平和の教育

最近、ロシアとウクライナの交戦の報道が各地から入ってきます。しかし、現地ではどのような感じなのかが体験したことがないのでわかりません。私たちは戦争を経験していない世代なので、映画やドラマなどどこか頭で考えている世界を想像しています。

実際には、ウクライナでは寒い中、食べ物も不足し、不衛生で一般的な生活がほとんどできない中で市民の方々はそれぞれに武器をもったり励まし合ったり支え合って戦争で耐え忍んでいるはずです。

それに攻める方も、大義がよく見えない中で一般市民の人々の抵抗を感じながら早く終わってほしいと願っているようにも感じます。

本当は人のいのちがもっとも理不尽に失われないようにするのが戦争の戦略です。しかし、経済戦争でもいのちは失われるし、実際の戦闘でも失われます。時間的な長短があるだけで、実際には多くのいのちが失われるのです。

そしてこれはどこか遠いところで自分たちと関係がないことが発生しているのではありません。地球は丸く、人も世界もすべて繋がっていますからこれがどのように世界に影響していくかはこれからの未来が決めていきます。

そして人のいのちを奪い合うとき、そこには憎しみや怒りが産まれます。これは何世代も、何十年、何百年とその後の関係を崩していきます。本来、同じ民族だったものや隣人や家族であったものが傷つけあうのです。

本来、仲裁するためにみんなで選出した国連や安保理のリーダーたちがいがみ合うというのはなんとも残念なことです。国というものをつくり、それぞれに富を奪い合って権力によって統一するという構造はいつも終わりはこうなります。

子どもたちの未来に痛ましく暗い影を遺すような舞台をつくるのは本当につらいことです。子どもたちの未来がどう明るく幸福に近づけていけるか、そのために私たちは生まれ挑戦していく必要があると思います。

私は人類が末永く平和でいられるためには人類が施されている今までの価値観や教育という刷り込みの洗い直しだと考えます。これはかつて同じように戦争で子どもたちを守りいのちを失った子どもの権利条約を発案したヤヌシュ・コルチャックがすでに実践して見せました。

私も彼と同様に、いのちを大切にして平和を築くには「子どもの自治」を幼いときから体験し、誰かや大人の勝手な都合でいのちを失わなくていいように子どもに体験させることだと思います。子どもはわかっているし、子どもはそこで平和を学ぶのです。つまり平和とはいのちの教育を学ぶことであり、真の自立を獲得する環境がいるのです。今の政治のリーダーたちがそのことに気づき、間違いを正し、本来、何のために人生があるのか、教育があるのかという目的から再設定しやり直す必要を感じます。

こういう時こそ、私たちは真の教育の意味を考える時機だと私は思います。子どもたちのためにも、私の役割を果たしていきたいと思います。