてそれがどうして縁起物の植物になったのかということですが、もともと南天は「難転(難を転じて福となす)」という意味がつきました。これは戦国時代には、武士の鎧びつや出陣の折りには枝を床にさし勝利を祈ったとあります。また江戸時代になると、「和漢三才図会」に「南天を庭に植えれば火災を避けられる。とても効き目がある」とも記され、江戸時代にはどこの家にも南天が「火災よけ」として植えられるようになりさらには「悪魔よけ」「邪気払い」として鬼門の方向や玄関前にも植えられるようになりました。

もともと殺菌などの不浄なものを祓い清めるという効果と、暮らしの知恵がある効果が合わさって今でも南天は日本人にはとても親しく身近な植物として愛されています。

むかしも今も、日本人の先祖たちは不浄なものを忌み嫌いました。それは不浄な場には幸福が薄くなるという経験があったのでしょう。いつも心を磨き上げられた鏡のように澄ませてそして冬の空のような美しい清らかな心を保とうとしたのでしょう。南天は、それを手助けしてきた大切なパートナーだったのでしょう。

時代が変わっても、子どもたちに暮らしと先人の智慧をしっかりと伝承していきたいと思います。

原点回帰と甦生

この十数年で地球の気温は急激に上昇しています。同時に、地球内部の変化も著しく地震や火山の噴火も増えています。私たちの身近では、四季のめぐりが少しずつ変化しているのを感じます。それは和の暮らしを通して実感するものです。

現在は、都市化した自然から離れた生活環境で仕事をしていく中でかつての日本人の先祖たちのような自然と調和した暮らしが失われてきました。気候変動のことも、今では衛星や世界各地の観測などをインターネットやテレビですぐに確認できますがむかしはそんなものはありませんから身近な微細な変化で地球全体の様子を直感したのでしょう。

空の様子、海の様子、そして風、月、山、さらには虫たちや植物たちの変化から地球の反対側で起きたこともある程度は把握することができたのかもしれません。

実際には、この世の中は因果の法則という真理もあります。どんなに私たちが小さな行為をしたにせよ、それが関係性によって繋がっていますから巡り廻って地球全体に偉大な影響を与えてしまうのです。

小さな石ころを転がしたということや、火をつけて燃やしたということでされ、一見そんなものが何かを起こすとはだれもが考えませんが実際にはそれが因果のはじまりになりますから何かしらの影響を大きくして周囲に展開されていくのです。

宇宙のはじまりなどを解明していけば、無から有が産まれるときなどその原理が働いていることはそのうち量子力学などで明確になっていくと思います。しかし人間jは、教育によって自他を分け、他人事という便利な仕組みを覚えてからそんなものは誰かがなんとかしてくれて自分の問題ではないと分別するようになりました。

気候変動や環境問題などその最たるものです。

この世界は、丸く、地球も円環ですからやったことが巡り廻る仕組みです。だからこそバランスが重要になります。このバランスは、ゼロイチのようにすべてをプラスマイナスでゼロにととのえ続けなければ維持できません。使ったエネルギーは休ませて貯める、昼と夜のように必ず静と動を保つ必要があります。

人類は極端になるのは、この分別したことからです。分別されしなければ、極点にはならないのです。バランスを崩したのはこの分別智であるのは明らかです。だからこそ、この分別しない智慧が必要になります。それを日本の先祖たちは「和」といい、日ごろからバランスを保つような暮らしを創造したのです。

私の暮らしフルネスの本懐はここにこそあります。

時代の変化の中で、常に自分を調和させていくことは責任を自分に保つということです。その自分を保つためにも、この和の暮らしは必要であり、そして同時にテクノジーや智慧を使うのです。

子どもたちの未来のためにも、この時代に人類全体が目覚め地球と一体になる生き方に原点回帰できるように様々な原点回帰を甦生させていきたいと思います。

経営の道

経営という言葉があります。この語源を調べてみると、はじめて使われたのは紀元前八世紀、周の国だといわれます、そこには「祖先文王が霊台という祭壇を築いて、建国のシンボルとしたことを追想して霊台を経始し、”これを経しこれを営す。”庶民これをおさめ、日ならずして成る」という言葉からです。

この経営の「経」の字は、織物の経糸(縦糸)を表していてそれが変じて南北の方向(経度)、仏教や儒教における不変の教示を説いた書(経書、経典など)をになったそうです。そして経営の「営」は区画を調整する意味があり、周囲を守るための「陣屋」や「兵営」「営舎」などでも使われています。

つまり、筋道を立てて枠組みを定めるという意味でしょう。ここから経営戦略というものが出てきます。どのような目的、目標を定めて、それをどのような筋道で行い枠組みでやるのかという発想になっていきます。

私はよく周囲から経営者っぽくないといわれたり、経営者向きではないなとどいわれたことが多くあります。若い頃から、あまりジャンルや分類に囚われず、またマネージャーとかプレーヤーなどという言葉にも興味がなく、自分のスタイルでやってきたからかもしれません。

そう思うと、周囲の言う経営者とは何だろうと思うことが多くあったのです。経営がうまいというのは、稼ぐのがうまく会社を大きくする人のように言われます。経営者向きだという言葉も、数字の計算が早くて合理的、会社の運営が上手で人がよくまとまっていることのようにいわれます。名経営者といわれる人は、その分野で大成功を収めた人のこといいます。失敗して、倒産した人のことを名経営者とは言いません。

しかしここに何か、私は違和感を感じるのです。

私が思う名経営者は、松下幸之助さんです。運を大切に生き、PHPを設立し子孫たちのために尽力されました。この経営者は、若い人は知らない人も増えてきたかもしれませんが松下電器、今はパナソニックの創業者です。

松下幸之助さんは大成功したからか名経営者なのか、私はそうは思っていません。どのような人生を歩んでこられて、その中でどのように商売の道を究められたのかという意味で先達であり一つの模範であるのは明らかです。経営者というよりも、生き方のモデルということです。

人は一人ひとりは、本当は経営者ではないかと思うのです。自分の人生をどう生きるか、そこに成功も失敗もあるでしょう。しかし生き方を通して何をその人は学び魂を磨いていったかは、その人の経営によると思うのです。自分という一生をどう生きるか、そして自分に与えられた尊い道をどう歩むのかは自分で決めて実践するしかありません。これを実現するには自主経営をするしかありません。

本来、経営者というのは会社だけのこというのではなく人生を歩んでいく者という意味が近いと思います。今思い返すと経営者向きではないということの意味も、使う人によって異なりますから私にとっての経営とは何か、経営者とは何かをまず確認することが大切だったのかもしれません。

自分の人生をどう生きるか、その人生の生き方はそれぞれに千差万別ですから尊重していく必要があります。そのうえで、理念を持ち、志を高め、自分を磨き、周囲を愛し、真心と感謝で生きる人は立派な一流の経営者だと私は思います。それは起業していようが、会社をもってなかろうが、その生き方が立派な経営者だと思うのです。

ご縁から色々な人にお会いしますが、私の尊敬している経営者はみんな自分というものを見事に経営されている方で答えを生きている方ばかりです。子どもたちに、生き方のお手本になるように真摯に学び、私なりの経営の道を切り拓いていきたいと思います。

世界変革への門出

昨日は、聴福庵にてブロックチェーンエンジニアたちと一緒に鏡開きを行いました。お昼にはその鏡開きの御餅を使い、七つの穀物と七つの若草を使いお雑煮にしたり、かき餅にしてみんなで食べました。

鏡開きでは、まずみんなで鏡餅に感謝をして参拝して、その後は「おめでとうございます」と声掛けをしながら御餅を木槌で開いていきました。清々しい門出と福がみなさんにつながるようにと祈り行いました。

寒い日でしたが、炭をたくさん使った古民家はとてもぬくもり、またコロナでテレワークからなかなか会えない仲間たちと一緒に雑談をしたり学び合い、教え合う時間は、何よりも有意義でした。

畳になれていない人も多く、少し腰が痛いこともありましたが懐かしい未来の時間をみんなで過ごす豊かな時間です。

一昔前まで、日本人はどのような環境で仕事をしていたのでしょうか。そういうことを知っている人ももういませんし、たいした文献も残っていません。

しかしむかしから続いている場所で、むかしの真心をもって文化を継承している人がいるとそこには懐かしい未来の場が甦生するのです。私がそうであるように、私の暮らしフルネスの実践の中に人が入ればそこに何かを直感してくれます。

それは私が先人の智慧を尊び、日本人であることの素晴らしさ、文化の偉大さを実感しているからにほかなりません。現在は、都市化され国家を優先して生活というものを激変させましたからむかしからある本来の豊かな暮らしを失っていきました。

生きているということは、決して生活のためだけではなく暮らしのためにあります。この暮らしは、現代の暮らしではなく、懐かしい暮らしのことを言うのです。暮らしの定義を換えない限り、本来の私たちの豊かさは原点回帰しないのではないかとも感じます。

コロナで私たちは大切な何かを思い出し、そしてコロナ後に世界は人類のしあわせとは何かということを考えようと話していました。しかし、現在の社会情勢をみていたら原点回帰は元の経済優先の仕事中心に戻ることのように報道されます。

残念なことです。

人は一人ひとりの中での意識の変革によってしか世界は変わっていきません。まずは自分自身が変わることで、つまり暮らしを換えることで世界は真に変革していくと私は思っているのです。

子どもたちの未来、子孫たちの平和のために、世界の変革をこの場所、私のいる足元から変えるために実践を積んでいきたいと思います。

自然とIT

最近、ある人からデジタルネイチャーという話をお聞きしました。これは、IT用語辞典によればこうあります。

『デジタルネイチャーとは、「コンピュータと非コンピュータリソースが親和することで再構築される新たな自然環境」として捉えられる世界像である。メディアアーティスト・落合陽一が提唱する概念である。落合は、デジタルネイチャーを「人・モノ・自然・計算機・データが接続され脱構築された新しい自然」であると述べている。成熟したコンピュータ技術により、あらゆるものがソースコードとして記述され、人や自然などの「物質」と仮想的に再現された「実質」(virtual)が不断の連続的な関係に置かれる、それによって、旧来の工業化社会とは違った世界の在り方、価値観、環境が実現するという』

ITと自然の融合という感じて使われている言葉なのでしょうか。

この100年で急速にIT技術によって人類の生活スタイルは変化してきました。そのことで、便利になった反面、非常に問題も多くつくりだし、それを解決するよりも前にさらに技術によって乗り越えようとしています。

時間軸として、自然はとても雄大で悠久、ゆったりとずっしりと動いていきます。それに対して、人間はとても短絡的で短期的、視野もせまく短期決戦です。そのバランスを保つのを人間側に自然を合わせるのか。それとも自然に人間を合わせるのかといった、思想そのものがきちんと語れていないように私は思うのです。

私は郷里に、このデジタルネイチャーのやろうとしていることを暮らしフルネスという実践を用い現場で実践しています。ここはブロックチェーンを活用した最先端技術を扱うエンジニアたちが、先人たちの智慧をすべて甦生させた場所で働き、その思想や技術を習得しながらどうあることが人類や子孫が生き残ることができるかという智慧を習得するのです。

今の知識がいくら進んでいると思い込んでみても、これまで数万年、数千年を生き伸びた智慧には足元にも及びません。たとえ、地球が滅んで宇宙人のようなテクノロジーを得て生き延びたとしても果たしてそれで仕合せなのかということはきちんと向き合う必要があります。

人類は今の豊かさの定義を見直すことが先で、本当の豊かさとはどういうものかということを気づきなおすことが大切だと私は感じます。新しい時代といいながらも人間は人間の内面の価値観を自分たちで毀すことができなければ時代は本当の意味でアップデートすることはできません。

つまり一人ひとりの中にある暮らしの変化しかこの世界を変える方法はないと感じています。その暮らしの変化がいかに他の一人ひとりの意識を換えていくか。これからの時代、まさにこの生き方と暮らし方を示した人が時代を導いていくと私は直観しています。

むかしから日本には伝統的で立派な職人たちが時代を見つめて守ってきました。この時代もまた、新たな職人や技術者たちと共に人類のあるべき姿のカタチを創造していきたいと思います。

鏡にいのる

人は人を鏡にして自分というものを理解していくものです。何を対象に鏡にするのかというのは重要で、鏡が澄んでいればいるほどに自分というものがはっきりとうつりこみます。

うつりこんだ自分をよく観て、自分の中に何が穢れであるのかを知り、それを丁寧に洗い清めてお手入れをすることで自分というものの中にある素直な自分に気づいたりするものです。これは磨くことも同様です。

例えば、包丁研ぎというものがあります。これは砥石で包丁を研ぐのですが善い砥石であればあるほどにその包丁の切れ味が出てきます。つまり包丁の方も研ぎ澄まされていくのです。これは先ほどの鏡でも同じです。では善い鏡とは何かということです。

明鏡止水という言葉があります。

この明鏡とは、一点の曇りもない鏡のことをいいます。 そして止水とは、静かに澄んでいて、止まっている水のことをいいます。そこから「明鏡止水」はよこしまな気持ちを持たない、澄み切って落ち着いた心ともいわれます。邪念がないということです。それは言い換えれば、透明で澄んだ心を持っているということです。

私たちは、なぜ掃除をしてお手入れが必要なのか。その問いはすでに答えのあるものです。生きていれば、いや、この世はすべて時間の経過や関係性というご縁によってつながり様々な恩が循環していきます。その都度、善悪も誕生すれば、清濁も発生します。それを、丁寧にととのえていくことで私たちはこの世でバランスを保っていきます。

これが円環でもあり、一円観でもあります。

だからこそ、常に鏡を意識して生きていくことで私たちは自分というものと上手にお付き合いして自他一体の境地で自然体を志していけばいつの日かかんながらの道に出会い、先人たちの目指した理想の生き方やその心境に達していくこともできるように思います。

そのためには、私たちは真の豊かさとは何か、真の幸福とは何かといった生き方と正対していくことが最初の入り口なのかもしれません。

子どもたちの未来のためにも、鏡にいのる日々を精進していきたいと思います。