使命を果たす

今というのは歴史の積み重ねの上に存在するものです。目には見えませんが、今までのことは目には見えないものに刻まれて記憶に記録されています。その経験が知恵になり、いつまでも子孫たちの暮らしに結ばれていくのです。

知恵というものは言い換えるのなら先人の偉大な徳です。

その徳を用いるということは、先人たちの経験して得た記憶や記録をいつまでも忘れずに使い続けるということになります。それが私たち人類が、バトンをつなぎながら生き延びてこれた理由でもあり、連綿と結ばれ繋がるご縁の中で活かされる由縁でもあります。

つまり徳というのは、ずっと積まれ続けているものであり私たちも同じようにそれを積み続けて次世代へといのちを繋いでいく使命があるように思います。積まれ続けるというのは、結び続けるというのと同義です。

この結び続けることが、結(ゆい)でもあります。この結に記録していこうとしたのが、結帳でもあります。この結帳を私は現代に甦生させたものが、徳積帳です。この徳積帳は、知恵を結集させたものでもあります。

もともとこの徳積堂がある場所には、八意思兼神という神様をお祀りした神社があります。これは八百万の神々の知恵を集める神様です。衆智を集めていくというのは、日本人の和の精神の奥義でもあります。

これから本格的に徳積帳をつかって世の中に新しい経済と教育の一致に取り組んでいきます。二宮尊徳が報徳といい、それを至誠、勤労、分度、推譲といって経済と道徳を一致する仕組みを創造したように私もこれからその心田開発を暮らしフルネスで実現します。

どのような未来になるのかわかりませんが、残りの人生、子どもたちのために使命を果たしていきたいと思います。

歴史の糸

歴史を学ぶと後から色々と何が本当だったかということを考えさせられることがあります。歴史は勝者の歴史といって、後の人が書き換えることができます。自分に都合のよいように書き換えることで、自分たちの正当性を証明していきます。

しかし本来、歴史の真実はそういった勝者のものではなく本当にあった事実のことを言います。現実には何が起きたのか、それを洞察し、現地を訪ね、事実を明らかにするなかで今までつながってきた本当の意味や理由を学び直すのです。

太古のむかしから私たちは、何を信じてどのように暮らしてきたのか。そこに様々な文化が流入し、文明がさかえてきました。その中で、権力を持ち、人間が人間を統治するなかであらゆる価値観が誕生してきました。

信念を持って生きた人たちが、また別の信念を持っている人と衝突したり融和したりと、人類は常に形をかえども同じことを繰り返してきました。

そのいくつかは対話で実現したもの、またあるいは暴力によって実現したものもあります。どちらにしても、消し去っているように見えて消えていない歴史がありその歴史を受け継いでいく人が現れていきます。歴史は人間の生き方や生き様を表現しているものであり、どう生きるのかを学び直すものです。

岡倉天心が「われわれは、われわれの歴史の中にわれわれの未来の秘密がよこたわっているということを本質的に知る」とも言っています。

未来は歴史の中にすべて備わっているともいえます。またカーライルは「現在というものは、過去のすべての生きた集大成である」ともいいます。

歴史と現代と未来をよく学べば、その中に一本流れている真実が奥の蔭に隠れていることに気づきます。

子どもたちのためにも、その一本の糸を丁寧に紡いで今を生き切っていきたいと思います。

危機に備える

世界情勢や気候変動など、色々と変化が著しい時代に入ってきました。昨日も悲しい事件があり、この国が平和ボケしていることを改めて実感しました。そもそも平和ボケというのは、知識だけで物事を考えているということです。本能や直観、野生などを失い、生きる死ぬの自然界のように必死にすべての感覚を鋭敏に研ぎ澄ませて覚悟をもって油断なく生きるのではなく決して自分は死ぬことはないだろうと安心しきっている状態です。

実際にウクライナの進行のときも国民の声は、まさか本当に攻めてくるはずはないだろうとほとんどの人が思っていたようです。同時にロシアの軍の方も、いつもの訓練だろうと思っていたようです。実際には、政治や国同士の間はそれぞれに利権も利害もありますから遊びではなく本気でやりあっているものです。

現在、日本も地理的に緩衝国であり戦争がひとたび起きれば日本が戦地になるような場所で侵略されるかもしれないところです。

テレビやマスコミの情報をうのみにするのではなく、歴史を学び、今、何が起きているのかを今一度自分の頭と心で真摯に考えてみなければなりません。

一番危険なのは、まさかそんなことがあるわけがないという思い込みでしょう。

この思い込みは、正常性バイアスともいいます。想定外の事態でも平穏に過ごすために生じる心のメカニズムです。心の平穏を保つための機能ですが、本当の危機への対策や予防には逆効果になるものです。

むかしからリーダーというのは、危機に対して先に声高に危ないことをみんなに伝えます。誰も大袈裟だとかそんなことはあるわけないと、その人を無視するかご馬鹿にしたり、もしくは不安を煽っているなどといって犯罪者にしたりします。歴史をみても、危機に対して動いているリーダーたちは変人や狂人とよばれるものです。

明治の頃も、吉田松陰などはその最たるもので周囲から頭がおかしいといわれていました。しかしそれでも国難を憂い、誰よりも行動しその危険性を世の中に訴え続けていました。その御蔭で、寸でのところで有志達がたちあがり世界からの侵略に立ち向かう力を持つことができました。

時には牢に入れられ、時には暗殺され、時には罪を着せられてもです。

平和ボケにならないようにするには、みんなが今一度、現実を直視してみる機会を持つことです。そしてその現実に対してどうあるべきかを議論して行動することです。

子どもたちの未来が憂うものにならないように今できることで草莽崛起すべきです。志を持った人たちが、リーダーになりみんなで平和ボケを取り払っていけばきっと仲間たちが未来を導いていきます。

悲しい事件を無駄なものにしないように、この機会と意味を受け取ってそれぞれにリーダーとして立ち上がっていきたいと思います。

思想と技術の両輪

現代はインターネットで便利になっていますからすぐに情報を入手することができます。特に、思想を持って発信する人が多いのでその面白い思想を知識層の人たちが必死に集めては購入しているような時代です。しかし、その思想がいくらあってもそれを実現する技術は簡単には購入できません。思想と技術は両輪ですから、その両方あてはじめてそれを活かすことができるともいえます。

私も色々と新しいことに取り組んでいますが、その新しいことはほとんどすべて歴史や先人たちが残して譲ってくださったものを甦生しているだけです。私は甦生家ですからやっていることは目新しいものではなく、古いものを磨いて新しくする方の新しいことに取り組みます。

すると、どうしてもそれを新しくするのに技術が必要です。言い換えれば、磨く技術、掘り起こす技術、組み合わせる技術、寿命を伸ばす技術などがあります。そういうものを用いて思想を一つ一つ技術と調和させて知識と知恵を顕現させていきます。

知識というものは、本来は知恵を説明していくものです。知恵を悟った人たちが知恵を用いるのに知識を使ってみんなにわかりやすくするという具合です。しかし知恵がなくなり知識だけになって、知恵があったらしいということになると本末転倒です。

便利さというものにはそういう安易に知識だけで知恵を使おうとするところに問題が潜んでいるように思います。実際には、意味があって意識があって知恵がつながっているからこそ真に活かさせるのであってそれが失われてしまえば意味のないただの物になってしまいます。

道具というものも本来は意識や知恵とセットで用いられるものです。知恵こそ先人たちが守り伝えてきた思想の本懐であり、その思想の価値をその時代時代に甦生させてこそ技術は真に向上したように思うのです。

現代の技術は、どこか技術だけが独り歩きしているように感じてなりません。思想と技術が両輪であることこそ、人類をはじめ地球を仕合せにしていく未来が続いていけるように私は思います。

この場でカタチにして一緒に学び合うことで、思想と技術で世の中を救う仕掛けを顕現させていきたいと思います。

生き延びる知恵

人類は知識を持ったことで現代のような発展を遂げることができました。しかし同時に、自然というものから遠ざかり自然の知恵が失われていきました。動植物たちや微生物にいたるまで地球の徳と共に生き、この地上の楽園を謳歌しています。それは自然と共生する道であり、地球は生き物たちにそれぞれに固有の徳や才を与えます。

それを活かし、それぞれに暮らしを通して智慧が伝承されいのちは永遠に活かされているともいえます。

当たり前のことですが地球がなければ私たちは存在することができません。地球の生命体の一部として私たちも存在していますから、この星と共に私たちはいのちの循環の一部を担っています。

だからこそ地球の循環の影響を受けています。現代は環境問題のことを騒がれていますが、実際には自然災害のことです。このままでは自然災害をどう乗り越えることができるのかという問題に直面しているということです。だいぶ先の問題ではなく、もう結構近くにまで自然災害が訪れる足音が聞こえてくるのを感じます。

それは気候変動をはじめ、極の移動など、目に見えて変化が訪れているからです。それを人間の科学の力で乗り越えていこうとしていますが、実際には人間の科学の力などで自然災害に太刀打ちすることはありません。歴史をみたらほぼ適わないことがわかっています。

だからこそ昔の先人たちはどのようにこの難局を乗り越えてきたかを学ぶ必要があります。それは自然を征服するのではなく、自然の知恵をお借りするのです。自然に対しては自然で対応する。柳生新陰流のような無刀取りのような境地で、相手の懐に入るのです。

日々に知恵を失わないように知恵を使い続けることが、本来の暮らしです。私の暮らしフルネスは、日々に五感を研ぎ澄ませ、野生の直観を失わない仕組みでもあります。

子どもたちがこの先の未曽有の自然災害に出会うとき、今の私たちの取り組みは果たしてどれだけの子どもたちのいのちを救うのでしょうか。そんな無責任なことで誰かがやると任せてもいいのでしょうか。

誰もやらない、しようとしないことだからこそ愛が必要です。愛をもって、伝え続けること、承り続けることが人類を救い、未来の希望を紡ぐことにもなると私は思います。

暮らしフルネスを実践し、自らがその取り組みのなかで周囲を包んでいきたいと思います。

徳循環の世の中へ

私たちの今の暮らしの中には先人の知恵が溢れています。しかしその知恵は正しく伝承されなければ、単なる知識になって伝承されることはありません。本来の伝承は、伝える側と承る側がそれを知恵のままに伝授されることではじめて成立するものです。その理由は、それが智慧でありいのちであるからです。

いのちというと、今は生き物のことをいいます。もしくは心臓のことを言ったりします。しかし実際のいのちというのは、光であったりお水であったり、または伝統的な文化のことなどもまたいのちです。つまりいのちというのは、目には見えませんが意識をすれば意識の中に存在していてそれを観える意識の人たちが観えるままに引き継いで子孫へと伝承していくことでいのちのままで存続することができます。

いのちを絶やさないというのは、私にしてみれば意識を絶やさないという意味です。常に意識を保ちいのちのまま、知恵のままにしておくことでそれは永続することができます。

その行為を私は「お手入れ」と名付け、暮らしフルネスの極意でもあり実践とも呼んでいます。そして別の言い方では、徳を積むともいい、それを循環させることで道徳と教育の一致、つまり真の伝承育とも呼びます。

私たちは心のふるさとというものをみんな持っています。それは地下水脈に隠れて今では水面下ですが、それを汲み上げれば滾々と湧き出る泉のように流れてきます。それを飲み、私たちはまた元氣を甦生し、健康で長寿、仕合せ、真の豊かさを得続けることができます。

本来、この地上に存在し地球の楽園にいのちがあること、いのちと共にあること以外の仕合せなどはありません。足るを知るというのは、このいのちだけで充分ということを悟るということだと私は思います。いのちだけで充分というのは、いのちが充実する喜びのことを言います。

知恵が伝承していくためには、知恵を伝承されていのちを守り続けて使い続ける人たちを集めて繋いでいく必要があります。その知恵を暮らしの中で使い続けている存在のことを私は仙人と定義しています。仙人は、時代を超え、時空を超え、歴史に生き、歴史をつなぎ、歴史を創造し続けていく存在です。終わった存在ではなく、今もなお、知恵を受け継ぎ心のふるさとを思い出せる存在です。

その仙人たちを掘り起こし、地下水脈から文化という水脈を汲み上げ、それを子どもたちに伝承していく。これが私が徳積財団を運営する真の理由です。

現代のような知識に溢れた空気をいつも吸っていたら、この意識の話は理解されにくいかもしれません。しかし本来私たちがずっと吸ってきた日本の空気は、伝承や伝統、文化やいのちといったご縁や徳風の空気でした。

時代の風向きが変わってきた今こそ、伝承の甦生に一緒に参画して取り組んでいく仲間を集めていきたいと思います。

徳の循環

私たちが生きている世界には目に見えるものと目に見えないものが合わさって存在しています。目に見えるものを見て、これはどうやってできたものかと考えると目に目えないプロセスがあってできていることがわかります。そのプロセスをどのようにしたのかというのは、後になって目には見えませんがそのことで目に見える世界がどのようになっていくのかもわかります。

これは人間でも同じです。人間が修養を積み、徳を磨けばその結果としてその人の人柄や人物が顕現してきます。いくら見た目をよくしても、内面的なものは誤魔化すことができません。つまり目に見えるものと見えないものは表裏一体であり、デジタルとアナログのように結ばれ循環しているものです。

人であればこのように人徳として薫ります。そして物であればそれは場の佇まいとして余韻があります。どのようなプロセスで取り組み、どのような精神で関わり、どのような生き方で向き合ったかはその場にいつまでも遺るのです。

私は古いものを甦生していきますが、手で触れているとそのものの持つ徳を感じます。それがどのようなものであったか、目ではわからなくてもお手入れをすることで直観していくことができます。

特に心を籠めて、心の速度で丁寧に取り組んだものほどそのものが放つ美徳に感動します。時に心が宿っているからです。古いものの中には、それぞれそのものを作り出す作り手の真心、そして一期一会に集まってきた素材たちの絶妙な調和があります。

適材適所に、一期一会に、そのいのちが調和し新しいものが甦生していく。まさにこれは徳の循環であると私は思います。

徳が循環する世の中にしていくためには、私たち人間の方がその徳の循環を意識として自覚している必要があります。これは知識では得られず、まさに智慧の世界の話であり意識の問題のことです。意識を高めるには、徳を磨く必要があります。そして徳を磨くための実践が暮らしフルネスの中にあります。

日々の意識をどのようにお手入れしていくか、いのちをどのように豊かに健康に仕合せにしていくか。シンプルなことですが今ではそれが難しくなっています。徳の循環を通して子どもたちが真に豊かで仕合せな人生が歩めるように見守っていきたいと思います。

人づ手の伝承

古来から知恵というものは、人づてで伝承していくものです。もしくは、自分の内面の何かがその場や文化と呼応して甦ってくるものです。それは単なる目新しさではなく、創生や創新、私の場合は起新といい、真に新しくなるということです。

この真に新しくなるというのは、真であり続ける新しさのことです。

例えば、伝統文化なども形式だけ受け継がれていくものと奥義ともいえる知恵が受け継がれていくものがあります。特に一つ一つの儀式なども本来は偉大な力があったものが、今では形だけ残ったというものも多くあります。現代は便利な機械が増えていますがから、むかしのような一つ一つの知恵を使って何かを丁寧にやるよりも簡単に機械のコピーやプリントなどのようにアウトプットできるようになりました。しかしそこには、本来あるはずの暗黙知は介在しておらず見た目だけのものになっています。

意味があったものを意味がわからなくなり、意味がないものにするというのをみんながやり続けるほどモチベーションが下がるものはありません。それがとても大切だと体感し、知恵であると実感しているのならそれは続けられるものです。それが失われていくから文化もまた消失します。

本来、大切だった知恵は知識に置き換えられて別の物になっていく。だからこそ、知恵を守り続けていくために子孫や人は代を重ねて常にその知恵と共に生きてきたのです。それが人類が永続するための使命でもあり、まさに叡智だったのでしょう。

この時代、かなりのスピードで知恵が失われているのがわかります。知恵を機械化して繁栄してきましたがそれは知恵の一部分だけを採取してそれを目先の利益に活用しているということでもあります。知恵は本来は、永遠のものですから本来の使い道で活用するときに真に活かされるように思います。

子どもたちにも叡智を伝承し続けられるように、人づ手の伝承を守っていきたいと思います。

知恵と陰徳

昨日は、無事に英彦山守静坊の甦生感謝祭を行うことができました。天候にも恵まれ、心地よい風が吹く中で皆さんと一緒にこの節目を過ごせたことが何よりも仕合せでした。

今回の宿坊の甦生は、一人ひとりの小さな力が集まってはじめて実現したものです。私一人ではどうしてもできるものではありません。大工さんはじめあらゆる職人さんたちも大変なご苦労をしていただきましたが、片づけや荷物運びなど大勢の加勢がなければ決して完成することはありませんでした。

目を閉じると、これまで甦生でお手伝いいただいた数々のシーンばかりが思い出されます。まさに皆さんのお布施の集積と和によって実現した宿坊になりました。奇跡のような日々に見守られ、心を合わせ気持ちを一つにして取り組めたことに何よりも感謝しています。

私は作務衣を着ていたり法螺貝を吹いたり、祝詞をあげたりするので新興宗教ではないかなどと批判されることがあります。しかし財団法人徳積財団は、もともと徳を積むことを実践するために設立されたものであり、さらにこの時代に徳の循環という新しい道徳と経済の一致を実現するために運営されているものです。ただし、徳は掘り起こされるものが多く、その中には伝統文化もあれば、先人の知恵などもあります。

それが時には、祈りの形態であることがあります。法螺貝もその一つでもあるし、祝詞やお経、托鉢であったり、神楽であったり、郷土玩具や郷土伝統食だったりもします。これは私は宗教ではなく、先人たちの暮らしの信仰であると思っています。むかしの人たちの文献を調べると、むかしはみんなで助け合いいのちを分かち合い暮らしを充実させていました。誰かが亡くなればみんなで亡骸を弔い、お経をあげました。病気になれば、それぞれで食べ物を分け合いました。自然災害があれば、みんな自分をあとにしても村の機能が回復するように工事をしました。

現代のようなお金で解決することができない分、みんなで知恵を絞って取り組んできたのです。その知恵は、その後の子孫たちに生きる指針や指南にもなり暮らしの知恵として信仰の一つにまで昇華されたのです。

知恵を使うというのは、知恵を守るということです。この知恵は知識とは違い、陰徳の高いものです。陰徳を積むことは、知恵を使うことと似ています。私は暮らしフルネスという実践を提案していますが、その中には信仰に近いものもたくさんあります。それで誤解されることもありますが、それでもはっきりと伝えたいのは子どもたちには先人の知恵という宝をそのまま譲っていきたいという願いです。

すぐに見返りもなく、評価もされないことであっても、歴史的に大切なものはずっと大切なものとして受け継ぎ、次世代へと繋いでいくことが知恵を守るためには重要です。

皆さんと一緒に、感謝祭でその体験ができたこと。倍音のハーモニーや、心を合わせて和の場を創造すること、そして同じ釜の飯を食べ伝統的な食を味わえたこと。一期一会の有難い時間になりました。

これからも真摯に、我が道、我が使命を磨いていきたいと思います。

ありがとうございました。

 

暮らしフルネス的な生き方

いよいよ本日は、英彦山守静坊の感謝祭です。昨年からずっと写真を振り返ってみてここまでの経緯を辿ってみました。まるで英彦山に呼んでいただいたように多方面から英彦山のキーワードをいただき、そして宿坊を甦生するように運ばれました。

私の生き方は、もともと天命に委ねるタイプであまり計画を立てることがありません。今、発生したことから組み立てて一期一会に学び続けます。過去からのプロセスの集積と繋がり、全体からのメッセージの声を聴いて今、何をやるのがもっとも全体快適になるのかと運を優先して徳を磨きます。

なので私自身が何が発生するのかもわからず、その時々に最善を盡していくために当たり前からもしれませんが常に充実した学びに満ちています。

時折、自分の分を超えたものに出会えばこれは大丈夫なのかと不安にもなります。しかし、天が命じたのならきっと大丈夫ではないかと覚悟を決めてあとは粛々と取り組んでいくのです。

意味はその時は分からなくても、きっと後から意味が着いてくるだろうと安心して一つ一つ、やり切っていきます。結構、ここ数年はさらに意味が分からないことが増えてきて世間一般的には意味のない(無価値)のことをやらせていただくことも増えました。

こんなことをして一体、誰が関心を持つのだろうかと思うものであってもいただいたご縁に忠実に取り組むだけです。

しかし一つだけ、いつも意味を感じるものがあります。それは「ご縁」というものです。ここで出会った、私のところまで来てくださった、有難いという「もったいない」という歓びです。

この出会いをもったいないと味わうからこそ、生まれてきた甲斐を自覚します。こんな体験をさせてもらえることの仕合せ、ご縁を感じられる歓びは常になくなりません。

だからこそ、味わおう、あとは何とかなるだろうと明るさが磨かれるのです。善いか悪いかではなく、豊かさに充たされます。まさに一つの暮らしフルネス的な生き方があります。

人生は二度とありません、この思い出もまた一期一会です。

長い歴史の縦の糸、そしてこの時代に生まれた横の糸、その結び目には美しい和があります。和を大切にして、心を紡いでいきたいと思います。