只管打座の暮らし

先日、ある禅僧の方と一緒に瞑想をするご縁がありました。この瞑想というものは一般的には、足を組むなどして座り目を閉じて心を落ち着ける行為のことを言われます。広辞苑(第六版)には「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」と書かれます。

私はこの瞑想の自分なりの解釈は、整えることを言うと思っています。常に暮らしの中で整えながら生活をしていくということ。私の暮らしフルネスは、この暮らしを整えることをベースにしています。

かの道元禅師は、「只管打坐(しかんたざ)」という言葉を遺しています。これはそのまま「ただ ひたすらに坐る」という意味です。その解釈としては下記のように説明されているといいます。

「瞑想を行い、そこから様々な功徳を得ている人は数知れない。あまりにも単純な方法だからといって、その可能性を疑ってはならない。今、自分が存在している場所で真実を見つけることができないというなら、一体どこに真実があるというのか。人生は短く、何人も次の瞬間が何をもたらすかを知ることはできない。心を養いなさい。その機会はいくらでも訪れる。やがて、すばらしい知恵を発見することになるだろう。そうすれば、今度はその知恵をほかの人びとと十分に分かちあい、彼らに幸福と平和を与えることができる。」

そもそも考えてみると、悟りとは何か、修行とは何かということを思います。悟りがあるから修行するのであり、修行するから悟ります。つまりこの悟り=修行は一体のものであり分けられるものではありません。悟ったから修行を終わるのではなく、修行したから悟るのではありません。常に、修行しながら悟り続けていく姿こそが真の道であるということです。

すると座禅というものもそこから考えるとわかります。ただ、座ればいいというものではありません。自分のいる場所で、修行し悟り続ける。この座るという字は、据わるともいわれます。居場所を保つことです。そして坐るというのは動作の漢字であり、座るというのは場に座すということです。

英彦山にも座主がいるように、このその場を創る人は座っているのです。私の場合は、「場の道場」(BA)の座主であるともいえます。どんな状況や環境であっても、自分の生き方や信念に座り続ける。まさに、道元禅師という方はそのような方だったのだろうと想いを馳せました。

私も、このような現代社会の中で人類の本当の生き方、そしてあり方などと正対しているとこの座禅は何よりも必要であることに気づきます。子どもたちが安心して自分の天命を生きられるように私も只管打座の暮らしを実践していきたいと思います。