チカラを宿す

英彦山のことに関わっていると、太陽との関わりを感じることが多くあります。もともと英彦山はむかしは日子山ともいわれていました。そして考えてみると、卑弥呼というものも日巫女とも呼びます。この日は、太陽のことで太陽のヒコとヒメということになります。

そして信仰の対象には、銅鏡が使われています。この銅鏡は、太陽がうつりこむことでその太陽のチカラを宿すと信じられていたとあります。

鏡というのは不思議なもので、私たちは科学的に反射するイメージしかありませんが光を受けるという力があります。例えば、夜の海や湖のほとりなどで月が海面や水面に映りこみます。よく観察していると、その光が吸収されて一体になっていることがわかります。水中にも入り込み、その力が宿っているかのように感じるのです。これは蝋燭の火などと同じです。

蝋燭だけでなく、炭火の中にも火が宿ります。これはただの反射反応したのではなく、まさに「宿る」という状態になっているのです。そしてこの鏡もまた宿るものです。

美しく澄んで磨かれたものを映せば、その心が鏡に宿ります。その鏡の光を受けることで私たちは何かのチカラが働き心が落ち着いてきます。

神道では依り代という言葉がありますが、これも私の感覚では「宿る」というものです。宿っているからこそ、特別なものになっているということです。私たちの身体もまた魂が宿ったものです。そう考えてみると、この地球をはじめ宇宙、そして万物のすべては宿ることで目に見えるものとして認識されます。それでは宿っているものは何かというと目には見えません。

別に幽霊がとか、スピリチュアルとか、量子力学とか言葉や知識で語らなくても、シンプルに考えてみればこの世のすべてはその道理と働きで完全であることがわかります。

だからこそ私たちは、宿っているという自覚と、その宿っているものとしての生き方というものを見つめ直す必要があると思うのです。なぜ、その姿になったのか、なぜその働きがあるのか、すべてのいのちにはその使命や役割があり私たちはその働きを尊重することで今のいのちを昇華できます。

言葉にするとこの辺までですが、この力が宿るという意識はあらゆるところでこれから感じる必要があるように思います。子どもたちが、いつまでも先人の智慧や叡智を伝承され平和を維持していくためにも本来の自然を顕現させる伝道と実践を続けていきたいと思います。