鏡開きと感謝

昨年末に杵と臼でついた御餅を鏡餅にしてお祀りしていましたが、本日は鏡開きをします。この鏡開きは、室町時代ころからあるといわれている武家の風習だといわれます。

現在、日本では年中行事の一つになっていますが正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げ直会をし食べる。一年の神仏に感謝の気持ちを示し、無病息災などを祈ることです。一般的には汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などにして食べるようにしています。

私も本格的に毎年、この鏡開きの年中行事を甦生して5年目になりますが最初は失敗の連続でした。あっという間にカビが生えてしまい、鏡開きまで持たないのです。他にも、固すぎて割れないとか、食べるまでもたないとか、いろいろとありました。

現在は、工夫をして焼酎で洗ったり、ワサビをおいたり、玄米で隙間を上手につくったり、温度管理がしやすい乾燥した部屋の状態を維持するようにしたり、時には人が集まるときだけ移動したりと鏡餅の方に寄り添ってずっとこの鏡開きの日までお守りしています。

気が付くと、単なる食べ物ではなくまるで生き物のように接して食べるのがもったいないと感じるほどです。みんなでついた御餅を、みんなで食べて無病息災を祈ることはとても豊かなことです。感謝の気持ちで取り組んだ行事だからこそ、感謝の気持ちで大切な節目を迎えることができます。来年は、江戸時代までは黒米を使っていた黒鏡餅だったというのを新たに知り、黒い鏡餅に挑戦してみようと楽しみにしています。

こうやって毎年続けていくたびに、その行事の本質を気づきなおし、また自分の暮らしの一部として文化を伝承していくことができます。子どもたちにもただの体験ではなく、伝承としての日本文化を伝道していきたいと思います。

体験と気づき

人は体験するということは、自分の知らないことに気づくということです。知ってから体験すると、知っている体験をしようと思うあまりその体験を素直に気づくことができないものもあります。

例えば、太陽とは何かというものを知識で得たとしてもその太陽の持っている多様な力や徳を全部わかることは決してありません。人間は、固有の言葉を用いてそのものを分類分けて理解し、その言葉で語り合いますがその深さや真実を知るには膨大な体験と気づきが必要になるからです。

人によっては、ある真実や本質までたどり着いている人がいます。こういう人たちは、それぞれの分野である一定のところまでその事物や存在を深めてその体験から何が本当のことかということに気づいた人であったりします。

ある人は、自然界の観察から太陽を理解し、またある人は光や熱源というものから理解し、そのすべてを気づいたわけでなくてもその太陽というものの存在をあらゆるすべての存在を通して観ているとその本質に少し気づくことができるというものです。

ただ、気づいて知ったからといってコントロールすることなどできず私たちはその存在に寄り添い合わせていくしかありません。その存在を知ることは、その存在と一体になっていくからです。

この自他一体になる感覚というものは、万物とつながるための方法の一つです。本来は、分かれていなかったものをもう一度、一つに融和するということ。これが気づきを促進し、そのもののことを深く感じることができるからです。この感じる世界、気づきの領域というものは体験で近づいていきます。

良質な体験をし続けるためには、この感じる力、五感を研ぎ澄ませて素直な心で自分から傾聴し感謝し続けるという実践も必要です。謙虚であればあるほどに、この世の普遍的な事実に気づきやすくなるということです。

生まれたての子どもたちは、みんなその感覚の境地を開いています。それを閉じていくのが、知識でもあります。このような時代、知識に頼り過ぎてしまいその感覚の世界が失われてきつつあります。本来の人間の学びとは何か、子どもたちの環境を創造しながら見守っていきたいと思います。

存在

人はいつも同じ人とずっと一緒にいるわけではありません。特に若い時に知り合った友や、そしてご縁のあった方々とはまた離れて暮らしていくものです。しかし、これはいつの時代も同じですが離れていても心は傍にいるという感覚といものがあります。

これは同じ志を持っていたり、共感をしたり、もしくは、ご縁を信じていたりする感覚を持っているということです。そしてこれは、生きている存在だけではなくご先祖さまやもしくは故郷のように形のないものにもそれを感じるものです。

人との出会いというものは、誰かが引き合わせていきます。その誰かは、まるで先にそうなることを知っていたかのようにその人と人を見事に繋ぎ合わせていきます。ここには、まるで時間という概念がなく未来も過去も今もありません。言い換えるのなら、「そうなるご縁を知っている」かのようです。

つまり、未来を予測するのでもなく、過去からつなぐでもなく、今その瞬間に感じたわけでもなく、「そういうご縁である」と最初から確定して存在しているのです。これを天命とか運命とか宿命だという人もいます。しかし、よく考えてみるとこの世のすべての存在に想像を膨らますとき、複雑にみえて実はシンプルに「ただそこにあるもの」という事実に気づきます。

存在は、いのちのカタチであり、カタチとしての認識が存在となっているのです。そしてこの存在するということを人間の感覚でとらえるとき、そこには役割があるという認識を持ちます。

役割があり存在があるとするのなら、そこにはご縁があるということになります。そのご縁は、丸ごと一体でありそのすべてに役割がある。役割を誰かが無理に決めるのでもなく、存在そのものを役割にするという考え方です。

私たちの心というのは、その存在をいつも身近に感じているものです。

懐かしいという感覚は、どこかその存在のことを示唆しているように私はいつも感じます。古いものに触れても、新しいものに触っても、懐かしいのです。形と無形は永遠に循環していきますが、そこに存在する真心はいつまでも不滅にあります。そういうものを身近に感じて暮らしていけることこそ、真の意味で豊かなことでありいのちが磨かれていることではないかとも感じます。

難しい書き方になりましたが、昨日、ちょうど哲学者の方と一緒だったのでその影響もあったかもしれません。子どもたちの未来のために一つ一つの存在に深く感謝して、今日も一日を過ごしていきたいと思います。

行事の本当の意味

私たちは様々な年中行事という文化を持っています。保育園や幼稚園をはじめ、老人ホームなど、生活の中で行事は当然のように実施されていきます。最近は、イベントのように行事は使われていますが本来は日本人の心を守るためのものだったのではないかと私は感じます。

その理由は、すべての行事が感謝に関係していることからです。私たちは、何のためにそれをやるのかという理由を持っています。そして行事であればその行事がはじまった理由があります。その理由は初心でもあり、その初心を甦生し繰り返していくなかで智慧や真心を伝承していくのです。

なんとなく忙しくなり、とにかくやるだけ続けていくなかで簡素化していくとその本質や意味が失われていくものです。だからといって、ガチガチに形を決めてそれをただやっていたら行事で疲れてしまいます。本来は、自然体で行事をし、そのまま感謝で実施されていくのが一番です。

しかし自然体であるためには、日々の暮らしの方をしっかりと維持していることが重要です。そもそも行事は、暮らしの中での行事であって決して暮らしから外れた単なるイベントではありません。これは暮らしの節目に感謝していくものでありその節目に心をなくさないように、先人への感謝を思い出すようにと豊かに取り組んでいくものだと私は思います。

豊かさというものは、心のゆとりでもあります。心のゆとりとは、感謝の心を持っていることであり、決して時間が暇になることではありません。ゆとりがあるというのは、心が感謝で満ち足りているということです。

世間ではゆとり教育とかいって、テクニックや方法論ばかりが議論されましたが本来は日本人がもっていた心のゆとりの回復であったのではないかと私は思います。そのためにまず必要なことが行事の改革であるというのは私の直観する本筋です。

時代が変わっていくなかでも大切なものはいつまでも失ってはいけません。

その大切なものを甦生させ続けていく、伊勢神宮が式年遷宮をするように、神道では常若という実践があるように、これは日本の先人たちがいつまでも子孫のためにと祈り続けてきた一つのカタチなのです。

行事の本当の意味を知ることは、私たちのルーツと未来をつなぎ永続させていくことです。子どもたちの未来のためにも、暮らしフルネスの大本命の一つ、行事の改革に今年から本格的に取り組んでいきたいと思います。

御粥の伝統と甦生

七草がゆの御粥のはじまりについて深めているといろいろなことが分かってきます。

この御粥という言葉は、延暦二三(八〇四)年に記された伊勢神宮の「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」の中に出てきます。この「粥」という字は「煮た米」を現します。字の意味は「固粥」で、現代のご飯とは蒸したお米ですから別のものです。

もともと日本では紀元前一世紀ごろには御粥は食べ始められていたといいます。世界では3000年前から食べられていたといいます。その時の御粥は、今でいうおこわのようなものだったといわれます。

縄文土器など見てもわかりますが、焼いた石の上で料理したり、煮込んだりしたものが主流でしたから穀物も同じように煮たてていたのがわかります。東南アジアの料理で、葉っぱにくるまったおこわを食べますが私にはあのイメージです。

稲作がしっかりと根付いた弥生時代にはうるち米を煮て食べていたともいわれます。それが奈良時代には、土鍋で煮た水分の少ない固めの粥が食べられていました。これが固めの粥「固粥」と呼ばれます。

ここでの土鍋は、「甑」(こしき)と呼ばれる土器が使われていたといいます。この『甑』は、底に湯気を通すための小さな穴がいくつも開いた深めの鉢のようなものです。そこにお米を入れて、湯の入った釜の上に置いて蒸していました。これが発展して木製のものになり、それが蒸籠になるのです。

こうやって蒸して出来た粘り気もなくて固かったので「強飯」(こわいい)と呼ばれました。そしてここからいよいよ羽釜が登場してきます。竈で羽釜をつけてご飯を炊くのです。それまで鉄の釜は中国から伝わって来ましたが、その釜には羽の部分なかったといいます。すると竈にはめ込んだ時、持ち手である羽が無いので取り外すのが大変だったのでそこで取り外しが楽になり釜を洗う時にも便利なように羽を付けることを考えて発明されたのがこの羽釜です。先人たちの智慧の偉大さを感じます。そこから今の私達が食べているご飯の原型は変わっていません。

御粥の方はそこから分かれて、土鍋で煮た水分の多いものを御粥として発展します。汁粥ともいわれ水分が多く、汁が入ったご飯です。11世紀ころには文献にもおかゆとして書かれています。病人が食べるようなイメージになったのは、江戸時代だといいます。御粥は、水加減で呼び名も変わります。水加減一対五は「全粥」、一対七なら「七分粥」。一対一五なら「三分粥」。一対一〇で炊いて、汁だけこし取ったものは「重湯」といいます。そして全粥一に対して重湯九の割合で混ぜたものが「御交(おまじり)」というそうです。病人食や老人食や離乳食といった目的に応じて、作り方も呼び方も変わります。

江戸時代にはこのように御粥はいろいろな姿に形状を変えていきます。七草がゆが愛されるのも、この医療や治癒に御粥が重宝されてきたからかもしれません。

今日は七草がゆの日です。

本来の日本人がどのような祈りと意味と願いを込めて、このような伝統を伝承してきたのか。子どもたちの未来のために甦生していきたいと思います。

七草と薬草

人日の節供は、平安時代までは野草ではなく穀物が中心でした。その内容は、お米、アワ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキの「七穀」です。この穀物が粥になったのですが、その後は薬草の七草を使うようになりました。

七草はセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロのことをいいます。この七草をすべて合わせると約12種類の薬膳効果があります。調べると具体的には健胃効果・食欲増進・利尿作用・二日酔い解消・解熱・去痰・咳止め・気管支炎予防・扁桃腺炎予防・肝臓回復効果・そばかす予防・あかぎれ予防・心の安定効果の効果があるといわれます。

この七草の縁起に意味付けして、セリは競り勝つ。ナズナは撫でて汚れを除く。オギョウは仏体。ハコベラは反映がはびこる。ホトケノザは仏の安座。スズナは神を呼ぶ鈴。スズシロは汚れのない潔白。としています。

日本人は、どのようなものにも意味を宿してそれを吉として呼び込むことで縁起担ぎをしてきましたからこのような意味付けが誕生したのでしょう。すべてのものをいのちそのままを丸ごといただこうとする智慧があります。

薬草というのは、日本最古の歴史書である『古事記』にも書かれます。奈良時代、593年に聖徳太子は怪我や病気で苦しむ人を救うために、四天王寺内に施薬院(せやくいん)を建立し、そこで薬草を栽培していたという説も残っています。

そしてこの薬草は日本だけでなく世界中で用いられます。植物の中にある薬効成分が心身をととのえたというのは非常に大きな発見だったように思います。つい身近にある草を雑草と思い込んでいて関心を持ちませんが、実はこれらの草には驚くほどの効果効能があります。スギナやドクダミ、ヨモギなども効能は枚挙にいとまがないほどです。

自分たちの風土の中で、如何にして私たちは自然を取り込んで色々な治癒に活用してきたか。先人の智慧には頭が下がります。今年から薬草や和漢方を深めていくので、よいものを子どもたちに伝承していきたいと思います。

行事の意味~人日の節供~

現在、和漢方のことなどを深めていて七草がゆの効能も調べています。同時にまもなく到来する人日の節供(七草の節供)の準備をしています。

まずこの人日の節供(じんじつのせっく)という呼び名は、中国では1日が鶏、2日が狗、3日が羊、4日が猪、5日が牛、6日が馬とそれぞれ獣畜を占う日があり、その日にあたる動物は殺生しないことになっていました。7日が人を占う日なのでこの日は人との争いは避け、犯罪者に対する処罰もしなかったそうです。

そもそもこの七草粥を食べる習慣は古代中国から伝来したものを奈良時代から平安時代にかけて宮中行事となり、江戸時代に「五節供」の1つ「人日の節供」(七草の節供)として幕府の公式行事となったことがわかっています。そして明治5年(1872)12月の「明治の改暦」に伴い廃止された行事です。

もっと遡れば、七草粥になったのは、室町時代になってからだともいわれています。それまでは「羮」(あつもの)といってお雑煮のような汁物、汁椀の中に七草が入ったものだったのが想像できます。この七草は中国最古の歳時記「荊楚歳時記」に「正月七日、人日と為し、七種菜を以って羹と為す」から「七種菜羹」を食べて邪気払いをし健康と無病息災を願う行事があったことがわかっています。日本に伝来してから正月初子の日に若菜を摘み取る「若菜摘み」の風習と和合し「供若菜」という宮廷行事になったともあります。「延喜式」にも「正月十五日供御七種粥料」と記されていて、米の他、粟、きび、胡麻、小豆などの穀物が入っていたそうです。それを入れた粥を食すると一年の邪気を払うと信じられていました。邪気払いですから、鬼退治などでも使われる穀物中心になっています。

話を節供に戻しますが「節句」という字になっていますが本来は「節の日に供える」という意味でした。区切りとしての「句」に挿げ替えられていますが「お供えをするこころの文化」というのが、この節句の本質であるということがわかります。

明治の歴の廃止で七草粥だけなんとなく残っていますが、そもそも節供とは何かということを理解して取り組むことでその意味を感じ効力が発揮されるようにも思います。

現代は、物質文明で科学的なものしか信じない風潮がありますが本来は目に見えない存在、私たちがいつもいただいている御蔭様の見守りや恩徳に対して感謝する心が「おもてなし」をふるまい、しつらうことで顕現していくものです。

日本人の大切にしてきた「供養」するという実践が、単なる意味もないものになっているのは残念なことです。子どもたちには、その意味を理解できるように今一度、食べるだけではなくそれを室礼したり、おもてなしする作法や道を伝承していけたらと思っています。

最後に、郷里の福岡県には、七草汁というものがあります。これは七草を中心に味噌仕立てにした汁、「カツオ菜」を使うことが特徴です。福岡ではカツオ菜や高菜は古くから親しまれてきた伝統野菜です。これが雑煮や吸い物に使われることも多いそうで名前も「カツオの出汁がなくても同じぐらいおいしい」ことからそう呼ばれいるそうです。

今週末は来客がたくさん来られます。みんなで福を分けて豊かな暮らしフルネスの時間を過ごしたいと思います。

 

智慧の集大成

世の中は「思想」というもので溢れています。インターネットを検索したり、本屋さんに行けばいくらでもその思想を学ぶことができます。また誰かによって整理され体系づけられた思想はお金で売買され評価もされています。こうやって同じ世界を何度も体系づけてはあれでもかこれでもかの議論で経済が動く時代です。そういう意味でも今の時代は、便利な時代ですからどのような思想でも探せばすぐに見つかり加工しやすいものです。

しかし、現実を直視すればその思想だけでは物事は動きません。現実には現場がありそこにはその思想をカタチにできる人と技術が必要です。思想と技術は両輪であって、それがちゃんと整っていなければ物事は真に救われません。つまり現実を変える救うや救われるためには思想だけではなくそこに技術が必要なのです。同時に、思想がなく技術だけだと凶器にもなりかねず結果的に救われません。

つまり救うことや救われるためには、この思想と技術の和合こそが欠かせないのです。学問というものは、この学者と技術者の協働によって大成していきます。

そういう意味で、それができる私の理想の人物とはだれかともしも訪ねられたら二宮尊徳のような人物であると答えます。二宮尊徳は、農民でしたが思想と技術をもった徳と才を持つ現場実践者でした。

この徳と才は、人々を救い導くためには必要不可欠な力です。この力はどうやって磨かれるのか。それは現場での試行錯誤と鍛錬、そして徳の修身といった人格を高める努力しかありません。そしてその中で、磨き上げられたものが智慧になり、その智慧こそが人類を新しいステージへを導く鍵になります。まさにこれは歴史を鑑がみて気づく王道の基本です。つまり、どんなに無限の思想が誕生しても、どんなに便利な技術が溢れてもその根本はすべて基本にこそあるということです。この基本とは、徳才一致の顕現ということでしょう。

私は思想もありますが、それをカタチにしていく技術があります。具体的にカタチするのは救いになるからです。思想だけでは救われないことを若い時に何度も体験し、どうやったら救われるのかの技術を高めていきました。そして技術が高まるとそれ相応の普遍的な思想が求められていきますからさらに思想を磨きます。

これの繰り返しを実践現場で何度も試行錯誤しているうちに本物の智慧に出会ったということです。私の甦生業は、この智慧の集大成でもあります。

今年は色々とまたカタチにしていく年です。私が先陣をきってやっていきますからぜひ皆さんも一緒に手伝ってほしいと願います。子どもたちのために、今年も真摯に挑戦していきたいと思います。

言葉の力

祝詞というものがります。この起源は、神代から存在するともいわれていますが私たちの先祖たちは言霊に対する信仰を持っていました。つまり言葉には霊力が宿り、口に出されて述べることで霊力が発揮されると信じたのです。

むかしから忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こりその逆を言えば善いことが起きるといわれたりします。婚儀など祝儀の際に忌み言葉を避けるように、言葉を気を付ける民族でした。

この祝詞は、祭壇の横で神主が宣るという漢字です。この祝うという字の右側は、頭が大きな人という意味になり神主を現します。この似た言葉に呪言というものがあります。この呪という字は、私たちが放つ言葉が霊力があるという意味を示しています。

言葉は独り歩きをするともいわれますから、放った言葉が巡り廻って誰かにたどり着きます。場合によっては、自分自身に帰ってくるかもしれません。その時は、人伝えに霊力が増幅して戻ってくるかもしれません。

この言葉の持つ不思議な力を発見したのは、原初の人たちです。

今では、言葉が氾濫していて文字を含めこの技術は霊力を持つというよりは便利な道具のような位置づけになってきています。言葉でありとあらゆるものを私たちは認識し、言葉によって文明を発展させてきました。実は最初の文明で産み出した最初の道具は私はこの言葉であろうとも思っています。それを書き言葉にしてこのブログのように読めるようにしたことで誰でもその言葉の持つ不思議な能力を使うことができるようになったということです。

しかし話を戻せばこの原始の祝詞というものや、呪言というのはその便利なものとは一線を画しているようにも思います。それは便利なものではないからです。どちらかとえば、扱いづらい、とても手入れが必要で慎重にやらないと大変なことになるというものだからです。

例えば、呪言では呪いの言葉を放てば、その効力を発揮します。それは今でいう劇薬のようなものです。劇薬は毒にもなれば治癒にもなります。しかしその使い方を間違えれば、大変なことになってしまうのと同じです。

修験者たちは、それぞれに「真言」というものを伝承され会得します。破邪顕正、もしくは鬼を祓うなどその真言で行います。まるで金縛りのようにそこから動けなくなったり、もしくは強烈な業火によって焼き尽くすかのような力を発揮します。しかし、まともにそれを使えば、使う側にも大変な消耗があり、危険を伴うように思います。

こんなことを書くと、怪しい宗教の話ではないかと思われるかもしれませんがこれは言葉だけではなく音楽にも同様の力があることで想像できると思います。音楽には、心を穏やかに安らかにするものもあれば、情熱的に快楽を与えるものもあります。これは音楽の持つ霊力がそうさせるといえばわかると思います。

言葉も本質的には同じ作用を持っているということです。

普段から気を付けないといけないのは、思ってもないことを口に出したり、感情的に我に呑まれて怒りにまかせて暴言を放ったりしないことです。その言葉が、自分を傷め、他を苦しませることがあるからです。テレビやネット上では、そのような言葉が氾濫しています。その言葉が書き言葉になることでいつまでも遺ってしまうこともあります。

便利で誰にも使えるようになったからこそ、心を澄ませていつも素直に正直に祝言としての言葉を使うように先人たちと同じように気をつけたいと思うものです。改めて、今年は言葉に気を付けて実践を磨いていきたいと思います。

行事の意味

昨日は、おせち料理を用意し親族も集まりみんなで正月のゆったりとした時間を味わいました。毎年、恒例行事があることで子どもたちをはじめ色々と成長しているのを実感できます。老いも若きもみんなそれぞれの時代において仕合せに過ごせることは安心であり幸福です。

今ではおせち料理というと何種類も何十種類もあるもののようになっていますが本来はとてもシンプルなものだったといいます。平安時代には、高盛されたご飯のようなものだったともいわれています。

もともとこのおせちは、中国の歴である季節の変わり目の「節」が取り入れられたころからはじまったともといわれます。中国では、陰陽五行が紀元前1000年前からはじまっており日本には平安時代に宮廷に取り入れられて独自の発展をしていったものといわれます。これを節分とは言わず「追儺(ついな)」という皇室で行われてた鬼払いの儀式とされています。中国では中国では「大儺の礼(たいな)」として行われていたともいいます。

本来これらの宮廷文化だったものが庶民に入ったのは江戸時代です。明治時代には改暦によって、これらの行事も失われていきました。中国でも清の時代に、これらの風習はよくないと一方的に失われていったといいます。現在では、中国よりも日本の方が五節句をはじめ邪気払いとして独自に進化して残っています。

先ほどのおせち料理も、今のようなおせち料理という名前になって重箱にたくさんの種類の料理が入ったのも戦後だといわれます。バブルの時に、さらに発展して今のようなおせち料理になったそうです。

そう考えてみると、伝統と私たちが信じているものは遡れば最近はじまったものであったり、他国のものであったりといい加減なものであることもわかります。しかし、元を辿ればなぜはじまったのか、何をする行事だったのが本質だったのかと深めれば、その伝統行事を再び、この時代に甦生させていくこともできるのです。

はじまりを知ることは、その行事の意味を知ることなのです。

子どもたちのためにもなんとなく続けているものをもう一度すべて洗い直し、新たな伝統文化として温故知新して息を吹き返していきたいと思います。