時を待つ

松下幸之助さんの残した言葉に「時を待つ心」というものがあります。素晴らしい内容で何度も読み返したいものです。

『何ごとをなすにも時というものがある。時、それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就(じょうじゅ)せぬ。冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。

わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つことは僥倖(ぎょうこう)を待つに等しい。静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。

時を得ぬ人は静かに待つがよい。大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。

待てといわれればなおあせるのが人情である。だが、自然の理はわがままな人情には流されない。冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。おたがいに時を待つ心を養いたい』(道をひらくより)

最近、特に静けさということを深めているとこの時を待つということを意識することが増えてきました。じっとしているのではなく、待っているということ。この待っているというのはとても静かな力であるように思えるのです。もともと私はせっかちですが、意外と大切なことはずっと待つことができています。この待っているときは、何もしていないのではなく時が醸成していくのを静かに待っているのです。

この時の醸成とは一人でできることではありません。絶対的な他力が入ってくるのを待ちます。それは志が一人ではとてもできないことだからこそ、すべてが集まってくるのをあらゆるハタラキを活かして待ちます。

天に龍が昇る時を待つ心のように、その時を静かに見つめます。静かに見つめていたら、時が満ちてきます。ひょっとしたらその時、私はもう寿命が尽きる寸前かもしれません。あるいは、最も最高の状態で迎えることができるかもしれません。それは私が決めるのではなく、天地自然のハタラキが決めます。

私は、場に佇み、風を読み、水を捉え、火を保ち、土に還り、木を植え、金を打ち、月を眺めて日を拝む暮らしをするのみです。どこに陣取るか、趨勢を見極めて時を待ち続けます。

私の取り組んでいることは、あと何年後に水面に現れるのか、5年か、10年か、もしくは100年か1000年か、わかりません。でも動かずにじっと祈り念じ続けています。

時を待つというのは、何よりも自然ないのちの姿であり謙虚で素直な心でもあります。一期一会の人生、妙味を味わい徳を積んでいきたいと思います。

屈原と真心、粽の祈り

先日、粽(ちまき(のことを深めていたら中国の屈原という人物のことを学びました。もともと端午の節句の食べ物として慣れ親しんできましたがその理由についてはあまり調べていませんでした。時期はズレていますが、少し紹介したいと思います。

もともとこの端午の節句や粽(ちまき)中国の故事にある楚国の詩人屈原(くつげん)の死を供養するためにはじまったものです。この屈原は、王様の側近でしたが陰謀により国を追われ悲観しついには河に身を投げてしまいます。この屈原の命日が5月5日でその屈原の死を嘆いた人々は米を詰めた竹筒を投じて霊に捧げました。理由は屈原の肉体が魚に食べられないようにという意味もあったそうですが同様に河に住む竜に食べられないようにと竜が嫌う葉で米を包み五色の糸で縛ったものを流し供養したといいます。

この風習が日本へは奈良時代には伝わり平安時代では宮中行事になったといいます。他にも神功皇后が三韓征伐の時持ち帰ったとも言われたり仁徳天皇の時代にちまきが宮中に献じられたと言う話、他にも伊勢物語や古今和歌集などに記述があるなどとあります。この「ちまき」と呼ばれるようになったのは、茅(ちがや)の葉が使われたことからつきました。

現在は笹の葉を巻いていますがこれも武士が戦に行く時にもっていくときに殺菌効果もあり腐らないからというのもあります。屈原との縁起を持つこともあったように思います。

では、屈原どのような人物であったのか。日本でいえば吉田松陰に似ているような気がします。澄んだ心で権力に媚びずに王と故郷を守ろうと真摯に忠義を貫きました。王が暗君でも政治が乱れていても、変わらずに自分の言葉と実践を大切にされました。別の言い方では、魂を守り生き方を優先した人生でした。その姿をみた国民や周囲の人々から深く愛され、亡くなってからその真価や徳が顕現した人物です。

自分に素直に生きていくことはもっとも価値があることです。しかし時としてそれは世の中が乱れているときは不器用な生き方です。もっとうまく生きていけばいいという声もあるでしょう。しかし、人生は一度きりですし自分も一人きりです。だからこそその人生おいて、魂を優先して歩み切ったのでしょう。

その清々しい姿、澄んだ真心に人々は心をうたれ歴史の中に生き続けて今もあります。粽はその生き方を尊び、最期まで自分を盡すことができるお守りでもあったのかもしれません。先日のソクラテスも同じですが、この世の自分を守るよりも真の自己を守る生き方。魂を研ぎ澄ませるような美しさは、私たちに目を覚まさせる力を持っています。

最後に、屈原の残した言葉です。

「この世すべて濁るとき、清めるは己れだけ、人々みな酔えるとき、正気なのは己れひとりだけ、されば追放の身となった。」

今の時代も通じることですが、先人の生き方から学び、暮らしを観なおし続けていきたいと思います。

知恵風の知識

ソクラテスという人物がいます。わかっている範囲だと、古代ギリシアの哲学者。アテネに生まれる。自分自身の「魂」(pschē)をたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事とした人とあります。

有名な名言に、「無知の知」や「徳は知である」などがあります。特にこの「無知の知」(または「不知の自覚」)は自分に知識がないことを自覚するという概念のことです。

これは「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」という意味です。これはある日、友人のカイレポンから「アテナイにはソクラテスより賢い者はいない」と神託があったことを知り、自分が一番の知者であるはずがないと思っていたソクラテスはその真意を確かめるためにアテナイの知識人たちに問いかけを繰り返していきます。そしてその中で「知恵があるとされる者が、必ずしも本物の知恵があるわけではない。知らないことを自覚している自分の方が彼らよりは知恵がある」と気づいたという話です。

私はこれは知識の中には知恵はなく、知恵の中にこそ真の知識がある。みんなが知識と思っているものの中には知恵がなかったということでしょう。

これは現代の風潮をみてもわかります。最近は特に、自分で体験せずに知識を得たい人が増えています。実践も体験もせず、気づいたこともなく、気づいた気になれるもの、わかった気になれるもののためにお金を払って知識を購入しています。

お金持ちは時間がもったいないと思い、体験しなくてもその知恵をお金で買おうとします。しかしその知恵は、知恵と思い込んでいるもので本当の知恵ではなく知識です。知識を知恵と勘違いしているからそういうことをしようとします。

オンラインでの講習会や、流行りの講演にいっても知恵のように知識を話していますがその知識は使おうとすると知恵が必要です。しかし知識が知恵になることはなく、知恵だけが知恵になるものです。知恵は知識にはなりますが、それはあくまで知恵を知識にしただけで知恵ではありません。

なので知恵者とは、徳のある人物のことであり、徳を生きるものです。これは世の中のハタラキそのものが知恵であるから使えています。

例えば、二宮尊徳はある知識のある知識人が訪ねてきたときに「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。それでその知識人は紙に豆の字を書くと、尊徳は「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と答えたという逸話があります。

これは知恵についての同じ話です。

私は本来の革命は、知識で起こすものではなく知恵がハタラクものであると思います。人類を真に導くには、文字や文章、言葉ではなく知恵が必要なのです。知恵風では真に世界は変革しないと私は経験から感じています。私が「暮らしフルネス」にこだわるのもここがあるからでもあります。

生き方と働き方というのは、単に知識で理解するものではありません。体験して気づき実感して真似ることで得られます。子どもたちのためにも、今日も実践を味わっていきたいと思います。

知恵の甦生

知恵というのは、もともと知識とは異なり使っている中でなければ観えないものです。つまり止まって理解するものではなく、実践したり体験する中でこそはじめて実感でき観えるものともいえます。

例えば、昨日、暮らしフルネスの一環で滝行をしてきましたがこの滝も流れる中でしか滝のいのちを感じることはできません。いくら口頭で滝の話をしたとしても、滝が持つ徳は滝の中ではじめて活かされるものです。

さらには、この滝が知恵として感じるためにはその滝をただの文字や言葉だけにしない知恵の伝道者が必要です。この伝道者は、その価値を知り、その価値を学び、その知恵を正しく使い続けてきた人でなければなりません。

むかしから伝統の職人たちのように、意識を継いでいく人があってはじめてその真の技術が温故知新されアップデートしていけるようにその本になっている知恵が伝承されなければ伝統はつながりません。

つまり知恵こそ伝統の本質であり、知恵を活かす人こそ真の伝承者ともいえるのでしょう。

時代は、時代と共に時代の価値観があります。戦国時代の知恵の活かし方は平和な時代は使えません。その逆も然りです。つまり時代に合わせて価値観が変わっていくのですから、知恵はそのままに使い方や仕組みは変える必要があります。

先ほどの滝行も同じく、一昔前の使い方をしていても知恵が伝わりません。知恵を伝えるには、今の時代の使い方、活かし方が必要になるのです。これは意識も同じです。現代の知識優先の考え方を意識優先の生き方に換えていく。そうすることで、眠っていたり忘れていた知恵が甦生していきます。

知恵の甦生は、人類のこの先の未来、子孫たちの永遠の仕合せには欠かせないものです。地球がバランスを保つように、人類もまた長い歴史の中でバランスを保っています。この時代は、バランスを保つために舵をきる必要がある時代でもあります。

子どもたちに真の知恵が伝道していけるように、暮らしフルネスの実践を積んでいきたいと思います。

マインドフルネスの知恵

昨日から暮らしフルネスの研究でアメリカから来庵されています。こちらの方は、幼い頃に仏教の本を読んで興味を持ち、学生時代に西本願寺に留学をしそのあと大学でマインドフルネスの研究を通して博士論文を書いておられます。

お話をお聴きしていると、修行や座禅が心地よくそこからマインドフルネスに没頭していったといいます。この心地よいという感覚は、精神がととのっていく感覚と似ています。一日活動をして、ゆっくりと眠ります。その眠りのときは次第に交感神経と副交感神経がととのっていくので心地よいと感じます。

私たちは、この心地よいという感覚を通してバランスのことを直感します。

例えば、現代は頭や目を酷使する生活をしています。目で追いかけて脳が処理するという生活を続けていくと、心身の一部に負荷がかかって疲労していきます。その疲労がたまってくると、バランスが崩れて心地よさが失われていきます。

そういう時に、頭や目を休め他の感覚を使うことで心地よさも戻ってきます。このバランスを保つというところの知恵こそが、私の暮らしフルネスの実践でもあります。

人の心はいろいろなことを思い浮かべてきます。その心が感じていることに従い、初心を忘れずに歩んでいくと心がどうしたいのか、何をしたがっているのかが少しずつ実感できるようになります。内省や内観をしていると、本当は何をしたいのかということを思い出します。

言い換えるのなら、煩悩というのはこの世の色々な出来事や外からの影響が出ますから色々なことを考えているうちに初心を忘れてしまうことに似ています。その初心を忘れないようにするために、日々に心身の掃除をしていく。そしていつもととえた環境を用意する。そういうことを繰り返していく中で、心地よい暮らしができるようになってきます。

この心地よい暮らしは、初心に充たされる暮らしでもあります。

初心を伝承し続けることで、私たちは自分というものの存在を丸ごと活かすことができます。お寺でなくても、宗教がとくになくても、自分の初心や生き方を通して修行はどの場所でもどの時間でもできるように思います。

子どもたちにも初心が伝承していく知恵を譲り遺していきたいと思います。

徳を喜ばせる

先日、来庵されたある人から徳の話をお聴きする機会がありました。この徳の話は、先祖の話です。今の私たちがあるのは先祖たちの徳積みの御蔭様です。それが連綿と続いて子孫へと譲渡されていく。その時、自分はその徳をどうするのかという話です。

もしも自分の目先だけで見たら、その徳を貰って使うことを考えていくかもしれません。しかし、もしも先祖側に自分がいたとしたら、今の自分がどう観えているだろうかということです。

先祖は、今まで積んだ徳で子孫が何か大変なとき、本当に困難に遭う時、今までの積んできた徳をその子孫に送るそうです。そうやってその子孫がその大変や困難を乗り越えさせてもらうことができるといいます。それが病気であったり事故であったり、家族の様々な困難の時に乗り越えることができるような御蔭様が働きます。

しかしそこで徳を使ってしまいますから、その先の子孫への徳はある意味で減ってしまうともいえます。だからこそ、人は自分で使ってしまおうとはせず子孫に少しでも増やして残るようにと精進して徳を積むという話です。

親になれば、自分のこと以上に子どものことを祈ります。子どもが健やかに仕合せになってほしいと切に祈ります。すると、子どものために何ができるのかを考えます。お金を残す事か、財産を残す事か、土地を残す事かなどとも考えるのが現代かもしれません。

しかし、かの西郷隆盛も子孫のために美田は買わずといっていたように財産を残すことを良しとしませんでした。では西郷隆盛は何を遺したかということです。これは徳であることはすぐにわかります。

徳を積み、徳を譲れば、子孫たちはその徳に守られていきます。それは人脈であったり、遺徳が人々の心を救うことになったり、様々な徳が循環して世の中をさらに善いものにしていくことができます。

自分に徳を使うよりも、自分で徳は使わずに、新たに徳を積み続けることの方が子孫や子どもたちが幸福になると思うと苦労すること、徳が積めることが仕合せに感じます。

これは実は、今が仕合せであるということ、何もなくても徳が積める喜びに気づけるということでもあります。徳積み循環の話は、どこか理想論のように思われることもありますが徳を積む経営であったり、徳を譲る仕合せのことは、人間はどこかで必ず心に通じることがあるように私は思います。

それは今の自分があるのは、何の御蔭様であるかということを気づくことができるからです。このいのちも、先祖の御蔭様で存在します。そういう徳がいつまでも自分に備わっていることを知り、感謝で自他全体の喜びに活かしていこうとすることが徳を循環させていくための大切な仕組みであり知恵であろうと思います。

子どもたちのことを思えば思うほど、この徳を積むことに向かいます。子どもが永遠に仕合せな世の中にしていけるように徳を喜ばせていきたいと思います。

暮らしフルネスの場数

情報過多の時代、脳の認知も過労になります。以前、修験道のことを英彦山の禰宜さんにお伺いしたときに深夜からずっと山歩きをして身体感覚が極限まで過労したときに何も考えなくなることがいいということを聞いたことがあります。

きっとその時、脳の認知がなくなり力が脱落して空や無の状態になるように思います。脳は、あらゆるものを仮想に創造しますから今ここにあるという意識を遠ざけてしまうのかもしれません。

しかし本来、脳は、短期的な危険を未然に察知したり想像をしたりするのにはとても大切な役割を果たしています。しかしそれが行き過ぎると、疑念や不安などをつくり実際にないことまで創り出したりそれを事実だと思い込んだりもします。思い込みの強さというは、記憶を捻じ曲げていきます。人は世界をそれぞれに持っていて、それぞれの世界を生きています。

事実が同じであってもある人は、平和で安心の楽観的で穏やかな世界に暮らしていたり、あるいは疑心暗鬼と不安、悲観的で恐怖の世界に暮らしていたり、それはその人の心の持ち方で決まっていきます。

心の持ち方というのは、常に初心を忘れずに今起きていることを意味づけして自分のありたい方へと転換していくような実践です。つまりどんなことがあっても、「これでいい」とし、それを上手に受け容れて目的に回帰していく原動力にしていくということです。

古語にある「禍転じて福にする」というのもまた、心の持ち方の実践ともいえます。

脳の認知に縛られないで心の在り方の方に軸足を置いていく。バランスを取るというのは、身体の重心や軸を保つということに似ています。背骨が一緒についていきながら移動していくように、初心が一緒についていくように移動させていくということ。

何のためにこれをやるのかということを、忘れないでい続けるというのは日々の自己内省と自己鍛錬によるものです。

よく考えてみると、人間は自己を真に育てあげていくことで世界を変えていくことができます。どのような世界にしていくかは、一人一人の心の中にあります。その世界になるようにするには外側の世界に軸足を置くのではなく、あくまで軸足は自分の世界をととのえていくことに置き、バランスよく移動していくことに似ています。

脳と身体の関係もまた、日々の暮らしをととのえていくなかで磨いていくのかもしれません。小さな日常の移り変わりの中においても、大きなハタラキがあることを知り、そのハタラキが世界を真に豊かにするということを知覚できるのもまた日々の精進です。

心静かに、暮らしフルネスの場数を増やしていきたいと思います。

日本人を結んでいく

昨日から暮らしフルネスの体験で、熊本の保育園の先生方が来庵されています。こちらの園は子どもたちに対する保育はすでに非常に素晴らしいのですが、子どもの心のふるさとになるためにさらなる高みを目指して全員で取り組んでおられます。

以前、こちらの園で獅子舞を拝見する機会がありました。ここでの獅子舞は、単なるセレモニーとしての獅子舞ではなく私が幼い頃に畏怖を感じ、武によって守られているという実感を得たものでした。子どもの頃のそういう体験は一生忘れず、何か大切な背骨と繋がって残っているように思います。

当たり前ですが、改めて何が日本人であるのか。日本人とは何か。これを本当に実感として子どもたちに応えられる大人がどのくらい今はいるのだろうかと思います。

例えば、日本に生まれれば日本人なのか?両親の血がずっと日本であれば日本人なのか?DNA検査で日本人であれば日本人なのか。確かにそれも同じ日本人と呼ばれるものです。

しかし本当の日本人とは何かということは、意識の中にこそあるように私は思うのです。もっと深く考えたら、それは日本人の知恵を伝承し続けている人たちのことをいうように思うのです。

今の私たちは、先人たちの体験の集積によって存在しています。あらゆる体験を通して、先人たちが得たものは知恵です。その得た知恵を組み合わせて統合されてきたものが日本人の精神の中に存在します。その日本人の精神をそのままに受け取り、そしてそれを温故創新し続けることで日本人であることを保つことができるように思うのです。

現代は、形式だけ日本になっている事例がたくさんあります。これは知識としての日本っぽいもの、私の嫌いな言葉では「和風」にしたということですが和風と和ではそこに天地の開きがあります。

和であるということは、統合されたままの意識を保っているということでありこれは日本の文化が背骨に入っていてそれがいつでも活かし使える状態になっているということです。

ある意味、私たちは記憶を伝導していくための器みたいなものです。これは道具も同じく、使い手の魂が宿り道具もまた記憶を伝えていくための器です。この記憶は知恵であり、この知恵をつなぎあわせて結び合わせる存在が今の私たちということになります。

自分が先人たちにそうしてもらったように、私たちも同じように子孫にその記憶や知恵を結んでいく。そこにこの人生の大切な使命を感じるのです。

子どもたちがこれからどのように保育の中で、その記憶や知恵を伝導し伝承されていくことになるのか、暮らしフルネスの実践がこれから楽しみです。

第一回仙人苦楽部 

仙人苦楽部の第一回目が無事に開催することができました。志のある仲間たちが各地から参加してくれて、温かい雰囲気で知恵を分かち合うことができました。むかしの学校、むかしの真似び方を体験できる素晴らしい機会にもなりました。

オンラインなども要望がありましたが、やはりこの「場」の中にこそ言葉では語りようのない非言語の対話もあり、意識を通じ合わせることでしかわからない波動のような身体感覚を味わうことができます。

人のご縁というものや場との出会い、時空との邂逅というのは私たちが言語を持つもっと以前から私たちに備わっている大切な感覚です。その感覚を取り戻していくなかで私たちは現代人にとって失われつつある知恵を甦生させていけるように思います。

今回は、夕方からの開催でしたので伝統的な神事を実践しているむかしのお米を小豆と一緒に炊いて発酵させた酵素玄米のおむすび。このおむすびも息子が丁寧に真心を包んでくれました。また聴福庵で8年間付け足しながら育ててきた無農薬大豆で吉野杉樽で発酵した手前味噌でつくった豚汁。あとは友人のミソラボさんのお手製の肉味噌と、野草を楽しむ音さん夫妻のウーロン茶や実家の野草茶などを振る舞ってくれました。

その後は、7歳の子どもが法螺貝を一緒に披露してくれて場をととのえました。これらはオンラインでは体験できないものです。

豊かさというものや仕合せというものは、「場」を通して実感することができます。そしてその場の中には、あまりに深く複雑な意識が統合融和してみんなが共感しあえます。これもまた知恵の仕組みの一つです。

人間は、仕合せを感じたり安心を感じると免疫が高まります。認知脳ばかりを使って疲弊していますが、その分、思い込みばかりが先行してなかなか心が安まることができません。思い込みではなく、心を開いていくには同じ場で釜の飯を食べるというのもまた一つの先人の知恵でしょう。

私たちは知恵をもって生きてきましたし、その知恵を先祖そのもののように大切に供養して使い続けてきました。いつまでも知恵と共に先祖が生き続けられるようにと、子孫を見守り続けてきたのです。

子どもたちがこれから100年、1000年と生き延びていくためにはこの先人の見守りを伝承していくしかありません。短期的な文明の発明品にのみ頼ってしまったら、何世代もかけて得てきた知恵の力を借りることができなくなります。子どもの仕事をしてきた私たちだからこそ、本当に人間の生きる力とは何かを突き詰めてきました。

この場、この山、この人と三位一体になってこれから新たな道を切り拓いていきたいと思います。

今を守り続ける

私たちが存在している今というものは、過去も未来もすべて混然一体になったものです。つまり一つのものです。その一つのものを今という認識をしますがこれは今を変化し続ける存在であるということです。

その「今を保つ」というのはどういうことでしょうか。

それは今を常によりよくしていくことに他なりません。今をよくしていくというのは過去にも未来にも執着せずに今を創り続けていくということです。そのためには、どのような未来にしていくか、そして過去はどのように積み重ねて体験してきたか、その連続と継続の中の意識が重要になります。

今の意識をどのように保っているか、それが今を保つということです。今というのは意識です。この意識を一瞬一瞬何に傾けているのか。意識を変えていくというのは、目には見えないハタラキを動かしていくということに似ています。

この世の現実というものは、その物質、意識、両方が活動して顕現してきます。この現実の世の中においてどのような意識を保つのか、これは一つの生き方の実践です。

意識というものは、目には見えませんが人づての意識を通してそれがいつまでも受け継がれていきます。伝承者たちがその意識の存在を受け取り、それを磨きその時代に相応しいものに変化させていきます。そうやって常に意識を新鮮に保つことで、意識が甦生し続けて新しくなります。

私たちの身体が生死を繰り返して新しくなっていくように、意識もまた生死を繰り返して新しくなっていくように私は思います。そしてこれは、身体感覚との調和によって結ばれていくように思います。この結びは、かつては「むすひ(産魂)」ともいいました。万物のいのちが衰えて失われそうなときに甦生させる古来からの知恵です。

私の言う、甦生でもあります。この甦生は、徳を磨くことで行われます。そしてこの徳を循環させることであらゆるものが結ばれていきます。暮らしフルネスもまた同じ仕組みです。この方法や仕組みは私がつくったものではなく、むかしから日本に伝承されてきた仕組みを今の時代ならどの道具でやるのかということを温故創新しているに過ぎません。

今は、自分自身と意識が結ばれ続け、世界全体の意識と結ばれ続けていくかで由ります。縦軸と横軸が結ばれて、円環していくかのような感覚です。

子どもたちがいつまでも仕合せな暮らしが続けられるよう、今を守り続ける力を結び甦生させていきたいと思います。