時勢というものがあります。ある時、急に追い風が吹いてくるように流れが変わる感覚です。これは自然では季節の変わり目や、時間をかけて醸成してきた土が発酵してある瞬間から調和がはじまるようなものです。
これは自分のチカラではなく、何か天の時のチカラが入っているのを感じます。私も、今までの人生を振り返ると何をしても認められず向かい風でまったく前に進めないような状況の時もあれば、自分では無理もせずなにもしていないのに物事が前に進むような時があります。
つまりこの「時」というもの中に、その勢いがあるということです。これは時というものの存在自体が「自然」であるということを意味しています。
そして時勢が働き、自分の生き方が天の意志に叶うという瞬間には自然の加勢が入るということです。これを天の時ともいいます。
人は、偉大な使命や天命に従って己を盡していたら世間の評価は別として己に恥じないように精進することを常とします。それを武士道ともいい、日本には古来から生き方をして恥の文化がありました。侍といわれる人たちは、他人がどう評価しようが己の天命に生きようと志しました。
これは時代が変わっても関係がなく、今の時代にも侍はいます。私利私欲もなく、名誉欲もなく、死よりも大切なもの、つまり恩義や徳に生きようとする。それが侍でしょう。侍という字は、人と寺でできています。これは人であることを守るという意味でもあります。
この「人」というのは、単なる人間のことではありません。立派な人格を持った人間であることを守るという意味です。侍といえば、日本一の兵と天下に評され愛されている真田幸村がいます。
その真田幸村は、最後の戦で徳川家康から10万石で寝返るように声掛けされ、それを断り、その後、信濃一国ではどうかとも打診されます。しかしそれを十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いかと喝破し、その後にこんな言葉を遺しています。
「恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか」
天下は統一され、それぞれが保身で身を寄せ合っているときに本来の侍の生き方を貫いたことでその名を後世にまで轟かせました。本来、武士といえど生き方はその人が決めることができます。そしてその生き方に天が味方することで、奇跡のような力を発揮していくように思います。そして「人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ、勇士の本意なるべし」ともいいます。
孟子は「義をみてせざるは勇なきなり」と、義と勇が同質であることをいいます。吉田松陰は、「義は勇により行はれ、勇は義により長す」ともいいます。
人の心に生き続けるような生き方は、自然に合致した人の姿そのものです。古の言い方では、それを神人合一ともいいます。
時代が変わりますが、生き方はその時代時代で貫いた人たちは出続けます。今の時代は、刀で切りあったりすることはなくなりましたが、義に生きる人はいます。あとは、時勢が傾くまで粛々と地道に時を待つのみです。
子どもたちの未来につながる道にいてこの先の天命がどうなるのか、それはわかりませんが純粋な真心を保ち、日々に勇気を出して明徳を磨いていきたいと思います。