人類のリーダー

世界中で自然災害の猛威が広がっています。自然災害はそれまで人間が当たり前に生活していたことを一瞬にして破壊していきます。洪水、津波、地震、熱波に寒波、ついには隕石などあればどうしようもありません。

人類は目の前に明らかに危険が迫ったときでないと動かないということがインプットされています。時間をかけてゆっくりじっくりということにはあまり危機感がなく、突然来たことに対して対処するようになっています。これは昆虫も似ていて、急に現れると逃げれますがゆっくりやってくると逃げれないのです。

この辺はもう経験と直観で対応するしかないように思います。そういうとき、リーダーといった危機感が強く、大事な局面で大きな災害を予見し集団を救うという存在が出てきます。

本来、政治というものはそういう未来を見据えて危機意識の高い存在が人々の信頼を得て未来へ導いたのでしょう。最近は、政治と金というように既得権益を守るために存在しているようになり文明衰退期の様相です。しかし文明の問題と、この自然災害は関係はありません。むしろ自然災害が発生すればそれまでの文明の構造もパワーバランスもあっという間に崩れていきます。自然災害のリスクの方が、圧倒的にリスクになるのは間違いないことです。

だからこそ人類は本来は、リーダーをどのように選択するかは自然災害に対応できる歴史に精通し、人類の機微をよく理解し、環境に配慮でき、自然と共生する智慧に長けている存在を選んだ方が生き残る確率が高くなるのです。

インディアンの長老や、自然の道理に精通している経験豊富な知恵者などをリーダーにした方が生き残れると思うのです。今の時代は、経験者よりも知識者の方を重宝しそういう人がリーダーになります。しかし実際に事が起きる前、また事が起きたときにその知識では経験を補うことができません。いくらみんなで事実を知っても、知ることと知恵を持つことは全く別物だからです。

知恵を持つためには、知恵を持つための経験が必要になります。経験があるから知恵は維持されていくからです。その知恵を実践しているというのは、危機に備えていくということと同義です。先人たちはなぜ知恵を伝承してきたか、それは体験から得たものを忘れないようにしてくれてきたからです。

子孫として今のような時代、何が本来の人類の進む道かを見極め、子どもたちに生き乗るための知恵を伝承していきたいと思います。

天災ではなく天福

自然の猛威が増しています。台風14号が上陸しましたが、遠くにあっても暴風で激しく家が揺れてあちこち軋む音が聞こえて眠れませんでした。

天災は忘れた頃にやってくるという格言があります。これは常に天災は人間の活動とは別に発生しているもので地震も台風等の自然災害が多い風土である日本では日常的です。

しかし人間の方は、そんなことよりも人間の欲を優先しお金を稼ぐことに意識を奪われ経済活動の方を最優先にしていくうちに自然災害が身近にあることすら忘れてしまうのです。これが本当の災害の正体であり、自然災害よりも人間の災害であることも歴史が証明しています。

まだむかしの方が、自然の身近に住んでいつ災害が来てもいい暮らしをしていましたから災害が来ることを常に意識して人間の災害を気を付けていたように思います。建物も住む場所も、そして常備食も保存食も災害に備えているような生活です。慎ましいけれど、災害に備えて暮らしをととのえていたのです。

それが文明の便利さに酔い、栄耀栄華に浸るうちに自然を征服できると思い込みあっという間に自然の畏敬を忘れていきます。これが人間の中にある性質というものなのでしょう。人間という特性の中にこの災害が組み込まれているということです。

人間の災害といえば、思いつくだけでも身近に様々にあります。

例えば、すぐに誰かのせいにすることだったり、自分の問題として考えなくなったり、目先の事象ばかりに囚われて目的を見失ったり、長いつながりやご恩や感謝を忘れたり、目には見えないものを存外に扱ったり、比較競争、嫉妬、差別やいじめ保身などもあります。

こういうものが本当の災害であり、それが増せば増すほどに自然災害の猛威は増していきます。人間が自然であること、謙虚であることを忘れたとき、本当の災害がやってくるということです。

自然災害は正しく恐れているのなら、避けようとすれば避けられるものです。自然の動物や昆虫、そして植物たちも日ごろから自然と共生して暮らしていますから自然災害は日常の一コマにすぎません。人間のように忘れるということはほとんどないのです。

何をしていたから人間が忘れるというのか。それをよく見つめなければ人間はこの先も自然災害の猛威に晒されます。謙虚さを失う時、私たちは自然に人間の持つ性質を思い知らされるのです。

本来、建ててはならないところに自然を征服できたような建物を立てて、住んではならないところに住んでいます。そして食べてはならないものを食べ、取り過ぎてはならないものをすべて取りつくします。歴史を省みることをやめてただ目先の欲望に流されています。そうして忘れるのです。

天災とは本当は何か、これは天の災いではなく天の恵みであり天の教えで天福であるかもしれません。むかしの人は、天に背いていないかを確認するために伝統文化を見つめてきました。今一度、子どもたちにも天災を忘れた日常や環境を与えるのではなく、人間の性質を自覚して自らを磨くような暮らしを学ぶ場を与えたいと切に思います。

子どもたちが天福をいつも感じられるように、生き方を見つめて見直していきたいと思います。

真の経済

地球の気候変動が目に見えて激化してきています。もともと歴史を調べると、感染症の後には自然災害が来て、その後に人災が発生するということがわかっています。何度も同じことを繰り返していますが、なかなか懲りません。

人間は目の前に差し迫ったことが起きたことには対応できますが、まだいつ来るかわからないことには後回しにしていく傾向があるからです。そんな習性があることは誰もが分かっていますから、日々の暮らしをととのえることで準備をして気を付けたのでしょう。

これは健康維持にも似ています。病気になってからではなく、病気にならないような生活を送ることが健康でもあります。しかし現代の環境では、食生活をはじめ睡眠、運動などもそれを阻害する空気に包まれています。

そういう生活をしているうちに、さらに環境が乱れてきます。その環境をととのえようとすると、現代ではお金が邪魔してきます。環境が壊れてもお金でなんとかできるかのような対応、飢饉がきてもお金で解決するかのような対策、それくらいお金に依存しているともいえます。病気もまたお金さえあれば治るとさえ思いこんでいる具合です。健康維持にもたくさんのお金をつぎ込みます。

しかし実際には、食べ物がなくなったらお金では買えません。健康もお金では買えません。別にお金を否定しているのではなく、勘違いを否定しているのです。すべてお金があればという勘違いが、世界をいつまでも環境破壊に導き、災害を増やしているということです。空気や水、土や生き物を大切にすることはお金では買えません。それに人を大切にすることも思いやることも、さらには本当の情報もお金では買えません。

現代は知恵を学ぶのもすぐにそれをお金で買おうとします。具体的な実践をしなくても、お金があれば知ることができるからです。そして知ったものを買おうとするのです。知識はお金で多少買えるかもしれませんが、知恵は買えません。知恵は自分で実践しなければ使えないものだからです。知恵風のものをいくらテクノロジーで手に入れたとしても、それは真の知恵ではありません。そういう知恵風のものが、世界をまた破壊していくのです。

そろそろ世界でみんなで真の知恵と向き合って、みんなで規制をかけたり一人一人が自分を見つめてそれをやらないと決めないと文明の終焉に向かっていきます。

結局、実践しないで知識ばかりが広がるのはその前提にお金で解決をしようとしているからでしょう。そのお金が人間の欲と一体になっている以上、お金では解決しないのです。そのお金を徳にするような実践とセットになってこそ、人類は真の経済を持てるように思うのです。

私がブロックチェーンを使うのもこのためであり、徳の循環経済に挑戦するのもまた実践をする仲間を増やしていきたいからです。

子どもたちの100年後のためにも、今できることで丁寧に実践を積み重ねていきたいと思います。

人間というもの

人間は長い時間をかけて様々なことを体験してきました。少し前でも時代が今とは異なり、流れている時間も環境も違います。もっと以前、太古の時代にとなるとさらにすべてが異なります。時代時代に、環境や状況、便利さや時間などもすべて変化しますからその時代にしか体験できないことをしているともいえます。

今では、車も飛行機もインターネットもありますがむかしは動物に乗り、自然界の道具で合図を送り合っていました。人間の住んでいる地域も狭く小さく、一生をその環境の周囲で過ごしていたものもあります。大きく変化したのは、人間の移動範囲が広がり、繋がりも拡大したことでしょう。宇宙にも地球から色々なものを飛ばせるようになっていますから活動範囲を広げていくのはこの先も続くのでしょう。

しかし一つだけ変わらないことがあります。それは人の営みです。暮らしの中で様々な体験をして喜怒哀楽を味わう。そして人生という一つの体験を初めて終えていく。肉体を持ち、最後に死が訪れるまでの物語は誰にも等しく訪れますしこれは変わってはいません。

例えば、今のように台風を予測して災害対策をして不安で待っているとします。これが同じように台風を予測し災害対策ができるテクノロジーが古代もあったとしても人間の心境は変わっていません。家族を心配し、自然の畏敬を思い、生きていられることへの感謝を味わう。何百年も何千年も、どの時代も同じように同じ体験を続けてきました。

つまりはここからひも解けるのは、似たような体験を通して私たちは学び、体験を通して知恵を得てはそれを忘れないようにまた同じ体験を続けていくのです。テクノロジーによって乗り越えられたように見えても、実際には人の心は変わっていません。そして当然、幸福も喜びも仕合せも変わっていません。悲しみもまた苦しみも変わらないのです。それが時代という形を換えては、感じ方が変化しているだけともいえます。

だからこそ人間は、時代時代に原点回帰して本来の目的を思い出すことで協力し合って生き延びていく必要があります。どうお金を得ようかや有名になろうかではなく、どう生き残るかということを学び続けることがいるのです。

当たり前に生きられるようになった気がする今の時代だからこそ、どう生き延びるのかということを世界は協力して取り組んでいく必要があります。それは同時に、どういう生き方にしていくのかという目的に取り組んでいくということです。

環境や時代に流されず、人間としての本質をよく見つめ直すことがこの先の時代を生き延びる知恵になります。

子どもたち、子孫のために徳の循環する経済を甦生させ私の役割を全うしたいと思います。

伝道の歴史

現在、日本の法律によってあらゆるところに歪が出ています。それが産業構造に大きな影響を与えています。規制したことによって、ある人たちは既得権益が出ますがそれによって社会や自然にも大きな害が発生してもその声が既得権益の大きさによってつぶされていくのです。

これは環境問題もほとんど同じですし、身近では空き家の問題や耕作放棄地の問題も同様です。実際に病気であれば、病気になるような環境があるなかでそれをなんとか治療しろという具合ですから根源的には治癒することはありません。

対処療法で少しうまくいけば、国がそれを取り上げて莫大な費用をかけてそれを標準化しますが根本的な解決になっていないためまたすぐに次の問題が発生し違う既得権益を得る構造が発生し元の木阿弥です。

空き家で例えれば、新築を建てることを国も不動産も建築業者も優先します。すると新築を建てるたびに空き家が増えていきます。当たり前ですが、作るから前のが使われなくなるのです。そして中古物件といっても、現代住宅は長期的に使うようにではなく使い捨てるようなつくりをしていますから直すにもきちんと直せません。費用も高く、新築を建てる方がいいとなるのです。

これは消費文明の特徴であり、大量生産大量消費することで経済を発展させてお金を常に稼ぎ続けなければ国家が維持できないからです。自転車操業のように走り続ける仕組み、そしてそれを支えるための法律、そういうものがある中で、自転車を止めましょうといっても誰も止めません。その自転車を工夫してうまく走らせるようにみんな知恵を絞ります。前提となっているそもそも自転車を走らせるのを一度、止めてみようという選択肢はないということです。前提になっているものは無視をするというのが歪みの実態でもあります。見たくないものはみんなで見ないようにする。暗黙の了解でそれは無視して通り過ぎるようにする。そのための知恵を絞っています。

しかしいつまでも人類全体で本当はそんなことに知恵を絞るのがいいことなのか、それが最先端だと注目されることが果たしていいことなのか。

人類本来の知恵は、過去の歴史に学び、みんなで今を決断することだと思います。そのために必要な知恵は、気づいた人が決断した生き方をして背中を見せることです。一人が気づけば、さらに別の一人が気づきます。そうやって気づく人が増えていけば、次第に気づく人たちが根源的な問題を発信しはじめます。

最初は既得権益がある人たちから邪魔者扱いされますが、それも時代の限界がきますからそうなったらみんな方向転換をします。問題は、時代に左右されず本当のこと、本質をやり通す覚悟です。

対処療法を止める方法は覚悟しかありません。そして覚悟は勇気が必要です。勇気を出すことで人は方向を何度も換えてきました。そういう先人たちの生き方を倣い、今の時代だからこそ子孫や未来のために今しかできないことを一人一人の立っている其場所で実践していくのです。

私も実践を深め、一人正対して取り組んで気づきを伝道していきたいと思います。

経営と実践

会社を経営していると、経営者とはこうあるべきという話をあちこちから聞くことがあります。それぞれに経営論はありますが、その一つがプレイヤーかマネージャーかというものがあります。管理するのが経営だから、実際に実行させるのは部下にさせればいいというものです。

私はむかしからいつまでも現場で実行する方が多かったのでこの辺はあらゆる人たちから経営者として他人にやらせた方がいいといわてきました。何でも自分でやるから育たないとか、自分がやるから全体がおろそかになるなどです。

しかし私はもともと初心というものを定め、理念を実践するということを優先した経営を志していますから実践というものをしないことの方が経営効率がいいかどうかよりも問題で決めたことを自分でやらなければ意味がないから実践にこだわっています。

こんなことをやって意味があるのかといわれても、他に大事なことがあるのではないかといわれても他に大事なものもあるけれど実践することがもっとも大事なことだと取り組んできたのです。その結果として、今があります。

例えば、いのりというものがあります。他人にいのってもらっていたらいいというものではありません。いのりは自分で実践してはじめていのりになります。他にも、日々の片づけや掃除、お手入れなども自分でやっていることに意味があります。もちろん、一人ではできないことや日々の仕事があるときなどはどうしても協力者のお手伝いが必要ですがそれもまた実践ですからみんなで一緒に実践して取り組むことに意味があります。

そもそもこの実践というものは、修行でもあり修養でもあり、志を実行するという行為です。それをせずに経営をするというのは、そもそもその志は何だったのかということが疑問になります。

志があるから、道を歩みます。その道を歩むというのは、自分で実践するということに他なりません。自分で実践することなしに道を自分で歩んでいるわけではありません。今は何でもお金で買えます、そして経営者ほどすぐにお金を買おうとします。お金で買って運んでもらおうとしますが、そんな便利な方法で果たして道が実践できるのかということです。

道の実践は、自分で歩んでこそです。

そのためにも、手間暇をかけ、丹精を籠め、面倒だと思うことでも自ら率先して取り組み、時間がかかっても、苦労をしても、自分で決めた志に忠実に誠実に取り組んでいくことが大切なことのように思います。

経営もまた実践の一つですから、自分で決めた道を丁寧に歩み取り組んでいきたいと思います。

生き方を磨く

昨日から英彦山の守静坊に入り、座禅を組みました。改めて、静かに振り返ってみるとこの宿坊との出会いから今までのことが甦ります。ずっとどうしたいのかと心で耳を傾けて、一つ一つを丁寧に磨いてきました。

古いものが語るのは、歴史です。

本当の歴史は言葉にならない声を聴くことであり、その思いを継いだときに顕現します。どのような山での暮らしがあったのか、先人たちが大切にしてきた生き方に思いを馳せます。

私もこの時代に生まれ、この時代の空気を吸ってきました。価値観もこの時代の人間です。

しかし本当に大切なものは何か、いつまでも変わらないものは何かと向き合うとそこに本当のことが一本しっかりと立っていることがわかります。

それは、生き方です。

まだまだ私も知らないことばかりで、学ぶことが山ほどあります。

しかしこうやって宿坊を残してくださり、宿坊を通して伝承できることに深い喜びを感じます。

この先も丁寧に磨き、悔いのないように自分の本懐を生きていこうと思います。

道を歩むということ

今日は、早朝から私の尊敬する禅僧とともに座禅をご一緒するご縁がありました。静かに言葉を交わさずに坐し、只今の心になっていく。そして感謝と共に先人やご先祖さまたちへの御供養と御礼をし参拝する。自然に心は落ち着き、穏やかな風に包まれます。

日々の暮らしをととのえていくはじまりの朝に、静かな時間が持てるということはとても仕合せなことです。私が綴っているブログも、書き出す前に前日にあった出来事を振り返り、内省し、それは一体何だったのかということを学びます。

これは自学自悟です。

本来、学問というのはすべては志があって道が始まります。つまり何のためにやるのかということを忘れずに、日々に取り組んでいくからこそ道の中にいるということです。人は道から外れることは簡単で、あらゆる寄り道をしながら自分にしか与えられていない道を闊歩していきます。

一生は一度しかありませんが、人はみんなこの初志という目的、何のためにやっているのかということを忘れます。時代に流されて迎合していくうちに、純粋な自分の最初の志を失っていくのです。それを忘れていない人は、非常に純度の高い想いで生きていきます。

そしてそういう人の周りには、いつも陰ひなたから支えてくれたり応援してくださる人たちが出てきます。その人たちもまた、その初志を貫徹してほしいと願い、同時に自分自身もそれを実現したいと祈り闊歩していくのです。

道は無窮です。

そしてこの道をもっとも顕すものは自然です。自然とかいて、かむながらと読むという言葉があります。道はこの今も、この先もずっと続くものです。終わりもなければ始まりもない、ずっと道があるだけです。この道は、私が途中でいなくなっても続きますしまた次の人がその道を歩みます。唯、生きるだけの道です。しかしその道は、決して一人ではなく同行二人です。つまり心が常に共にあります。

この先にどのようなことがあるか、それはわかりませんがこの道を歩んでいくことを決めた初心が共にあるからこそいつまでも道を歩むことが豊かになります。

何のためにやるのか、それを常に思い出しては磨き直す。そのような生き方をこの先も続けていきたいと思います。

あるがままの心で

最近は、特にスケジュールに管理されることが増えて時間というものを忘れるという体験が減っているように思います。毎日の予定、毎週の予定、毎月の予定と目白押しです。時間に追われるような生活をしていると、時間を気にするあまりにその「今に集中」していくことが難しくなるものです。

つまり「今」というのは、時間を忘れているときに感じるものです。

私たちは時というものも、過去、未来、現在などと時間の流れで認識しています。しかし実際には、そんなものはなく私たちはこの今の連続によって生きているだけです。過去に会ったことも、今を刷新することで過去も換えられ、同時に未来までも換えていきます。これは今がどうかというだけで時間は関係がないというのが本来の今であるということです。

今を深く味わうことは心に残ります。心は常に今と共にあります。そう考えてみると、心は時間とは関係がないところに存在しているということです。常に心は変化に感応し順応して記憶していくということです。

だからこそ心を生きるというのは、時間を生きるのではなく今を生きるということになります。

今を生き切る人生というのは、あるがままの心で生きる人生ということです。

あるがままの心は、自然に生きているあらゆるいのちの現象と同じです。すべての生命は生き死にを含めたあらゆる事象のなかであるがままの心を謳歌します。木々が風に揺られ、鳥が歌い、小さな虫たちも躍動しています。それは心が感じるままであるということです。

頭を使うことも現代社会では必要でそういうように教育され文明に適応してきましたが、だからこそ何のために生きるのかという原点をしっかりと掴んでおきたいと私は思います。

子どもたちがこれからの未来に、希望と感謝で生きていけるように今を大切に暮らしをととのえていきたいと思います。

御蔭様の文化

私たち日本人の感性は、御蔭様の文化で磨かれてきたものです。この御蔭様というのは、光でいうところの闇、そして表でいうところの裏です。そういう目には見えないところ、目に映らないもののハタラキを観て私たちは感性を研ぎ澄ませてきました。

つまり、それが場になり、間になり、和とも変化してきたのです。これらのハタラキは、目には見えませんが感じようとすればそのハタラキは実感できます。

例えば、古民家の陰影というものを感じていれば常に目には見えないハタラキがあることを直観できます。他にも、丁寧に炭火で調理すればその御蔭様を感じますし、水もお水として大切にお祀りしていればそのお水のハタラキを感じます。そういう日々を過ごしていく中で、如何に裏側で陰になって大切な役割を果たしてくれているのか。そういうものを実感し感謝するのです。

これを農業でいえば、土のハタラキです。土が善く働いているからこそそのうえで立派な野菜が育ちます。土は目には見えませんが、土の状態がいいからこそ表面の活動は活発するのです。

またこれを人間でいえば、陰ながら支えてくださっている存在。例えばご先祖さまや家族、そしてその土地の風土や歴史、文化、さらには祈りや助け合いになどのハタラキによって自分というものが活動できます。如何に裏で陰で支えてくれているのかを知れば自ずから御蔭様に感謝できます。

この御蔭様というものは、足るを知るという価値観と思想であることがわかります。

今あるものに感謝するところから始めるということ。あれがないとか、これが不足しているとか不完全だとか言う前に、今、この状態であることが如何に有難いことかというところを起点にして自分たちがどう振る舞うかということを決めていくのです。

発展というものは、決して新しく拡大し不完全なものを完璧に仕上げていくということではありません。悠久に雄大に活動する自然のように、不完全を完全として循環してそれぞれの小さなお役目をみんなで支え合っていくことが真の発展だと私は思うのです。

そのために私たちはその御蔭様の感性を磨いて日本という風土で暮らしを研ぎ澄ませてきたのです。私が暮らしフルネスの中で、味わうのもまたその御蔭様の文化を活かした日々に感謝してどうハタラキをととのえていくかというところに由ります。

子どもたちがこの先の未来を生きていく上で、失ってはならないものは先人から大切に守られ伝承してきた生き方、磨き方、味わい方、暮らし方、ハタラキ方です。

子ども第一義の理念を守り、憧れる懐かしい未来を実践していきたいと思います。