清らかな生き方

先日、清々しい人にお会いしました。この清々しいというのは、けがれがなく気持ちのよいさまだと辞書にはあります。「清」の字には、水が綺麗で澄んでいることや、心や行いにけがれがないこと、気分が良い意味です。そしてこの「清々しい」は、この「清」の字を重ねることでより一層清らかさや爽やかさを表現する言葉です。

その清々しいの対義語は、気が塞いで晴れ晴れしない、あるいは気持ちがよくないという意味で「鬱陶しい」「鬱屈した」「不快」「気持ちが悪い」「癪に障る」「邪魔」という言葉があるといいます。

この清々しいのことを調べていると、お金に対して清々しいという言葉とお金に汚いという言葉のことを知りました。お金に対して清々しいや綺麗という人はどのような人なのか。

以前、悪いことをして得たお金を貰いたくないという人に会ったことがあります。あるいは、自分だけが得をして独占するようなことをしたくないという人にも会ったことがあります。または、いつもお金に助けてもらっていると感謝して使っているという人にも会ったことがあります。そして托鉢や浄財によって暮らしをととのえている人たちにも会ったことがあります。

そういう人にお会いすると、清々しい気持ちになった記憶もあります。これはお金のことを感じたのではなく、その人の生き方のことを感じたのです。

人間は、どうしても自己中心的です。そして道具や物を自分の都合のよいように使うものです。しかし、その使われる道具もどのようなことに使われるかで使い手の人柄が道具に現れます。みんなが喜ぶように、また仕合せになるようにと願いながら使う道具にはどこか徳が具備されていきます。しかしその反対に、戦争や不幸の傍で使われるものはどこか殺伐としてきます。

不思議なことですが、同じことをやる道具にしてもそこに清々しさや汚さやケガレのようなものがあるのです。私が尊敬しているむかしの侍は、道徳規範を持ち、大義や忠義を重んじ、人として恥ずかしいことをしないという生き方を示した人たちがいました。

その清々しさというのは、いつまでも心の規範として心に宿っているものです。どの時代でも、生き方を磨いて清々しくしていくことはできるものです。透明な水のように清らかな人に会うと、心もまた清らかになっていきます。

そんな生き方を学び、子どもたちにも清らかな環境をととのえていきたいと思います。